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【原文】青空文庫

https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3654_26092.html


【登場人物】(〇は主要人物)

進藤(しんどう)延一(のぶかず)  蝋燭(ろうそく)を求める男

 不動尊寺院の和尚

下塗(したぬり)欣八(きんぱち)  進藤の話の聞き手となる若者

 遊廓、桔梗(ききょう)屋の若い衆

 桔梗屋の遣手婆(やりてばば)(遊廓を管理する老女)

 お勝  桔梗屋の下女

白露(しらつゆ)  桔梗屋の遊君(おいらん)



 如月(にがつ)のはじめから三月の末へかけて、まだしっとりとした春雨の季節にならない間に、毎日のように風が吹いた。風は北から南から吹き(すさ)んで、戸障子を(あお)る、柱を揺さぶる、屋根を鳴らす、物干し(ざお)をはね飛ばす。

 遠く都会を離れた海辺や山奥の地方では、こんなひどい吹雪(ふぶき)は、熊を鉄砲で撃ったり、鯨を(もり)で突いたりした(たた)りだといって戸を閉ざし、冬ごもりをしている頃であろうけれど……。同じように東京でも砂埃(すなぼこり)との戦いを避けて、家々が穴ごもりをしているかのようである。

 泊まり続けの遊里で迎えた朝の御手洗い、手水鉢(ちょうずばち)の砂を含んだ水がじゃりっと感じられて、ふと我に返った客もいたことだろう。

 羽目板も天井も乾いて反りかえって、溜まった(すす)に小石でもぶつかれば、そのままチリチリと火の粉が飛んで燃えだしそうで物騒きわまりない。下町から山の手まで、夜昼となく火事が起こって、火の見(やぐら)半鐘(はんしょう)が、時報の鐘かと思うほどひっきりなしにジャンジャンと打たれる。そこもあそこも放火(つけび)だ放火だと騒ぎたて、火の用心の夜回りをする拍子木が、枕もとに響く町々からは、安眠が奪われた年であったという。

 三月十七日の朝方には、めずらしく風がおさまり、そのまま穏やかに一日が暮れた。雨気(うき)を含んだ空気が(よど)んでいたが、連日の(ほこり)っぽさを思えば、むしろ気分が落ちつくともいえる。空はどんよりと曇り、じとじととした雲が一面に垂れこめて、星は見えないが、日暮れてしばらくは(おぼろ)な月が、大路小路を照らしている。町の(つじ)には流しの長唄も聞こえた。

 この十七日は、番町の大銀杏(おおいちょう)とともに名高い二七(にしち)不動尊の縁日である。月に六日ある二、七、十二、十七、二十二、二十七日の縁日のうち、月初の二日は、ちょうど夜店がいざ設営という時刻に、ぱらぱらと大粒の雨がなま暖かい風に吹きつけられて降ったから(そのくせすぐに晴れたのだけれど)、丸つぶれになった。以後の七日、十二日も、暴風が続いたせいで銀杏の(こずえ)もわさわさと揺れて、おどろおどろしかった。

 そして今夜ようやく、(かすみ)に夕化粧をほどこしたような、ほのかな月明かりのもと、とどこおりなく出店がかなったのである。

 不動尊寺院の御堂から一町ほど離れた大銀杏の下にある、桜草、(すみれ)山吹(やまぶき)に彩られた植木屋からはじまる通りに、夜の外出を楽しむ娘たちの姿も、蝶々簪(ちょうちょうかんざし)で飾られて、のどかに春めいて見える。酸漿屋(ほおずきや)の店に(あかり)(とも)り、絵草紙屋、小間物店が並ぶ夜の錦に、(くれない)の姿を織り込むような(にぎ)わいとなった。……

 とはいえ、立て続けに起こった火災のために、なんとなく人びとの心は落ちつかず、(かすみ)を照らす露店(ろてん)の灯が、赤坂見附(あかさかみつけ)の火の見(やぐら)に映えるのも、春を知らせる桜の前ぶれというより、遠火であぶられているかのような、不吉な予感を漂わせたのであろう。夜の九時だというのに、人々は屋敷町の塀の内に消えて、御堂の前もひっそりとしたのである。

 やがて提灯(ちょうちん)の灯も消えた。

 木立(こだち)の奥で、ひたひたと水が(したた)る音が聞こえる。くり返して水を汲む、柄杓(ひしゃく)の柄から伝い落ちる(しずく)の音である。(かげ)になったその場所には、手水鉢(ちょうずばち)があり、その背後(うしろ)には古井戸がある。……番町で古井戸というと番町皿屋敷を思い出すから、びしょ濡れで血だらけの女が皿を持って出そうだけど、そんな伝説がある井戸ではない。……参詣(さんけい)の人々が去った夜更けには、人目を避けて(がん)をかけ、素肌に冷水を浴びて水垢離(みずごり)をする者がたまにはいることを思えば、あるいはそれかもしれない。

 今、境内には人の気配もない。その井戸の片隅の、とりわけ暗い蔭に、あたかも水のなかから引き上げられたかのように、しょんぼりと立った影法師が、本堂の正面に二、三本燃え残った蝋燭(ろうそく)の、北斗七星に横雲がかかって、いくつか星が欠けてしまったような頼りない明かりに、ぼんやりと照らされていた。

 びしゃびしゃ……草履(ぞうり)()きなのか裸足なのか、水だらけの湿っぽい井戸端の地面を、そこに沈みこませた足で踏みつけている者がいる。陰気な姿で手水舎(ちょうずしゃ)の柱にすがりついたその影は、息を()いて、肩を揺すると、よろよろと敷石の上に歩み出た。

 開いた口が蝋燭の火をパッと吸ったかのように赤い唇を見せて、御堂の正面に吊された鰐口(わにぐち)の下に、もじゃもじゃと(ひげ)を生やした蒼い顔を出したのは、(ほお)のこけた男であった。

 息を内に引くような、力ない(せき)をして、(まゆ)(ひそ)めた男はうつむいた姿勢のまま、くぼんだ目で御堂の(なか)(のぞ)きながら言った。

「お(ろう)を」


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