2章-2
淡い誘導灯に従って走ることしばらく。
「おーい、お嬢様こっちです」
「そっちね、ありがとう!」
聞き慣れた声に招かれたルーシャは、馬車たちの間を縫って無事に合流を果たした。
病弱とはとても思えない健脚ぶりを披露してしまったが、きっと夜の闇が隠してくれたことだろう。
「おかえりなさいませ、お嬢様。予定よりもずいぶん早いお戻りでしたね」
「ただいま、チェスター。気分が優れないから、粗相をする前に退場させてもらったわ」
「それはそれは」
恭しく頭を下げたいつもの従者ことチェスターに、ルーシャは肩をすくめて返す。
同じく成人の十六歳を迎えた乳兄弟は、今ではすっかり立派な青年に成長した。
身長もルーシャより頭半分ほど高くなり、体つきも比較にならないほどしっかりしている。
「お体に障ってはことですから、すぐにお屋敷へ帰りましょう。さあ、お手を」
「ありがとう」
馬車へ促すチェスターの手を掴むと、温かさに安心して力が抜けてしまった。これがあの婚約者(仮)との信頼度の違いだ。
そのまま扉を閉めて馬車が動き出せば、途端に大きなため息がこぼれた。
「――くくっ、化けの皮が剥がれるのが早すぎないか」
「ああいうかしこまった場所は、わたしには向いてないのよ。お兄様もお姉様も、よく普通に社交なんかできるわよね」
「見てくれだけは儚げ美少女なのにな」
相変わらず二人になると気安いチェスターの態度に、緊張していたらしい体が解けていく。
一応十歳までは、のんびりながらも真っ当に育てられたのだが、今となっては懐かしい思い出だ。つなぎなどに指定されたのも、ある意味運命だったのかもしれない。
「それにしても、社交界デビューにしては退場が早すぎだろ。ちゃんと挨拶はできたのか?」
「したわよ。終わったら即退場したけど」
「どおりで」
呆れたように笑った彼に、ルーシャも相好を崩す。
確かに、貴族令嬢にとって社交界デビューは絶対に失敗できない大事な夜会だ。だが、いずれ貴族を辞める者にはそんなもの関係ない。
「夜会に参加しただけでも褒めてもらいたいぐらいよ。王子に触られるのも気持ち悪かったし」
「触られるって、ただのエスコートじゃないのか?」
「あの男、何故か腰にまで手を回してきてね。これもエスコートなの?」
「いや、それは痴漢だな」
一瞬で冷たい空気に切り替わった彼に、自分は間違っていなかったと安心する。
同性から見ても気持ち悪い行為なら、嫌悪感を抱いたルーシャは正常だったわけだ。
(相手が王子じゃなければ文句も言えたのに……ああ、面倒くさい)
「事情は察したけど、このまま帰っても大丈夫か? お前の評判が悪くなるのは嫌なんだが」
「悪くなってもいいわよ、別に。まあ、それよりは病弱さのほうが先にくるでしょうしね」
いくら人の揚げ足取りが趣味な貴族たちでも、体が弱いことを嘲笑うほど人間が終わってはいないはずだ。
今夜のことも、大事な夜会から早々に退場するほどルーシャは病弱なのだ、と受け取っただろう。
「病弱でゴリ押せるなら、前にやった顔見せもしなくてよかったんじゃないのか?」
「わたしもしたくなかったけど、あれは義務だからね」
両親曰く、貴族には通さなければならない筋がある、らしい。
実に面倒だが、家を離れるその日までは、必要最低限はこなさなければならない。
「今日の夜会だって、お父様かチェスターがエスコートしてくれたら、もう少し義理立てをする気も起きたけど」
「どうかご勘弁を、お嬢様。自分はしがない従者ですから」
「こんな時ばっかり従者ぶって!」
軽口を叩きながら、お互い気楽に笑い合う。
(……笑った顔は昔から変わらないけど、チェスターも立派になったわよね)
この四年で、チェスターは少年から青年に成長し……しかもかなり格好いい青年になったとルーシャは思っている。
背が伸びて筋肉がついて、声も低くなった。ぱっちりとした緑眼が印象的だった可愛い顔も、面影を残しつつ精悍な雰囲気に。
お仕着せだって、今は執事にも支給される黒のスーツだ。
(きっと今日の夜会会場にいても、貴族令息たちに引けは取らないと思うわ。本当、エスコートしてくれればよかったのに)
だからこそ、たまにふと思う。
乳兄弟のよしみでルーシャに付き合わせているが、もし他にやりたいことができたなら、ちゃんと彼を解放してあげようと。
(いつかお嫁さんをもらうでしょうしね。それまでは、二人で一緒に頑張ろう)
馬車は夜闇の中を迅速に進み、無事ウィンスレット侯爵家の屋敷に到着した。――ただし、裏門から入る小さな離れの前に。
「いつもありがとう。面倒をかけてごめんなさいね」
「いいえ。お嬢様のためですから」
礼をしながら馬車を降りれば、御者も慣れた様子で応えてくれる。
実はこの四年の間に、ルーシャは屋敷の本邸ではなく、こちらの離れに生活拠点を移していた。
表向きの理由は、『ルーシャが体調を崩しがちで、頻繁に医師を呼ぶため』だ。
侯爵家の大きな屋敷の正門から入ってもらうよりも、搬入などを扱う裏門のほうが出入りはしやすく、また人目にもつきにくい。
ウィンスレット侯爵家の体裁を守るために、必要な処置……ということになっている。
もちろん本当の意味は、ルーシャとチェスターが自由に迷宮へ向かうためだ。
(わたしとしては迷宮区画に家を買って、そこで暮らしたいのだけど)
残念ながらまだ家を購入できるほどの稼ぎはないし、今夜のように婚約者(仮)としての顔も必要なため、妥協案の離れ暮らしである。
ちなみに真実を知っているのは、両親と兄姉、そして先ほどの御者を含めた、信用できる勤続が長い使用人のみだ。
無論、使用人の筆頭はチェスターの両親となっている。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「あら、おば様。待っててくれたの?」
離れの玄関をくぐれば、すぐさまそのチェスターの母が出迎えてくれた。
もともとは母に仕えていた侍女だったのだが、事情が変わってからはよくルーシャの面倒を見に来てくれている。
「さすがにドレスを脱ぐのはお一人では大変でしょうから。どうぞ、こちらへ。湯の準備も済んでおりますが、いかがなさいますか?」
「助かるわ、ありがとう!」
乳母である彼女は、ルーシャにとって第二の母のような存在だ。
身の回りの支度を任せるのなら、やはり心から信用できる人に頼みたい。
(とはいっても、もうだいぶ一人でできるようになったけどね)
今夜のような盛装は別として、一人で着替えて一人で髪などを直すのも慣れたものだ。
自分でできるようになると、人の手を借りて身支度を整えるのが当たり前の生活は、とても贅沢なことなのだと痛感させられる。
「本当はいつでも、お嬢様のお手伝いをしたいのですけどね」
「そうも言っていられないからね。思ってくれるだけで充分よ、おば様」
「何かありましたら、いつでもうちの愚息をお使いくださいませ」
ニコニコしながら去っていく彼女を見送り、やっと令嬢らしい装いを解いたルーシャはグッと背筋を伸ばす。
食堂として使っている部屋に向かえば、ちょうどチェスターが軽食を準備してくれていた。
「お疲れ。それで、どうする?」
席について早々に訊ねてくる彼に、ルーシャは口角を上げて応える。
嫌なことがあった後にすることは、四年前からずっと変わっていない。
「決まってるわ。明日から迷宮へ潜りましょう!」




