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「ああ、(うま)いな」

 すぱすぱと吸った煙草の煙を吐く。溝石(みぞいし)の上に腰を下ろして、前のめりにしゃがみ込みながら、くわえた煙管(きせる)の吸い口をカチカチと歯に当たって、斜めにかぶった帽子が、ふらふらと揺れている。……

 夜は更けたとはいえ、この男は寒さに震えているのではない。骨の(ずい)までぐでんぐでんに酔っているのである。ともすると前のめりに倒れそうになるのを、道ばたの電信柱の根にすがって身を支えながら、もう片方の手で立て続けに煙草を吸いつけている。

「旦那、だいぶいける口のようですね」

 あまりの寒さに、せめて客席に置いてある膝掛けを引っつかんで、抱いて暖まりたいと思っていそうな車夫は、運賃の交渉が済んで、これから乗せようとする酔っぱらいが、ちょっと一服させてくれと、人力車の看板にした提灯(ちょうちん)の火で吸いつけた煙草を吸うのを待つ間、氷のように堅くなって、催促がましく左右の足を、電柱にこすりつけていた。

「なに? だいぶいける口のようですね……なんて言われると、お酌をされてもう一杯と勧められているようだが、酒はもうたくさんだ。この上は女だね。ええ、どうだい、泥酔しても本性は変わらずで、間違いのないことを言ってるだろう」

「なんならお供をいたしましょう、ええ、旦那」

「お供だと? どこへ」

「お馴染みの女郎のところへでございまさあね」

「馬鹿にするない。見附(みつけ)まで(くるま)で来て、外濠(そとぼり)線の電車に乗り換えようと思ってたら、ぐっすり寝込んでいて、そのまま通り越して運ばれてよ、内藤新宿の閻魔堂(えんまどう)まで来たと大声で言われて、驚いて俥から降りたんだ。お供なんてよく言ったもんだ。岡場所は目の前じゃねえか。

 電車がなくなったから、あんたのおっしゃる通りに高い運賃を払って、恐れながらも乗ろうっていうんだ。四、五軒ほどの距離を転がして、はい、さようならって言うんじゃ、あんまりにも阿漕(あこぎ)な商売じゃねえか」

 口を曲げて言うと、俥の看板の提灯に照らされながら苦笑して、

「と、まあ……言ってみたってもんだ。実のところ俺には、今どこにいるのかさえわかりません。いったい、右側か、左側か」

「四谷大木戸に向かって左側に来たところです、へい」

「さては、さっきの車夫は、電車路を通り越したな。そのまま引き返せばよかったものを、どういうつもりで渡ったのやら」

 と、真顔になってうつむいた。

「車夫、車夫って、私をお呼びになりながら、いきなり通りを横切って、俥をお止めにになりました」

「……夢中だったから覚えてない。よっぽどまいっていたらしい。やけに長い、ぐらぐらする橋を渡っているんだな、なんて思っていたっけ。ああ、酔った。それにしてもいい気持ちだ」

 と、ぐったりしてうつむいた。

「旦那、旦那、さあ、もう乗ってください。……冗談じゃない」

 と、ことばの最後はつぶやき声で言って、敷石に足をかけると、そこに置いた提灯をひょいっと取りあげた。

 暗がりのなかでその()を、鼻先をかすめてスーッと持ち上げられると、酔っ払いはハクションとくしゃみをした。まるで細い(たが)(はま)った、どんよりと黄色い魂を、口から抜き出されたように、仰向いてぽかんと目を開いた。

「ああ、ちょっとそれを貸せ」

「そんなことをしたら燃えます。旦那、提灯に乱暴をしちゃいけません」

「貸しなよ。煙草に火をつけて、もう一服したいんだ」

「マッチをあげますから」

「味が違います。……酔い醒めの煙草は蝋燭(ろうそく)の火で()むと決まってるんだ。……けどな、これが粋な場所だったら、花魁(おいらん)が鼻紙を裂いて、行燈の火を移して吸いつけた長羅宇(ながらう)でつけてくれる、というところなんだが」

 と、中腰になって提灯に煙管(きせる)を突っこむと、表の紙に雁首(がんくび)がぼおっと大きく映ったが、それが火を吸いとったかのように暗くなった。

「お前さん、火を消しちまったよ」

 車夫はこっそり舌打ちをする。

 霜夜にぷんと蝋が香って、ぼんやりと薄い煙が立った。

車夫(くるまや)

「何ですか」

「……内藤新宿の岡場所に桔梗屋(ききょうや)という店があるかい。――どこだね」

「ですから、先ほどからお供させてくださいと言ってるんで。へい、すぐそこですよ旦那、運がいいですね。ご祝儀(しゅうぎ)をくださるとお思いになって、そこで一杯おごって暖まらせてくださいよ。寒くってやりきれませんや」

 と言うと、わざとらしくガチガチ震えてみせる。

「この(たか)り屋め」

 と、酔っ払いは笑いながら、

「最初の約束どおり、市ヶ谷までの運賃は払うよ。……だが、もう俥はいらない。そのかわり、この蝋燭の燃えさしをもらっていく……」


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