2・カップのナイト(前)
津田夕貴は至って普通の男子大学生、そして内気なゲイである。
歯科医の父と歯科衛生士の母の間に生まれ、一年前の春から父が通っていた有名私立歯科大学に入学し、日々歯科に関する専門知識を学んでいる。ちなみに成績は今のところ、そこそこ良い。
そんな彼が一目惚れしたのが、そう。
津田の視線の先で、歯牙のスケッチレポートに手こずっている北条里仁である。
津田と北条のファーストコンタクトから早二週間。
歯学部の学生は皆、朝から夜まで毎週同じスケジュールの講義を(ほとんど)強制的に受けさせられるので、まるで高校生のような変わりない日常が延々と続いていた。
正直に言って朝の九時に集合し、夕方の一八時まで講義が連続的に続くのは地獄という他ない。しかし、そんな地獄の状況すら楽しんでいるのが、恋愛奥手野郎の津田であった。
(ふふ、ふふふっ……講義があればあるほど、俺の視界に北条くんが入る時間が長くなる……あぁ高い学費払ってる甲斐があるなあ!!!)
津田が陣取っている席は、講義室の入り口付近_____つまりアーチ状に並んだ長机の中央最奥にある。基本的に年度はじめに陣取った席から動くことはないので、学生の多くは一年間同じ席で過ごすことになるのだ。
そんな津田の近くには、友人である菅原劉星や岸辺来斗らが座っており、その二列前の少し左側には件の北条里仁が属するグループの面々が座っている。
(やっぱこの席確保して正解だったなぁ……ああ悩む北条くん可愛い……)
ちょうど津田の席からは、レポートに集中する北条の横顔を斜め後ろから拝むことが出来る。しかも本人にバレないくらいの角度だし、黒板を見るふりをしながら横目で愛らしい横顔を鑑賞できるという穴場スポットである。
(……っと、レポート仕上げなきゃ)
今日の授業ではまるまる二コマかけて形態異常歯の授業が行われ、夕方の一七時までに全ての形態異常歯のスケッチと説明を整理したレポートを解剖学講座に提出しに行かなくてはならないのだ。
ちなみに中学時代から美術部に所属していた津田にとってスケッチは容易く、教科書や講義資料も一通り揃っているため、レポートは難なく書き進められている。
現在時刻は一五時ピッタリ。
レポート用紙が五枚目に突入したものの、残りはプロトスタイリッド(下顎大臼歯の異常)やタウロドント(臼歯歯頸部の延長)について纏めるのみとなった。
時折、北条の少し幼さを残した端正な顔立ちに目を遣りながら、それを糧に猛烈な勢いでペンを走らせていく。カッカッカッカッ、とボールペンの先が紙の上を滑走する音が教室中から響き、ある種の調和の取れた雑音が集中力の補助をしてくれている。
そのように作業を続けていると、一〇分もしないうちにレポートを仕上げることが出来た。周囲を見渡すと、既に成績上位層の学生らは提出を終えて戻って来ているようであり、相変わらずの早技に感嘆する。
こういうレポートは、成績の良い人ほど早く仕上げると相場が決まっているのだ。
ふと横を見てみると、菅原も同じタイミングでレポートが仕上がったようで、角をホッチキスで留めてからパラパラと捲って確認しているようだった。
(……あ、ホッチキス留めなきゃ)
津田もレポートに不備がないか確認した後、アイコンタクトで菅原に許可を取ってホッチキスを借りた。左上を留めて表紙に名前を書けば、文句の付け所のないレポートの出来上がりである。
そのまま、一三階にある解剖学講座へとレポートを提出しに行こうと立ち上がると、菅原も一緒に立ち上がって津田と一緒に講義室を出るべく歩き始めた。
講義室内はペンが滑る音で支配されており、喋る人がほとんど居ないために悪目立ちすると思ったのか、口に手を当てつつ、菅原が津田に囁く。
「お前、めっちゃ北条くんのこと見てたよな」
「……なに。別にいいだろ、減るもんじゃないんだし」
「うわー重てえ愛だこと。しかも北条とか、どこが良いんだか」
「うるせえな顔とか性格とか仕草とか全部可愛いだろうがよ」
「えぇ……? あんなん割とどこにでもいるだろ」
菅原が肩を竦めながら、後ろの方に頭を傾ける。
津田はその発言と仕草にイラッとしつつ、教室を出てから、少し怒気を孕んだ声で菅原へと言い返す。
「あんなに綺麗な二重幅の美少年なんか見たことないね。それに北条くんは全てが完璧なんだ、お前如きが貶して良い存在じゃないんだよだから黙ってろ菅原劉星」
「イケメンて……ちょっと背がちっちゃくて、顔が童顔なだけだろ。正直、俺はアイツになんの魅力も感じないんだけど……頭悪いし」
「おうわかった言ったなお前? 絶対北条くんに話しかけんなよ」
「あぁ、うん。まあ一生話す機会ないだろうしな(笑)」
「チッ。せっかく北条くんで元気蓄えたのに、お前の発言で萎えたわ。マジでお前責任とって紅茶とか奢れよ」
「やだね、今金ないんだ」
「バイトしろよ!!!」
「してるよ!!!」
こんな言い合いを何度も繰り返す二人は、こんなんでも友人である。
ちなみの津田は結構早い段階で菅原に『北条里仁が気になりすぎてどうしようもない件』打ち明けており、ゲイとは思われていないが、人一倍特別な感情を持ってるんだな〜程度に思われている。
普通だとリアルでこうした個人的事情を打ち明けられる友達は限られてくるので、津田は割と自分のことをラッキーだと思っている。それに菅原は(今の所)同性愛に対する極端な嫌悪感を示しているわけでもないし、津田と北条の関係性(※まだほとんどない)に干渉してくる様子もないので、津田も気を許していた。
(……でもこいつ、嫌な癖があるんだよなぁ)
菅原はいい奴だと、津田は思っている。
明るいし、話は面白いし、しっかり者だから頼り甲斐がある。
おまけに勉強もかなり出来、津田より毎回上位を獲っている。
しかし、それらの要素を差し引いても津田が唯一納得できないことがある。
(こいつほんと……まあいいや、考えるだけ無駄だし、せっかく長続きしてる友達をこんな『疑惑』程度で切り捨てるのもなんか、俺が悪者みたいだし……)
解剖学講座へ続く階段を登りながら、チラッと横目で菅原の顔を見て、自分の中に生じかけた雑念を振り払う。
そう。
お気付きだと思うが、津田は少々面倒臭いやつなのである。
それは人間関係の優先順位が異常に明確なこと。
一目惚れした相手は必ず最上位にやってくるが、それ以外なら長い付き合いの友人すらあっさりと優先順位を組み替えて(比較的)下の方に位置付ける悪癖だ。
まあ、少しでも依存癖のある人間なら大抵こうなってしまうので、津田もその大勢の一人と言えよう。
恋というものは人を簡単に狂わせるのである。
「そういや夕貴、結局北条くんとは喋れてんの」
「全然。実習でシェーデル貸したっきりだな」
「お前のそれを『喋れた』にカウントするのはどうかと思うけど……お前、マジで奥手なんだなぁ」
「うるさい」
人の気持ちを逆撫でするような声色と発言の菅原に対し、そろそろ怒りゲージがマックスに達しそうになった津田は、脳内で北条との会話を再生して気持ちを落ち着けた。
この記憶を再生するのも何度目になるだろう、ビデオテープだったらとうに擦り切れている程である。
『ねえ、津田クン……僕、シェーデル忘れちゃって、このままだと原点されちゃうんだぁ。お願い、助けて欲しい……な♡』
『フッ、仕方ないなあ北条クン……はい、どうぞ』
『ありがとう津田クン! 愛してる!』
『僕もだよ、愛しのマイハニー……』
うふふ、ふふふ。
脳内で再生される存在しない記憶を視聴し、思わず気味の悪い笑いが漏れ出てしまう津田。
その様子を見て、ドン引きする菅原。
そんな珍道中は意外と早く終わった。解剖学講座が、講座室の前に提出ボックスを置いてくれたおかげで、教員を介することなく提出することが出来たからだ。
安物っぽいボックスにレポートを提出し、第二講義室へ戻るべく歩みを進めていると、階段の途中で思い出したかのように菅原が大声を出した。
「あ!!!!!!」
「……ッあ! ビックリした! なんだお前! 踏み外すかと思ったわ!」
「いや、ストバの無料チケット今日までだったなって」
「テメェマジそんなんで大声出すなよ……」
「いや、今月のストバのフラペ最高らしくて。なんかフィリピンの方でめっちゃ余ったバナナを使った、超甘いバナナチョコフラペチーノらしいんだけど」
「何それ飲みたい」
「へっへ〜ストバチケットは二枚あります〜来るか、色ボケ野郎?」
「うん、行く。あとお前殺すね」
「じゃ駅前のストバまでダーーーッシュ!」
「バッ、お前、いきなり手引いて走るなッ……!」
こうして菅原に連れられ、津田は滅多に行かないストーンバックス(ロサンゼルス発のコーヒーチェーン)に行くことなったのである。
〜〜〜
「……おぉ。予想より真っ黄色だな、これ!」
「だな。上にバナナのカケラ乗ってるし、これ飲んだら数日はバナナいらんわな」
「香りだけで結構来るもんなぁ〜」
最寄りの駅にあるストバでバナナチョコフラペチーノをオーダーした津田と菅原は、歩みを揃えて本校舎へと戻っていた。こんな平日の午後でも店は繁盛しており、モバイルオーダー機能を知らなかった二人は延々と列に並んでからオーダーするという、これ以上ない無駄な時間を過ごしてしまった。
しかし、幸運な事もあった。バナナチョコフラペチーノは津田の分で終了であり、それ以降の人たちは別店舗で飲むようにお達しが下ったため、ギリギリのところで目的のドリンクをゲットできたのである。
パカ、と蓋を開けた瞬間に漂う濃密な果実の香りに気分が上がってきた津田は、数十分前とは打って変わってハイテンションであった。
しかし、横を歩く菅原の方は絶えずスマホの画面に目を遣りながら、うーんと唸るように小さな声を時折漏らしている。
「どうした?」
「あ、いや……マズったかも」
「え、なに」
「いやなんか、オープンキャンパス委員でこれから会議があるらしくて……なんか学長とかも来るからちょっと真面目なヤツっぽい」
「マジか。てかお前、オーキャン委員だったんだ」」
オープンキャンパス委員とは、津田や菅原の通う歯科大学特有の制度で、成績優秀者から選ばれた数名で構成される委員会である。主にオープンキャンパスの学内ツアー運営や、大学生による模擬講義の主催、その他受験生の質問に回答するブースに勤務……ではなく、参加することが求められる。
ちなみに大抵の成績優秀者は我が強く、面倒ごとを嫌うサバサバタイプが多いので、このタイプの頼まれごとは拒否する。それで九位そこらの菅原にまでお鉢が回ってきたのを、彼は運良くゲットしたのだとか。
津田的には心底どうでもいい話なので、正直に言ってあまり覚えていなかった。
「資格取得のヤツみたいに言うなよ。……で、会議にこのフラペチーノ持ってけるかって話なんだけど」
「あ〜……まあ、学長とか教授が並ぶ中で、ズルズルとバナナの飲み物ぶちかますのは中々勇気いるよな」
「だよな……うわ、しかも会議一〇分後だし。これ飲めないなぁ」
「え、せっかくゲットしたのに。今飲み干せば?」
「馬鹿かよ。お腹壊したらどーすんだよ」
「それはそう」
しばらくの間、歩きながら逡巡していた菅原。
ようやく腹が決まったのか、本校舎に入るあたりで、持っていたフラペチーノを津田に押し付ける。
そのまま駆け足で、ちょうど開いていたエレベーターに飛び込んで行った。
そして急に動き出した菅原にビックリした津田は、思わず大声で不満の声を上げた。
「わっ! お前、どうすんだよこれ!」
「悪い! 飲んどいていいよ! その代わりに今度奢ってくれよ!」
「は? お前これ無料だっただろうがよ……」
恨めしく漏れた声は、エレベーターの扉に遮られて終ぞ菅原に届かなかった。
はぁ、と小さく溜息を吐いた津田は、黄色と茶色が入り混じったフラペチーノを両手に持ちながら別のエレベータを呼んだ。残念なことに、二台しかないエレベーターはどちらも稼働中のようで、直ぐに来ることはなさそうだった。
(どうすっかな……これ地味に量多いし、流石に二つは味覚と腹が死ぬ。やっぱり講義室に残ってる誰か……岸部とかいたら渡してやろうかな)
「あれ、津田くんだ」
う〜ん、と唸っていた津田に背後から声を掛けた人物が一人。
聞き覚えのある声に津田が振り返ると、その人は笑いながら片手を挙げた。
「あ、宮瀬先生! 何してるんですか、今日木曜日なのに」
「なんか実験中のマウスの体調が変になったって連絡が入ったから、様子見でマウス室の方に行かなきゃいけないんだ。そっちはもう授業終わったの?」
切れ長の二重瞼に、キリッと整えられた凛々しい眉。マスク越しでも分かるほど秀麗な鼻筋に、目尻の泣き黒子がチャームポイントのその人は、歯科麻酔学講座の大学院生である宮瀬英丞。
津田は元々麻酔学に興味があったのでちょくちょく講座に話を聞きに行っていたのだが、そこで准教授から紹介されたのがこの宮瀬である。
津田の七期上の学年で卒業した先輩であり、研修医を経て現在は大学院二年目である。
真面目で面倒見が良く、穏やかかつ優しいという人徳の塊のような人間であるため、津田もいつの間にか友達感覚で話すようになっている。あまり褒められたことでは無いが。
そんな宮瀬は、普段歯科麻酔学講座が居を構える麻布病院に常駐しているのだが、毎週水曜日のみ博士論文に必要な研究で使うマウスの管理をするために品川キャンパスへやって来ている。
津田もそのことは把握しているため、水曜日は時々実験室へ訪ね、作業の邪魔をしながら色々と話をしている。ちょっと忙しいから後にして、と言われたら行くのを控えようと思っているが、如何せん宮瀬本人が優しすぎるので一向にその言葉は聞けないでいる。津田的には好都合である。
そして。
(あ〜やっぱり宮瀬先生イケメンだ……眼福じゃ。顔が良すぎて明日は恵みの雨が降るじゃろうな)
津田は普通に宮瀬のことも好きだった。
主に顔が。
とんでもない面食い野郎の津田は、心の中でこのやり取りの幸運さに感謝しつつ、対北条里仁で鍛え上げた鉄壁の表情筋でその思いを隠しながら明るく返答を返した。
「はい、終わりました。解剖のレポートだったんで」
「あぁ。実習のレポートのことか。お疲れさま」
「結構早い方だったんですよ? 僕。凄いでしょ」
「それはそれは、おめでとう。……それストバの?」
自慢げに胸を張るが、微笑みで躱される津田。
宮瀬は彼の隣に並んでエレベーターを待ちながら、手に持っていた二つのフラペチーノに視線を向けた。
あ、もしかしたら先生なら在庫処理してもらえるかも(失礼)。
津田は肩を竦めて片方を差し出し、一応ダメ元で聞いてみる。
「新作です。友達と行ったんですけど、彼急に用事入って飲めなくなっちゃって。良かったら飲みます?」
「う〜ん……気持ちは嬉しいんだけど、マウス室には持ってけないからな。置いといたら溶けて……ね。悲惨な有様になっちゃうから」
「……残念です」
まあ普通に考えたらこれから実験の人がフラペチーノを受け取るわけないのだが、なんだか告白を断られたような気分になる津田。そもそも在庫処理という動機だったはずなのに、一丁前にちょっとブルーになる部分に生来のメンヘラ気質が見え隠れしている。
そんな感情の機微を察したのか、宮瀬は津田の肩を軽く叩いた。
「まあ、今度研究の合間で暇が出来たらストバ飲みに行こう。最近、友達から貰ったストバチケットめっちゃ余ってるからさ。暇な時メールしてよ」
「! ほんとですか! ありがとうございます!」
「お、元気になったね。……じゃあ僕、下の階だから。お先に」
「はい。頑張ってください〜」
ちょうどいいタイミングでやってきたエレベータに乗り込み、階下のマウス室へ向かった宮瀬。
扉が閉まるギリギリまで手の代わりに頭を振って見送った津田は、思わぬところでストバの約束を取り付けられたことに歓喜していた。
いや、胸中では狂喜乱舞していた。
(うへへ〜ストバ奢ってもらえる上に、宮瀬先生と一緒とかこれもう死期が近いなきっと。明日あたり死ぬんかね。くっ、駄目だまだ北条くんと……ハッ! 俺としたことが、北条君という存在がいながら……宮瀬先生に靡いちゃうなんて! ダメよ! 乙女ゲーで揺らいだ選択肢を選んだら大抵ノーマルエンドって相場は決まってるでしょ俺! しっかりしろ!)
ポーン、とエレベータの到着音で正気に帰る津田。
数回大きな瞬きをし、軽く頭を振って浮かれないように気を付ける。
確かに宮瀬とのストバは楽しみだが、今はそれよりもこのバナナフラペチーノの処分を如何にするかが問題である。教室に戻って友人に渡すのはアリだが、そもそも皆課題提出を終えて帰っている気がする。
間に合うかな、などと思いながらエレベータに乗り込み、講義室へ向かう津田。
(ん〜最悪捨てるかな……)
SDGsに真っ向から敵対する考えを抱きながら、エレベータを降り、講義室の前のラウンジを見渡す。普段は騒がしい学生で賑わう空間も、各自解散の実習の後だと静まり返っている。
自習をしている学生も居るには居るが、そこまで深い知り合いではないので話しかけるのも気が憚られる津田。険しい顔をしながら講義室に入って辺りを見渡すが、頼りの岸部も既に帰ってしまっているようだ。というかそもそも、まだレポートをやっている人間は数名しか居ない。
通路を進み、誰か居ないかな〜などと首を巡らせる津田だったが、ふと自分の間近に座っていてこちらを見上げている学生と目が合い、思わず飛び上がってしまう。
「あの」
「うわっ!」
いつもと変わらないのんびりと間延びした話し方。
ナチュラルに甘えた色が混ざる声。
それは他でもない、北条里仁(津田が片思い中♡)であった!
津田の運命や、いかに。
(後編へ続く)