序章-2
帰りの馬車の中で、父は一言も喋らなかった。
ただ悲しげに俯き、何かに耐えるように膝の上で拳を握っている。
(悲しみたいのはわたしなんだけどね! まあ、貴族としてはマシと思うべきかしら)
子など駒としか見ない親も当たり前にいるので、罪悪感があるだけまだ人間らしい。だからといって、失った信用は戻らないが。
「おかえりなさいませ。旦那様、お嬢様」
王都の屋敷に戻れば、使用人たちが並んで出迎えてくれた。
王家からの呼び出しということで、皆少なからず不安と期待を抱いていたようだ。
(彼らにつなぎの事情は話せない。となれば『第二王子と婚約』という表向きの話だけが伝わるのでしょうね)
当然、それだけなら諸手を挙げて喜ぶ吉報だ。だからこそ、祝われでもしたらいたたまれない。
「お嬢様、お疲れ様でした。それで……」
「疲れたから部屋に戻るわ。しばらく一人にしてくれる?」
「え? か、かしこまりました」
ルーシャはあえてそっけなく使用人たちを振り切ると、すぐに自室に駆け入り、そのままベッドに跳び込む。
かすかに案ずる声が聞こえたものの、申し訳ないが今は無視させてもらおう。
(ああ、やっぱりムカムカしてきたわ。この仕打ちを人には言えないのも辛い……)
割り切ったところで、腹立たしさが消えたわけでもない。
さらには、身の回りの世話をしてくれる〝味方〟に、嘘をつかなければならないのだ。今更だが泣きたくなってきた。
「――お嬢様、入りますよ」
ふと、扉が開く音とノックが耳に届く。
……何故か開く音が先で、入室してからコンコンだ。
「逆でしょう。乙女の部屋をなんだと思っているの?」
「あなたがちゃんと乙女なら、俺も弁えますよ」
寝転がった姿勢のまま視線だけ向けると、扉の前には予想通りの少年が肩をすくめて立っていた。
こげ茶色の短い髪にぱっちりとした緑色の瞳。装いは白いシャツにサスペンダー付きの黒いハーフパンツを合わせた上等なものだが、実はお仕着せである。
「……それで? 何があったんだ、ルーシャ」
「その話し方をする時は、扉は閉めてよ、チェスター」
気安い声にため息を返せば、少年――チェスターは慌てて扉を閉める。
彼は代々ウィンスレット侯爵家に仕えてくれている使用人の息子で、ルーシャとは乳兄弟になる。
同じ年に生まれたせいか、実の兄姉よりもすごす時間が長い幼馴染だ。立場を無視して口語で話せる程度には仲もいい。
「悪かった。たぶん、誰にも聞かれてないと思う。で? 王様に呼ばれたのは、いい話じゃなかったのか?」
チェスターは小さく安堵の息をこぼすと、躊躇いもなくルーシャのベッドに近づき、端に腰を下ろした。
「……表向きにはいい話だったわよ」
「表向きには?」
「用件が何か、おば様から聞いていたんじゃないの?」
「一応な。けど、あくまで予想だったから」
嫌そうに眉間にぐっと皺を寄せるチェスターに、つい笑ってしまう。
……この国の王家には今王子が三人いて、第二と第三の婚約者が決まっていない。
そこにきて、侯爵令嬢を親ごと呼び出すとなれば、だいたい察せられるというものだ。実際、それは正解でもあった。
「その、本当に王子様との婚約の話だったのか?」
「まあ、そうね」
「いい話だよな?」
「だと思うわ」
淡々と返し、最後には鼻で笑ったルーシャに、チェスターは目を瞬く。
続けて、わずかに逡巡してから、ルーシャの薄紫色の髪を優しく撫でてきた。
「だったら、お前がふて寝する理由がわからない。王子との婚約が嫌なのか?」
「それもあるわ。嫌な感じの人だったし」
「ふぅん、どっちだ?」
「第二よ。王太子候補」
ちなみに、第二王子のほうが王位継承順位が高いのは、彼だけが正妃の息子だからだ。
兄の第一王子も弟の第三王子も側妃の息子のため、序列が年齢順になっていない。
「じゃあ、ルーシャは未来の王様と婚約を結ぶってことだろ? 絶対いい話なのに、お前は嫌だと思ってる。何を言われたんだ?」
「……言えない。言ったらいけないことだから」
「どうしても?」
「言ったらチェスターも巻き込んじゃう」
口が滑らないよう、きつく唇を噛む。
チェスターの家族一同は勤続が長いため信頼されているし、彼もいずれ家令を任せられる人材だ。
その彼を、これからルーシャが歩む新しい人生には連れていけない。
「巻き込んでくれていいぞ?」
ところが、彼はルーシャの気遣いなど何でもないように、サラリと答えた。
「チェスターが思ってるような軽い話じゃないのよ」
「俺も軽い話だと思って言ってない。だって、俺はルーシャの従者だからな」
上半身を起こしてしっかり見つめれば、意外にも彼は本当に真剣な顔をしていた。
確かに、軽い気持ちで口にしているわけではなさそうだ。
「雇い主はお父様なのに、わたしの従者なの?」
「そうだよ。俺はお前のものだ。だから、俺のことだけは巻き込んでいい」
強く頷く幼馴染に、やさぐれていた心が温かくなる。
雑に扱われた悲しみや悔しさも溶け出してきて、つい口がゆるんでしまった。
「……わたしね、つなぎの婚約者なんだって」
そこから事情を聞いたチェスターの怒りようは、まあすごかった。
生まれてこのかたほぼ兄妹として育ってきたルーシャも、これほどぶちキレた彼を見たのは初めてである。
それこそ、『狂犬』という言葉を擬人化したら、きっとこうなるのだろう。
「おおおお落ち着いて……」
「落ち着いていられるか! よくもルーシャにそんなふざけたことを……絶対に許さねえ!」
双子のような乳兄弟でも、そこはやはり男と女。
怒り任せに駆け出そうとする彼をルーシャの力では止めることができず、うっかり体勢を崩してベッドから転げ落ちてしまった。
「あっ! ……悪い、大丈夫か」
「大丈夫よ。止まってくれてよかった」
途端に正気を取り戻したチェスターは、ルーシャのもとに跪いて手を差し出してくれる。
鬼のように吊り上がっていた眉や目も元通りに戻ったので、こっそり安堵の息をついた。
「怒ってくれてありがとう。でも、実際にやったら駄目よ。あなたがこんな理由で捕まったら、絶対に嫌だもの」
「……そうだな、相手は王族だもんな。すっごい悔しいけど、殴り込みはやめておく」
「殴り込めるような相手でもないしね」
いくらちゃんとした身なりの子どもでも、不穏な用事で王城へ近づこうものなら即お縄だ。
どう足掻こうとも、つなぎ婚約者の件は避けようがないのである。
「でも、やっぱり悔しい……ルーシャはなんで怒らないんだよ」
「怒ってるわよ! ただ、あなたが代わりにキレてくれたから、逆に冷静になっただけ」
自分よりも感情をあらわにしている者を見ると、見ている側の気持ちは落ち着いてくるものだ。
あまり声を荒らげられないルーシャに代わって怒ってくれた彼には、心から感謝したい。
「――それにね、わたしはわたしで違う人生を選ぼうと思ったの」
ふっと口角を上げたルーシャは、差し出されたままの手をぎゅっと強く掴む。
そんな掴み方をされると思ってなかったのだろうチェスターは、わずかに肩を揺らした後に、こちらを見つめ返してきた。
「違う人生?」
「わたしに巻き込まれてもいいんでしょ? 男に二言はないわよね?」
「……ないけど」
チェスターは一瞬怪訝な反応を見せたが、気持ちを変えるつもりはないらしい。
ならばとルーシャはますます笑みを深めて、王城で抱いた決意を静かに声に載せる。
「あのね、わたし――迷宮探索者になろうと思うの」