八
「……で、その初会の晩は、陸軍兵器工場の技師だなんて見栄を張ってしまいました。でも実際のところ、そのころ私は、小石川に勤めていました鉄砲組でございました」
「ああ、兵器工場勤めって言ったのかい。私の友達にも四、五人いるよ。そのなかの一人は、今夜もお不動様で一緒だったっけ。そいつは頼もしいや」
と、欣八はやや元気を取り戻した。
「ごらんの通り、もはや私はこんなふうでして、頼もしさのかけらもございません。もっとも、車夫から看板の提灯を奪ったり、肩で暖簾を分けながら、遊ぶぜ、なんて言うほど酔っていた夜なぞは、そりゃもう威勢がよかったものでした」
と、首をがっくり下げて、またため息をつく。そのままじっと蝋燭の火を見つめていたが、
「ところで、肝心なその燃えさしの蝋燭のことでございます。
以前、牛鍋をつつきながら、ちびちびとやっていた酒の席で、同僚の友人が話していた、嘘か本当かはわからない話でした。――あのとき、四谷大木戸を過ぎたところで、酔い潰れた私が、プンと立った蝋燭の香を嗅いだ。それが、この脳に侵入したために、ふと好事な心が、灯りに引きよせられる蛾のように、熱く羽ばたきをしたのでございます。
家には優しい女房もございました。別に不満があったわけでもなし……それでも内藤新宿に行ってしまったのは、ただ蝋燭に引きよせられたとしか言えません。そんなでございますから、押しつけがましく、向こうから勝手に女を取りもたれましたときは、馬鹿馬鹿しいと思いましたが、困ったことにはその女が、なんとも美しい。
なるほど、桔梗屋の白露か。白いだけではなくて宝玉の露だと言ってもいいくらい。
けれどもこんな場所柄の私娼屋にいるにしては……あまりに綺麗なので、はじめのうちは圧倒されていただけでした。が、ある病的な癖があるせいで――この容色で、しかも三味線もちょっとした腕前なのに――淫売宿同然の掃き溜めに落ちているのだとわかりますと、この美しい一夜妻が自分のものになる……と思える嬉しさに……今はこんな境遇にあるから恥も外聞もなく言ってしまいますが、筋も骨もとろとろと蕩けそうになりました。……
枕もとの行燈に照らされて、ええ、その女が、下働きの者にまかせもしないで、寝巻きに着替えました私のごつごつした結城木綿かなにかの着物を、絹物のように優しく扱って、袖畳にしてくれたのでございます。
部屋着を着た女の腰帯に、行燈の破れ目から漏れた光がさしているのも、蝶々が止まっているように見えました。ぞくりとする肩を掛布団で包みながら、私が恍惚と見つめていますと、畳んだ袖をスーッと扱いていた女の指先が、袂の端でピタリと止まったのです。
ほんのりと濡れたような目に、柔らかな眉が覗く横顔を見せながら、
『貴方はご存じね』
――と言いました」
延一は続けざまに三度ほど、しゃがれた咳をして、
「私に、自分のことは全部知っていて来たのだろうと申しまして、
『これを預からせてくださいませな。手を入れますよ、よろしいですか……』
と念を押して、その袂から抜いて取ったのが、私が車屋からもらった蝋燭でございます」
「ほう」
と欣八は、這い寄って身を乗り出した。
「蝋燭を手にしたその美人は、玉で刻んだ仏具のような、尊いものを持ったように思えました。
遣手婆も事情を知っていた。できる限り秘密にして、それとなくこの美人と逢わせるようにしたのではないか、と私は思います。……
『どちらのお蝋でござんすの?』
まずそう訊くのがお決まりなのだそうです。……食事よりも風呂よりも、その女は蝋燭が好きなのですが、それも新しいものより燃えさしの蝋燭で、その燃えさしの香が、なんともいえずいいのだとか。
その、燃えさしと言ってもですね……。
一度、神仏の前に供えたものだとわかると、蝋燭を持つ手もぶるぶるとするほど、身を震わせて喜ぶんだ――と前にお話ししました、友達と銀座の松喜屋で牛肉をたらふく食べましたときに聞いていましたので、
『人形町の、水天宮様の蝋燭だ』
と、その女に言ったのでございます。電車の通り道から、ふと思いつきました。銀座には地蔵様もございますが、一言で誰にでもわかるような場所のものをと思いましてな。ええ。……」
と言って、じろじろとあたりを見回した。
それにつられて欣八も、きょろきょろと頭を振る。