四
「ああ、旨いな」
すぱすぱと吸った煙草の煙を吐く。溝石の上に腰を下ろして、前のめりにしゃがみ込みながら、くわえた煙管の吸い口をカチカチと歯に当たって、斜めにかぶった帽子が、ふらふらと揺れている。……
夜は更けたとはいえ、この男は寒さに震えているのではない。骨の髄までぐでんぐでんに酔っているのである。ともすると前のめりに倒れそうになるのを、道ばたの電信柱の根にすがって身を支えながら、もう片方の手で立て続けに煙草を吸いつけている。
「旦那、だいぶいける口のようですね」
あまりの寒さに、せめて客席に置いてある膝掛けを引っつかんで、抱いて暖まりたいと思っていそうな車夫は、運賃の交渉が済んで、これから乗せようとする酔っぱらいが、ちょっと一服させてくれと、人力車の看板にした提灯の火で吸いつけた煙草を吸うのを待つ間、氷のように堅くなって、催促がましく左右の足を、電柱にこすりつけていた。
「なに? だいぶいける口のようですね……なんて言われると、お酌をされてもう一杯と勧められているようだが、酒はもうたくさんだ。この上は女だね。ええ、どうだい、泥酔しても本性は変わらずで、間違いのないことを言ってるだろう」
「なんならお供をいたしましょう、ええ、旦那」
「お供だと? どこへ」
「お馴染みの女郎のところへでございまさあね」
「馬鹿にするない。見附まで俥で来て、外濠線の電車に乗り換えようと思ってたら、ぐっすり寝込んでいて、そのまま通り越して運ばれてよ、内藤新宿の閻魔堂まで来たと大声で言われて、驚いて俥から降りたんだ。お供なんてよく言ったもんだ。岡場所は目の前じゃねえか。
電車がなくなったから、あんたのおっしゃる通りに高い運賃を払って、恐れながらも乗ろうっていうんだ。四、五軒ほどの距離を転がして、はい、さようならって言うんじゃ、あんまりにも阿漕な商売じゃねえか」
口を曲げて言うと、俥の看板の提灯に照らされながら苦笑して、
「と、まあ……言ってみたってもんだ。実のところ俺には、今どこにいるのかさえわかりません。いったい、右側か、左側か」
「四谷大木戸に向かって左側に来たところです、へい」
「さては、さっきの車夫は、電車路を通り越したな。そのまま引き返せばよかったものを、どういうつもりで渡ったのやら」
と、真顔になってうつむいた。
「車夫、車夫って、私をお呼びになりながら、いきなり通りを横切って、俥をお止めにになりました」
「……夢中だったから覚えてない。よっぽどまいっていたらしい。やけに長い、ぐらぐらする橋を渡っているんだな、なんて思っていたっけ。ああ、酔った。それにしてもいい気持ちだ」
と、ぐったりしてうつむいた。
「旦那、旦那、さあ、もう乗ってください。……冗談じゃない」
と、ことばの最後はつぶやき声で言って、敷石に足をかけると、そこに置いた提灯をひょいっと取りあげた。
暗がりのなかでその燈を、鼻先をかすめてスーッと持ち上げられると、酔っ払いはハクションとくしゃみをした。まるで細い箍が嵌った、どんよりと黄色い魂を、口から抜き出されたように、仰向いてぽかんと目を開いた。
「ああ、ちょっとそれを貸せ」
「そんなことをしたら燃えます。旦那、提灯に乱暴をしちゃいけません」
「貸しなよ。煙草に火をつけて、もう一服したいんだ」
「マッチをあげますから」
「味が違います。……酔い醒めの煙草は蝋燭の火で喫むと決まってるんだ。……けどな、これが粋な場所だったら、花魁が鼻紙を裂いて、行燈の火を移して吸いつけた長羅宇でつけてくれる、というところなんだが」
と、中腰になって提灯に煙管を突っこむと、表の紙に雁首がぼおっと大きく映ったが、それが火を吸いとったかのように暗くなった。
「お前さん、火を消しちまったよ」
車夫はこっそり舌打ちをする。
霜夜にぷんと蝋が香って、ぼんやりと薄い煙が立った。
「車夫」
「何ですか」
「……内藤新宿の岡場所に桔梗屋という店があるかい。――どこだね」
「ですから、先ほどからお供させてくださいと言ってるんで。へい、すぐそこですよ旦那、運がいいですね。ご祝儀をくださるとお思いになって、そこで一杯おごって暖まらせてくださいよ。寒くってやりきれませんや」
と言うと、わざとらしくガチガチ震えてみせる。
「この集り屋め」
と、酔っ払いは笑いながら、
「最初の約束どおり、市ヶ谷までの運賃は払うよ。……だが、もう俥はいらない。そのかわり、この蝋燭の燃えさしをもらっていく……」