3・カップのナイト(後)
津田夕貴は至って普通の男子大学生、そして内気なゲイである。
歯科医の父と歯科衛生士の母の間に生まれ、一年前の春から父が通っていた有名私立歯科大学に入学し、日々歯科に関する専門知識を学んでいる。ちなみに成績は今のところ、そこそこ良い。
そんな彼が一目惚れしたのが、そう。
今、こちらを上目遣いで見上げている華奢な大学生_____北条里仁である!
「あっ、えっ、あはい、なな、なんですか?」
やばい、と津田の背を冷たい汗が流れる。
予想だにしていなかった最本命からの声かけという、津田の人生史上五本指に入るほどの衝撃イベントが唐突に発生してしまったのだ。
思わず取り乱し、視線はあたふたと四方を彷徨い、挙句吃り散らかす始末。
好きな子の前ではカッコ良く居たい!、という小学生レベルの考え方に心底を支配されている津田は、こういう場面でアドリブが効かなくなってしまうのである。いと哀れなり。
すると北条は耳の上にペンを挟み、両手をパチンと合わせた。
「レポート終わってるならお願い! 教えて!」
「あ、う、うん。いいよ。何を教えれば……?」
「ここ」
コンコン、と北条がペンの先で叩いたのはレポートの一部だった。
津田は取り敢えずそこら辺にフラペチーノを置き、北条の真正面に立って反対側からレポート用紙を覗き込んだ。地味な特技だが、彼は逆さまでもある程度字が読めるのである。
(うぅん、意外と字汚いな……てか読めない……あでも。そういうとこも可愛いかも。なんかちっちゃい子が書いた字みたいに見えるな……やっぱり可愛い……で、どこが分からないんだ……?)
ミミズが這ったような字と言えなくも無い、殊の外汚かった北条の字を読み解いていくと、どうやら彼は切歯結節と中心結節の説明の部分で悩んでいるようだった。
これの何が分からないんだろう、と思った瞬間、北条がぐっと身を乗り出し_____つまり、目を細めてレポートを解読していた津田との距離が一気に縮まる。
同時にふわっと、何かの芳香が津田の鼻腔をそっと撫でた。
(……! 何この匂いめっちゃ好き!! なんだこれ、香水? いや、そんなキツく無いし、なんだろうこの……え、体臭? こんないい香りなの北条くん? シナモンとバニラを混ぜて、そこに若干ジャスミンをブレンドしたかのような軽やかで深みのある香り……嘘でしょ? 最高過ぎるよ訴訟しちゃうよ北条くん)
北条の頭は津田の目と鼻の先。
津田の心臓は安静時心拍数を遥かに超える速度で拍動している。
(おそらく)香水を付けなくても大優勝な香りを漂わせる北条に、なんとか理性を保った津田は改めて質問することにした。
「切歯結節とか、どこが分からないとかある……?」
「えとね、何でこの二つが違う分類なのかわからん。だって両方とも突起に歯髄が入り込んでるんでしょ。だったらまとめた分類でもいいじゃん」
「はぁ、なるほど」
ぶっちゃけそんなん考えずに覚えればいいだろ、というのが津田の本音である。
しかしそれで悩んでいる好きな子に、この言葉を丸々投げかけるほど腐っていない津田は、脳内の数少ない解剖学ノートを捲ってそれっぽい理由を探した、
ちなみに、歯髄とは歯の中に入ってる神経や血管の塊を指す。
「まずね、切歯結節は基底結節の発展形なんだよ。基底結節が円錐状になってて、そこに歯髄が入り込んでる状態。こっちは放置しておくと歯列不正の原因になるんだけどね……中心結節は、小臼歯とか大臼歯とか、咬合面がある歯……って言ったらまた違う意味になっちゃうけど、まぁ大体そういう歯にしか現れない。こっちも歯髄が入り込んでるけど、できるプロセスが違うんだよね。だから分類が違うんだと思うよ」
「……う〜ん」
納得がいったのかいかないのか、微妙なラインの唸り声。
しばらく宙に視線を漂わせ、何やら思案していた様子の北条だったが、割とあっさり考えるのをやめてレポートに何事かを記述し始めた。
覗き込んでみると、今津田が言った内容と一言一句変わらないものを書き込んでいたので、ちょっとほっこりした気分になる津田。別に北条でなくても、教えた内容がそのまま活きるのは普通に嬉しいことなのである。
そうして数十秒、北条が書き続けるのを見ていた津田だったが。
お互い無言の空間なので、段々と居心地が悪くなってくる。
なんだかずっと書いているのを見続けるのも変だな……と思った彼は、改めて教室を見回した。知り合いにバナナフラペチーノを渡してやろうと思っていたが、案の定皆帰ってしまったようだ。
(しょうがない、捨てるか……あ)
ここで、恋愛脳津田の脳裏に囁く声が一つ。
『これを北条くんに差し出してぇ…ぇ…ぇ……仲良くなるぅ…ぅ…ぅ……チャァンス…ス…ス……』
ほぼほぼ、悪魔の囁き。
手に持った容器と、レポートに顔を近付けて集中している北条の後頭部を交互に見る津田。いやいや流石に一回話しただけの奴から飲み物受け取るか?、という疑問が湧いて出る。
しかし、これは千載一遇のチャンス。
せっかく差し出せるものを持っていて、合法的に(違法なんてものはないが)北条と会話することが出来ているのだ。いくら奥手といえど、この機を逃すほど津田は臆病者ではなかった!!
「あ、あの……北条くん、実はこ「おー津田! フラペまだある!?」」
綿密な計算のもと、出来る限り当たり障りのない言葉を選んでフラペチーノを北条に差し出そうとした津田の動きが、それこそ石像並みに固まった。
ギチギチギチ、という効果音の出そうな動きと共に津田の首が回る。
講義室の入り口から声を掛けてきた下手人は、他でもない菅原であった。
めちゃめちゃ笑顔で、しかもご丁寧にこちらに手を振ってまで合図をして来ている。そのせいか、レポートにカリカリと記入していた北条も、緩慢な動きで菅原の方へ視線を向けた。
声掛けのタイミングを絶妙に邪魔され、頬を引き攣らせる津田。
彼が手に持ったフラペチーノを見ると、菅原は嬉しそうに駆け寄ってそれを受け取った。本来北条に渡すはずだったドリンクだ(元はと言えば菅原のであるが)。
ノータイムでそのストローに口をつけ、呆然とした津田と困惑顔の北条の前でズルズルと飲んだKY野郎は、指で口元を拭うと楽しそうに話し始めた。
「いや〜会議出てみたらさ、教授もコレ持っててさ〜。なんか会議って言ってもラフな感じでいいらしいから、俺もこれ持って来て良いってことになって〜」
「……」
津田の表情から徐々に笑みが消えていく。
やがて無言のまま表情そのものが無になると、菅原は気付いた。
何やら悍ましいオーラを漂わせ始めた津田の横で座っていて、こちらを訝しむように眺めている学生が件の北条里仁だということに。
あ〜なるほどね、と大体の事情を把握した津田。
戯けるように両手を広げ、肩を竦めながら笑顔で津田に囁く。
「ごめぇ〜ん、お邪魔しちゃったぁ」
「とっとと失せろ、殺す」
「ひえ〜」
ほとんど聞こえないくらいの大きさで漏れた津田の怨嗟の声を受け流し、菅原はこれ以上邪魔をしないようにそそくさと踵を返した。その背中に尖った視線の剣が刺さりまくるが、それだけでは人は殺せない。
滞在時間僅か一〇秒という、ハリケーンもびっくりな速度で立ち寄って災いだけ残し去っていった菅原の背中を睨みつける津田は、内心大号泣していた。それはもう、エジプト神話のネフティスすら驚くほどの滂沱の涙である。
変に遮られたせいで仕切り直しも出来ないし、肝心のフラペチーノを奪われた(※取り返された)ためこれ以上の成す術がなかった。津田はガックリと肩を落とし、気恥ずかしさから北条の方を見ないようにして立ち去ろうとする。
すると、一連の流れを見ていた北条が残った津田のフラペチーノに気付き、あっと声を上げた。
「それ、ストバの新しいやつ?」
「ぇ、あ、うん。バナナのね」
「いーなー……ちょっと飲みたいな!」
「エッ!?」
思わず声が裏返るほどの衝撃が津田を襲った!
勢い良く北条の方に振り向くと、彼の方をじっと見つめる大きな瞳をまともに見てしまった津田。
ちょっと不健康疑うくらいの白く滑らかな肌に、うっすら桜色に染まる目元の涙袋。極め付けに、自然に口角が上がった薄い唇に囲まれる口、その左側口角にある小さな黒子。
余りにも(津田には)強力すぎる顔面パーツと、無邪気な言葉の暴力が怒涛のように津田の心へ押し寄せる。
捨てる神あれば拾う神あり。
誰の何の諺か知らないが、この時津田は先人の教えを信じることに決めた。
この間、僅か数秒。
津田はオーバーヒートから回復し、一連の雑念を一切表に出さないように気をつけながら、というか寧ろ喜びから来る微笑みを携えて北条へフラペチーノを差し出した。
やった〜、と無垢な子供のように笑い、両手で色鮮やかな飲み物を受け取った北条。
見るからにワクワクした様子なので、津田の口角も制止を振り切って上に上がっていく。
(全然クールさの欠片もない……ていうかこれもう子供でしょ……えなに、俺ってショタコンだったのかな……いや、北条くん以外にはぴくりともしない……じゃあやっぱり北条くんが好きなんだ俺って……)
そんな邪念に支配されている津田は、聖母ばりの慈愛の笑みを浮かべてストローの先端が北条の口元に近付いていくのを眺めていた。
しかし。
そこでふと、ある気付きが齎されてしまう。
これ、北条くんが飲んだストローで俺も飲めば、間接キス成立じゃないのか。
(きゃああああああああああああ!!!!)
まるで大学生の成人男子とは思えないほど幼稚な発想に辿り着いた津田だったが、奥手な恋愛初心者にとっての負荷は非常に大きかった。楽しくお喋りする、手を繋ぐ、一緒にランチする、なんか水族館とかに遊びにいく、などなどそれらの将来的な計画をすっ飛ばしての間接キスである。
本日何度目かのブレインオーバーヒートを起こしかけるも、意思の力を総動員して何とか耐えようとする。しかしそんな彼の心中など知る由もない北条は、極々普通といった感じでストローを咥えた。
ぱく、という漫画の効果音が北条の頭上に浮かんで見える。
まるで氷像のように微動だにしない津田の視線の先では、北条がそのシュッとした頬を引っ込ませて、ちょうどバナナフラペチーノを吸い上げている。
好きな子が飲み物を吸う姿をガン見する、という何とも気持ち悪いシチュエーションではあるが、ズルズルと粘っこい液体が北条の口に消えていくのをしっかり見届ける津田。
意外に男らしく出ている北条の喉仏が上下するのを見て、あ〜嚥下してるな〜と微妙に歯科学生らしいことを考える。先行期やら準備期やら、嚥下の五期という単語が脳内を飛び交う。所謂、職業病だ。
好きな子が、唇を窄めて液体を吸い上げている。
一瞬だけ「あ、これアレに似てるな……」と性的な目で見そうになってしまったが、あくまで自分の好意は純情_____つまり純愛と信じている(純愛厨の)彼は頭を振ってその考えを振り払う。そう、彼にとっての北条への想いは極めて純粋なものなのだ。
まるで小学校低学年の男女のように初心で、幼少期に少女漫画ばかり読んで育った津田にとって恋愛対象を性的に捉えるのは極めて禁忌なのである。例えるなら、彼の想いは白一色のキャンバスのようなもので、そこに性欲という黒いインクが一滴垂れてしまうと瞬く間にキャンバス全体の調和が乱れ、結果的に想いが穢れてしまう。そんな風に思っているのだ。
そりゃあ確かに津田も人間なのでそういった感情を抱くこともあるが、その度にこうやって無理やり黒いインクを押し留め、好意と崇拝の線引きを曖昧にすることで耐えている。
キスはギリセーフ!でもそれ以上のえっちなことはアウト!
清楚系女子が上っ面で言うようなポリシーを、心の底から厳格に守っているのが津田夕貴なのである。
さて。
津田が理性を全発動している最中に、北条は「ちょっと」とは言えないくらいの量のフラペチーノを飲み終わったようだった。
「んっ……はぁ、これ美味しい! はい、ありがとう〜」
口から離したストローと桜色の唇に、怪しく煌めいた唾液の橋が架かる。気付いた北条は何の気なしに人差し指で口元を拭うが、それを見た津田は、まるで絶世の美女がこちらを誘惑しているかのような錯覚を覚えた。仕草とは知らず知らずのうちに人を狂わす可能性があるので、皆も気を付けよう。
何だかこの数分だけで入学してから今までの分の幸福を遥かに上回る量の刺激を受けた津田は、少し足元がフラつく感覚を覚えながらフラペチーノを受け取る。もちろん、視線はストローの先……北条の口に含まれたために、ぬらぬらと光を反射している部分にがっちり固定されている。
するとそれを見た北条は、何かを感じ取ったのか申し訳なさそうに言う。
「あ……ごめん。えへへ、美味しかったからつい、いっぱい飲んじゃった」
「うっ!……うん、全然大丈夫。と、トールサイズだから、一人で飲み切れる気がしなくって。北条くんが飲んでくれたから、全部飲めそう」
「そっかぁ。ストバ、よくいくの」
「あんまりかなぁ。たまに美味しそうなのが出たら行くけど」
「ふ〜ん。オレもね、夏のやつとクリスマスは大体“当たり”だからのみにいくよ。勉強もたまーにするけど、うるさくて集中できないんだよね〜」
「へ、へえ。確かにクリスマスのは美味しそうだよね、大体」
「うん」
(あれ……俺、北条くんと会話してる‥‥?)
会話のラリーが二回を超えた辺りから、ちょっと感動する津田。
憧れの、というより愛しの北条とまともに会話出来ている事実に震えながら、おっかなびっくり当たり障りのないやり取りを続けていく。
今までに飲んだストバのドリンクで何が一番美味しかったかを軽く議論した後、そわそわとレポートをチラ見し始めた北条の動きから会話の辞め時がやってきたことを悟る。
(もう終わりかぁ……いや、でも。まさか菅原がこういう形で役に立つとは思わなかった……ありがとう菅原。ていうか、こう見てると北条くん色々分かりやすい癖があるんだよなぁ……それもかわいい!)
例えば、話す時に少しゆらゆらと揺れたり。
例えば、常に周囲に意識を配っているせいか視線が動きまくったり。
例えば、笑うときに眉毛がへにゃりと曲がる人懐っこい顔になったり。
この数分の間でガッツリ人間観察を行なった津田は、それらを心のメモ帳に全てをしっかりと刻み込む。そっと胸の中に収納し、ホッと小さなため息を漏らす。
未だ身体に漲る、胸から湧いて出る多幸感のような感情の流れを感じながら、バナナフラペチーノを持って北条の方へ向き直った。
どんな言葉が良いか一瞬悩んだが、やはり別れは簡素であるべきだろう。
「じゃ、レポート頑張って。バイバイ」
「うん。ばいばい」
小さく手を振る北条に、サッと右手を挙げて爽やかな感じで立ち去る津田。
講義室を出るまで気を緩めず、姿勢をピント張ったまま入り口のドアを抜けた直後、脱力感からその場にへたり込む。
胸に手を当ててみると、心臓の鼓動がドラムの音ぐらいの振動として伝わってくる。
自分の今の血圧がどんなものかを想像しつつ、落ち着くように目を閉じ、大きな深呼吸を行う。頭の中には北条が浮かんでいるが、それに慣れるための練習のようなものだ。
話すたびにこんな有様になっていては、津田に寿命が大分縮んでしまう。
ふう、と肺の残気を吐き出す。
ふと右手に持ったフラペチーノを見ると、先程の北条の様子が脳内に浮かんで来た。
ポッと顔が赤くなるのを感じるが、心臓の鼓動は少し速くなっただけで先程までは暴れていないようだ。意外に慣れが早い自分に驚きながら、津田はストローを口元へ運んで行った。
一瞬の躊躇の後、ゆっくりと口に咥えてバナナフラペチーノを吸い上げる。
バナナの味とは別に、何だか苺のような甘い味がした。
……ような気がした。
北条はレポートをしながら苺味のチョコを食べていました。