1章-3
「……ここどこ?」
ベールをくぐるようなわずかな感触があった後、目の前に広がったのは彩り豊かな花畑だった。
「わたしたち、街の中にいたわよね?」
上を見れば青い空、足元を見れば美しい花々。鼻孔をくすぐる匂いすらも現実感しかなく、突然のことに困惑してしまう。
「ここが迷宮第一層だ。驚いたか?」
「あっ、ノルドさん!」
声に応えれば、少し離れたところで深紅髪の男が楽しそうに笑っている。
「邪魔になるからこっちに」と言われて踏み出すと、ルーシャたちのすぐ後ろから探索者らしき人々が何人も続いて出て来た。
よく見れば、あのぐにゃぐにゃした歪みが扉のような長方形で鎮座している。
「びっくりした……本当にここ、異界なんですね」
「そういうことだ。初めて来るやつらの反応は、いつ見ても実に面白い」
「おい、俺たちで遊ばないでくれ」
不服そうに眉を顰めるチェスターをなだめつつ、ノルドに続いて花畑を歩いていく。
どこから見ても平和な花畑だ。迷宮なんて名前には不似合いな景色に、『逆に罠なのでは』とつい身構えてしまった。
「そう警戒するな。第一層は見学ツアーがあるぐらい平和なところだ。広くもないし、強い魔物も出ない。その分、高価な採取物もないけどな」
「見学ツアーなんてあるんですか?」
「あるぞ。お嬢ちゃんたちにもそっちを勧めようと思っていたんだが」
やはりノルドから見たルーシャたちは、完全に冷やかし客だったようだ。
数々の失敗を改めて申し訳なく思いつつ、遅れないように足を速める。
「君たちは違うんだろう? だったら、必要な準備を手伝うのが、先人の務めというやつだ。もっとも、何不自由のない侯爵令嬢が、迷宮なんぞに潜りたい気持ちはわからないけどな」
花の絨毯を抜けて、柔らかな日が差し込む林へ進んでいく。
多くの探索者が踏みしめてきた軌跡か、足元にはしっかりと道ができており、外歩きに慣れていない令嬢でも問題なさそうだ。
「……何不自由のない令嬢なら、わたしも迷宮にはこなかったんですけどね」
「へえ? お貴族様にも色々あるのか。ああ、別に聞かないから安心しろ」
ノルドは特に関心もなさそうな様子で答えると、木々の根元へ視線を向ける。
やがて小さく声をあげて、ある木の根元に駆け寄っていった。
「あったぞ。初心者ご用達の薬草その一だ。こんな手前で見つけられるとは、今日は運がいい」
彼の足元には、野草らしき小さな花が一輪咲いている。青い袋状の花弁は、蛍のようにほんのりと光っていた。
「これが、薬草?」
「そうだ。迷宮で採れる一番簡単な傷薬の材料だな。おっと、根は抜かないでくれよ。そうしたらまた生えてくるから」
植生が雑草のそれだが、ノルドが言うなら間違いなさそうだ。
ルーシャは根元より少し上で茎を切り、水で湿らせたハンカチで薬草を包む。リリナの言うことを信じると、これを持って帰れば本登録完了である。
「迷宮に入って数分で終わっちゃった。簡単すぎません?」
「子どものお使いならこんなものだ。それに、状態のいいこれを二十本採取したところで、パンが一つ買えるかどうかの価値しかない」
「そんなに安いんですか……」
他に仕事のない者が迷宮に潜る、とノルドは言っていたが、ここで金銭を稼ぐのも一筋縄ではいかないらしい。
とはいえ、パン一個の相場も知らないルーシャは、労う資格すらないだろう。
(ある程度戦えるようになれば迷宮に挑めると思っていたけど、そんな簡単な話でもないみたい)
ひとまず、本登録に必要な材料は手に入れられた。あとはチェスターの分の何かを確保したら、目的達成だ。
「従者くんの分は、もう少し奥で採取するか。まだ疲れてはいないよな?」
「もちろん! 二時間しかないなら、いっぱい歩いていっぱい見学します!」
「ははっ、勉強熱心なのはいいことだ」
ノルドはわずかに目元を和らげると、再び林の中を先導していく。
(……この人、たぶん貴族が嫌いなのよね)
それでも、案内役を引き受けて、ちゃんと付き合ってくれている。ありがたいことだ。
(受付のお姉さんにいい格好をしたかっただけかもしれないけど。理由は何であれ、二時間しっかり見学しようっと)
サクサクと小気味よい音を立てながら、チェスターと共に自然豊かな景色を歩いていく。
少しでもノルドの先導を外れると地面がガタガタしているので、注意深く周りを見ながら、しかし気持ちとしてはちょっと不思議な散歩の延長で。
――そうして三十分ほど楽しんだ頃、ようやくチェスターの分の薬草を採取することができた。
ルーシャのものとは形が違うが、居住区画では見たことのない野草だ。
「これでチェスターも本登録ができるわね」
「散歩してただけなのにな。本当にここが迷宮なのか、ちょっと信じられなくなってきた」
「誰でも入れる一層なんてこんなものだ。最初からいきなり命の危機を覚えるような場所なら、登録年齢ももっと高いはずだしな」
(そっか、十歳から入れるんだもの)
自身の正しい年齢がわからない者は、〝たぶん十歳〟でも登録が通ると聞く。
ようは、スリや盗みなど裏路地で危険な生き方をさせるぐらいなら、組合が目を光らせる迷宮のほうが安全だから、こちらへ来いという施策だ。
(こんなに穏やかな場所なら、それもわかるわ。わたしも散々訓練してきたのに、まだ一つも魔法を使っていないし)
もちろん、平和な場所は入口すぐの第一層だけだ。
正直拍子抜けだが、ルーシャとて、いきなり戦場へ放り込まれたいわけではないので、今日はこれでちょうどよかった。
(一体ぐらい魔物も見たかったけど。それは次でもいいか)
「……っと、ちょうどよかった。お嬢ちゃんたち、本当に探索者になるつもりなら、ちょっと戦ってみるか」
(は?)
ところが、平和を喜ぶ心を裏切るように、ノルドから嫌な誘いが飛んできた。
声がどことなく弾んでいるのが、彼が優しいだけの案内役ではないことを表している。
「ほら、見えるか。あれが魔物だ」
ノルドの長い指が示した先を見ると、薄茶色の毛玉が草むらを跳ねていた。
シルエットから察するに、野うさぎか何かだと思うが。
「ん? うさぎ、じゃない?」
「ちゃんと魔物だぞ。一角ウサギだ」
じっと目を凝らすと、確かにそれはうさぎではなかった。
本来目や鼻があるはずの顔の中心に、ドンと角が生えているのだ。角の下に口はあるが、奇形というよりは〝異形〟のほうがしっくりくる。大きさ自体も通常うさぎの二倍はありそうだ。
「あんまり強そうには見えないな。一層の魔物だからか?」
「見た目はな。だが、甘く見てると怪我するぜ?」
くつくつと喉を鳴らすノルドに、チェスターは胡乱な目を向けている。
当然、野生動物ではなく〝魔物〟である以上、油断して挑む相手ではないはずだ。ルーシャもわかっているのだが、
「――わたし、戦ってみてもいいですか?」
つい、そう訊ねてしまった。それも、ノルド以上に熱の籠った声で。
「おいおい、お嬢ちゃんが戦うのか? 従者くんでなく?」
ノルドはちょっと困惑気味だ。彼はルーシャが命令するだけの主人で、チェスターに戦わせると予想していたようだが、それは大きな間違いである。
「チェスター、わたしがやっていい?」
「もちろん」
チェスターも当たり前のように了承を返してくれる。
訓練する様をずっと見ていた彼は、実の家族よりもルーシャの実力を知っているはずだ。
そんな二人のやりとりに、ノルドもなんとなく察したらしい。
「あー……オレも構わんが、無理はしないようにな。危なくなったら、すぐに止めるぞ」
「大丈夫ですよ、見ててください!」
案内役からも許可が出たので、ルーシャは彼らより二歩ほど前に出て、構える。
淑女らしくシナシナする日々の裏側で重ねた訓練だ。そう思えば、やっぱり魔法で戦いたかったのかもしれない。ストレス発散的な意味も含めて。
(魔力は充分。よーく狙いを定めて……よし)
前に突き出した右手に、意識を集中する。
野生動物とは感性が違うのか、狙われているのに一角ウサギは跳ね回ったままだ。これなら、外すほうが難しい。
「悪く思わないでね。――燃えなさい!」
次の瞬間、ゴウッという激しい音を立てて、眼前の草むらが一気に燃え上がった。
中央にいた一角ウサギもまた、逃げる間もなく一瞬で炎に包まれている。
「よしっ!」
背後で聞こえたチェスターの声に、ルーシャも手応えを感じながら魔力の流れを切る。
炎の魔法は数秒ほど盛った後、燃やすものを失って鎮火した。残されるのは、真っ黒な魔物だったものの残骸だけだ。
どう見ても完全勝利。
初陣と言うにはあまりに完璧な結果に、ルーシャもニコニコしながら振り返る。
(どうよ、先輩! わたしはちゃんと戦えるお嬢様なのよ!)
なんて、自信満々でノルドの反応を待ったのだが……。
「あ、あれ?」
――何故かルーシャの視界に入ってきたのは、がっくりと肩を落とし額を押さえている彼の姿だった。