三
「待て、待て、ちょっと……」
縁日が終わった番町通りでは、両側の家の戸は閉ざされて、明かりの消えた提灯をぶら下げた通行止めの杭が、寂しい町の真ん中に、まるで六道の辻の道しるべに鬼が植えた鉄棒のように、ぽつんと突っ立っている。そこからが帯坂の下り坂になる角のところで、右側に廂を垂れた小家の暗い軒下から、半纏に草履履き、頬被りをした男が姿を現すと、ずんずんと近づいてきた。
通行止めのその杭のあたりで、ぎくりと足を止めたのは、あの、古井戸の蔭からよろめき出て、和尚に燃えさしの蝋燭をねだった、古びた、だらしない身なりをした男である。船幽霊のようなその相貌を見るに、どうして手水鉢の柄杓を盗まなかったのか、とさえ思われる。
頬被りの男は、怒らせた肩から先につかつかと歩み寄って、
「待てったら、待て」
と、ドスを利かせた掠れ声を投げかけると、脅しをかけるように、頬被りから顎をしゃくりだして見せた。しかしそれも、一向に効果がない。……相手は待てと言われたとおりに、まるで破れた暖簾が風もなく、ただぶら下がっているかのように、立ち止まって待っていたのだから。
「どこへ行く」
と、黙ってじろりと顔を見る。
「どこへ行くのかと聞いてるんだ」
「はい、自宅へ帰りますでございます」
「家はどこだ」
「市ヶ谷の田町でございます」
「名は何ていうんだ」
と、低い声で問いながら、ぐいっと近寄ると、
「そんなことを聞くとな、大抵の生意気な奴は、人に名を聞くんならまず自分から名乗れ、なんて言って、手間をかけさせるのがお決まりだ。……俺はな、お前の名を聞いても、自分から名乗る必要もない立場にある。いいか、その筋の刑事だ。わかったか」
「はい、刑事の旦那でいらっしゃいますか」
と、蝋燭をねだった男は、破れた着物の上から見ても、浮きだした骨が痛々しいほどの痩せた胸の上でぎしりと組んでいた手を解くとおじぎをして、
「ご苦労さまでございます」
「むむっ、ご苦労さまときたか。……だがな、余計なことを言わなくていい。名を言わんかい。何ていうんだ、とさっきから聞いているんだ」
「進藤延一と申します」
「なんだ、進藤延一だと。へっ、やけに学のあるような、ハイカラな名前じゃねえか」
と、ことばじりがしどろもどろになって、顎を引っこめたかと思うと、妙にしょげかえってしまった。それも道理で、自分は刑事だと威した半纏着の男は、じつは下塗の欣八という、見るからに学のなさそうな町内の兄貴だった。
二七講の集まりの景気づけだ、縁日の日は縁起がいいぞと、御堂の一室に三方を据えて、宝くじ会が催されて……彼は、その世話役として居残っていたのだが……。
お燈明が消えかかった時刻になると、ふと魔が差したかのように、髪を振り乱して、骨の浮きだした男が、正面口の鰐口の下に立ち現れて、なぜそんなことをと思うものの、しかし断るにもちょっと口実の見あたらない、蝋燭の燃えさしが欲しいなどと願い出て、それを譲り受けるなり、姿をかき消すかのように門を出るまでの一部始終を、欣八は身を伸びあがらせて見ていたのだった。
「棄ててはおかれませんよ。冗談じゃねえ。あの魔物め。ご本尊のお不動様が火焔を背負ってるのにあやかって、自分も背中に火を背負って帰ったんだって、気づきませんでしたかい。
下町はずっと火事続き。さいわいにも、ここ山の手では騒ぎが静まってる。この中休みのうちに風向きが変わって、今度はそこの井戸端が火元になりそうだ。そう、きっとあいつが放火魔なんだ。見逃してやったが最後、すぐに番町は黒焦げですわ。ここは私が奴を生け捕ってやる。ご覧になってておくんなさい、奴は火事の卵だ。とっ捕まえて金魚鉢に泳がせて、これが火元の金魚だと、見世物にしてお目にかけるぜ……」
「こればかりは、疑うに越したことはない」
と、御堂の住職も、眼鏡の縁を揺らしながら言う。
宝くじ会の親方が、
「欣八、抜かるな」
「合点だ」