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5章-2

 迷宮区画のいつもの場所に辿りついたのは、日が落ち切るギリギリの時刻だった。

 空は赤から紫へ変わっており、もういくらも待たずに夜がやってきてしまう。


(ここで暮らし慣れてきても、夜に出歩くのは避けたいわね)


 最初期に危惧した通り、迷宮区画は治安がいいとは言いがたい。

 いざとなったら魔法で対処もできるが、なるべく人間相手には使いたくなかった。


「すみません殿下、ここから少し歩きますがよろしいですか?」

「もちろん。ただ、『殿下』とは呼ばないでくれるかな。偽名……ユリ、とでも」

「では、ユリ様で失礼しますね」

「いや、できれば呼び捨てで。最低でもさん付けかな。『様』で呼ぶような関係は、迷宮区画ではそうそうないと思うし」


 彼は楽しそうに笑うと、度の入っていない眼鏡をくいっと押し上げた。傍から見ても、浮き立っている様子がわかる。


(楽しめる状況でもないんだけどね……初めて来たなら仕方ないか。何にしても、殿下だけは守らないと)


 馬車を見送った後はなるべく人の多い通りに出て、組合を目指す。

 彼は珍しそうにしつつも、素直にルーシャについてきてくれるのがまだ幸いだ。


「ん? お嬢ちゃん、もう戻ったのか?」

「えっ、ノルドさん?」


 ふっと視界に深紅が見えたと思えば、馴染みの男性が心配そうに近づいてくる。

 頼れる先輩の登場に、無意識で安堵の息がこぼれた。


「家での用事は済んだのか?」

「済んでないんですが、先に大事な用ができてしまって。ノルドさんは?」

「オレは組合に呼び出されて向かうところだ。従者くん本人に許可はもらってる。食事もしっかりとっていたし、彼は元気だよ」

「よかった、ありがとうございます」


 結局あれからチェスターと話せてはいないので、組合に届け次第、今日は顔を見にいこう。寝顔を覗くのではなく、少しでも話せるように。

 ……彼の顔が、最後に見たあの真っ白なものではないことを信じて。


「……で、そちらはどちら様だ?」

「こんばんは。ユリとでも呼んでくれるかな、ノルドさん」


 怪訝そうなノルドに、ミュリウスは極上の作り笑いを返す。……ルーシャから見ても、だいぶ胡散臭い。


「お嬢ちゃんの家のやつか?」

「そうではないんですが、ちょっと事情がありまして……」


 ノルドの眉が顰められるのを見ても、謝ることしかできない。


(さすがに王子様は明かせないわよ……かといって、この資料は絶対に必要だし)

「ノルド、か。アーニーとは名乗らなかったんだね」


 そんな思惑を無視するように、ミュリウスはノルドに近づくと、どこかあどけない様子で続けた。


「……どういう意味だ?」

「君の本名、〝アーノルド〟だろう? 普通なら愛称はアーニーじゃない?」

「ッ!?」


 即座に飛び退いたノルドが、槍を構えて臨戦態勢をとる。

 往来で突然起こったやりとりに、周囲から驚きの声と悲鳴が上がった。


「ノルドさん、こんなところで駄目です! 落ち着いて!!」


 とっさにルーシャが割って入るが、ノルドの目は激しい怒りをたたえている。

 こんな荒ぶる獣のような表情は初めて見た。


「ユリさんも、急にどうしたんですか!?」

「僕だけ知っているのも不公平だと思って。裏切らない仲間は大事にしないと」

「それはそうですけど、だからって……」

「ノルドさん、僕はルーシャ嬢の未来の義弟だよ。……今のところはね」


 一触即発の空気が、ぴたっと固まる。

「は?」と小さく呟いたノルドは、脱力したように槍を下ろした。


「……確かに、その容姿……お嬢ちゃん、もしかして」

「…………第三王子殿下です」


 小声で返せば、ぴぃと引き攣った悲鳴が彼の喉から聞こえた。……今のどうやって出した音だ?


「ええと……大変失礼いたしました」

「敬語はやめてよ。僕は君より八つも年下で、迷宮区画に来たばかりのひよっこだ。それと君には、謝罪しなければならないことが二つもある」

「はあ、面識はないはずですが」


 すっかり大人しくなったノルドに、ミュリウスはまたひょこひょこと近づいていく。

 集まりかけていた人々は、喧嘩が起きないとわかると、あっという間に散っていった。


「以前に『仲間の女を売ってくれ』と交渉してきた馬鹿がいただろう? 君が一撃で沈めたアレの雇い主は僕だよ。失礼な輩をけしかけてごめんね」

「ああ、あの馬鹿……部下なら切ることを薦めますが」

「一時的な駒だよ。さすがにあんなのを手元には置かないさ」

(なんか怖い話してるわね、この人たち)


 特にミュリウスは、今日はずっと笑顔のままだ。表情を読ませないのは王侯貴族の必須技能とはいえ、傍目には不気味でしかない。


「もう一つは……君の家のこと、すまなかったね。いくら僕でも、どうにかするには時間が経ってしまっていた」

「あ……覚えていてくださったのですか。それだけで充分です。当時、幼子であっただろう殿下に、助けを乞うほうが恥ずかしいですよ」


 ノルドは小さく苦笑すると、左手を胸に、右手を槍ごと後ろに回して、頭を下げた。


(紳士の礼? ずいぶん様になってるわね)


 もともと所作のきれいな男だが、らしくふるまうとその辺の令息よりそれらしい。

 満足げに頷いたミュリウスは、「じゃあ、いこうか」と切り替えるようにしてまた歩き出した。


「王族のオーラ、だな」

「異母兄はそんなことないんですけどね」

「……前から気になっていたんだが、君は婚約者と仲が悪いのか?」

「アレを好きになれるのはたぶん、何よりも地位が大事な人だけですよ」


 ルーシャには好きになる必要もない相手だが。

 とにかく、ミュリウスを一人で行かせるわけにはいかない。

 慌てて追いついた二人は、そのまま人混みに紛れるように通りを進み、組合へと向かった。


   * * *


「なんだか、騒がしいですね」


 数日ぶりに訪れた組合は、いつも以上に人が集まり、満席の酒場のような騒々しい様相だった。

 違いは、それが決して楽しげな空気ではないということ。

 ノルドが呼び出されたことも考えれば、よい状況とは言えなさそうだ。


「あ、ノルドさん! と、ルーシャさんも来てくださったんですね」


 こういう混み合った場で、背が高くて目立つ髪色のノルドは目印として実に有能である。

 大きく手を振りながら招くリリナは、髪から艶を失い、目の下には濃い隈があった。


「ルーシャさん、お体の具合はどうですか?」

「わたしは大丈夫ですが、リリナさんこそ。だいぶお疲れのご様子で」

「踏ん張り時ですから。安全な後方にいる私たちが、バテるわけにはいきませんしね」


 半ば無理やりに笑った彼女は、以前同様に職員専用の会議室へと促してくる。

 流れのまま連れてきたミュリウスにも、特に言及はされなかった。


「――時間が惜しいので単刀直入に。皆さんに調査していただいていた例の魔物が、第二層でも確認されました」

「二層まで!? あそこにいるのは、ほとんど新人みたいなやつらばかりだぞ!」


 リリナの緊迫した様子に、ルーシャも息を呑む。

 幸いだったのは、下層への探索が制限されたことで、普段は第三層にいる中級探索者たちが新人の手助けをできたことだ。

 ……反面、ある程度の経験があるせいで、あの魔物に挑もうとして負傷した者もいるようだが。


「先にローガンさんたちを含めたベテランパーティーに、残された探索者の救助に向かっていただいています。ノルドさんにも、ぜひ協力をお願いしたく」

「わかった。オレでも、怪我人を運ぶ手助けぐらいはできるだろう。だが、例の透明な魔物が相手なら、オレよりお嬢ちゃんのが適任だろうな」

「わたしは……人数にもよりますが、協力しますよ」

「――ちょっと待って」


 すぐにでも救援に、という空気を止めたのは、黙っていたミュリウスだった。

 ずっと浮かべていた笑みを引っ込めた彼は、ルーシャに例の資料を出すよう促す。


「あの、失礼ですが。あなたはルーシャさんのパーティーの方ですか?」

「ユリと呼んでくれ。時間がないから簡単に説明するが、あの魔物、通称〝レイス〟の出現記録だ」


 ミュリウスは上に立つ者特有の反論を許さない空気で、淡々と説明していく。

 ――レイスは、約百年前にこことは違う迷宮で確認された魔物であること。

 しばらくの間猛威を振るい、多くの探索者が犠牲になったこと。そして、


「アレは普通の魔物とは違い、異界からの侵略者だと考えられている。異空間だが固定され、変化のない迷宮とは違う、こちらへ侵攻してくる存在だ。迷宮とはまた異なる次元の存在。迷宮を利用して現れる、第三勢力という説もあるな」

「そんな……」


 リリナの顔から、どんどん血の気が引いていく。

 ただでさえ大変な状況だというのに、ミュリウスがもたらした情報は、混乱させるには充分すぎた。


「……つまり、放っておいたらアレは、迷宮から出て来るんだな?」

「そういうこと。階層移動をしている時点で、普通の魔物と違うことはわかっていただろう」


 第一、二層は環境が似ているので同一種が出ることもあるが、第三層以降は環境変化と共に出現する魔物も全く異なる。

〝そういうもの〟だと認識していたが、単なる棲み分けではなく、魔物たちが階層移動をしないからこその結果だったのだ。


「ど、どうしましょう……討伐チームを依頼すべきなの……?」

「幸いなことに、先人はそれを退けた結果を残してくれている。もちろん、対策もね。その内の一つが僕だ」


 にっとミュリウスが口角を上げる。愛想笑いではなく、不敵で好戦的な笑い方だ。


「レイスはいわゆる群体生命で、核となる長がいる。それを倒せば、侵攻は止められるさ。百年前の人々にできたことが、今の僕たちにできないわけがない」


 じゃ、いってみようか。

 そう言って差し出された手を、掴まないという選択肢はなかった。


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