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十八.夕食のひとときがヤバい


「わ、わ!」


「はいはい、御手をどうぞ。背中を丸めず……そうそう、その調子です。お上手ですよ」


「へへっ! なんだ、楽勝じゃん!」


 喉元過ぎればなんとやら。

 上機嫌のトリトニアはふらふらと危うげながらも、私の手を離せないながらも、吹き荒ぶ風を我が物として悠々舞う体を風に任せていた。

 コツを掴めばあっという間だ。アポロン神殿筆頭の偶像神威らしい才能には舌を巻く。


 もう良かろうと出たい私に、「もうちょっと!」「もうちょっとだってば!」と散々ごねるクソガキらしさを発揮して、ようやく終了を許可なさったトリトニア。

 私に手を引かせ装置を出た後も、興奮冷めやらぬ顔で繋いだ手を振り回す。


「すごいよ、これ! ほんとに空飛んでるみたいだった!」


「……ああ。悪くなかった」


 クソガキもご満悦の完成度。さぞ誇らしかろうと今回の功労者を見てみるが、彼らは成功の喜びに手を打ち合わせるような陽の真似はせず、各々が床に蹲り黙々とペンを走らせる、陰の振る舞いで成果を残していた。仕事熱心、良いことだ。


「たしかに悪くねェ。コイツひとつで、金も取れそうだなア……!」


 神官長もご満悦。普段の悪人面も喜色満面……とはならず、つい今しがた五人くらい殺ってきましたと言わんばかりの凶相だった。ずっと広間にいたはずなので、アリバイはある。推定無罪である。


 シリアルキラー疑惑を顔面だけに残した神官長は大人気なく神子二人を見下ろして「ひっ」と悲鳴を上げさせたあと、恐怖で強張るトリトニアから私の手を無理やり奪い取り、少しばかり視線をうろつかせ、ぐいと下唇を突き出して、


「……オレも、……やる」


 躊躇いがちに、そう言った。


 どなたを? と生じた疑問は自ら打ち消した。次の獲物を探しているわけではなかろう。

 責任者として、金儲けの手段として、使い心地と安全性を試したいのだ。そうに違いない。屋内スカイダイビングに獲物を放り込み、新たな拷問の手段を確立したいわけではないのだ。そうであってほしい。


「ダメっスよー」


 神官長の要望をあっさり却下したのは、やはり怖いものなしの演出総責任者だった。

 オリザサティバは手にした書面から顔を上げぬまま、ポリポリとペンの尻でこめかみを掻きつつ、


「神事まで時間無いっスー。神子様たちには大急ぎ、何度でも中に入って慣れて貰わないといけないっス。演出も演習も、衣装も、ぜーーーんぶそれに合わせて予定進めて、進めて進めて進める予定って決まってるっス。優先権は神子様っス」


「……一回くらいは良いんじゃないかしら。神子様たちだって、休憩は必要よ?」


「えー。必要っスか? 休憩。そんな暇あったら吐くまで試して欲しいっス」


「そう。わかったわ。……今よ! 神官長様!」


「あー! アマちゃん! ズルっス! ズルズルのアマちゃんっス!」


「今日こそ息の根止めるぞバカ野郎!」


 取り成し、のちに男声の罵声に変えて、オリザサティバにコブラツイストをかますアマリリス。相変わらずである。

 ベアグラスも慣れたもので、もつれ合う二人を他所に、予備として転がっていたヘルメットを神官長へ差し出した。


「こちらを、神官長様」


「いらねェ。ンなモンが必要なほど、軟弱に見えっかよ」


「……未着用のお方に、許可は出しませんよ」


 クソガキも顔負けの凶悪クソガキムーブでベアグラスから顔を背ける後頭部に言ってやれば、神官長は高々と舌打ちし、渋々ヘルメットを装着した。


「御説明は」


「いらねェ。神子に話してっとき聞いた」


 言うなりさっさと私の手を引いて、装置に長い片足を突っ込む神官長。繋いだ手に込めた力は、添えるような弱々しさであったので、そのままあっさり離れてしまった。


「……オイ」


 装着天井部に舞い上がり、そのままの位置で額に青筋立てる神官長の姿は、先の偶像神威とはひと味もふた味も違う、降りられなくなったとは思えない、極悪な貫禄に満ちていた。

 説明、本当に聞いていたのだろうか。


 ◆


「ボチボチってトコだな」


 早々と風の猛威に勝利して、絶対もう補助を必要としていないですよね、と疑う私の冷えた視線を完全無視し、すっかり気を取り直した神官長は後にした装置を振り仰ぐ。


「多少の装飾は必要だろーがよ、コイツそのまま舞台に置いても悪くねェんじゃねーか?」


「急拵えなんで、そのままは無理っスねー。野外だとまた色々変更点が出るっス。それに今回は神殿内の魔法具あちこち掻き集めたんで、返さないとヤバいっス。洗濯ができなくなって、冬の寒さも越えられないっス」


「……聞いてねェぞ」


「あ、バレたっス。間違えた、バラしたっス」


 私も聞いてない。許可も求められてない。

 衝撃の爆弾発言をしれっとのたまうオリザサティバの頭をアマリリスが押し込み平謝り。ベアグラスが慌ててフォローを始める背後、オリザサティバの部下たる精鋭チームもしれっとした顔で計測や記録を進めていた。

 あの神官長を前にして、これである。マッドマジカリスト、げに恐ろしき集団だ。


「ともかく、無理っス。イチから作るならアホより酷い予算が必要っス。……あ! 予算出るっスか! 出ちゃうっスか!」


「……いや、やめとく。なんべんも使えるモンでもねェしな」


「ええー……っス……」


 しばしの思案であっさり計画を打ち切る神官長にオリザサティバは不満を浮かべたが、何か言い出す前に助神官仲間に連れ去られていった。お見事、チームワーク。


「で。そっちはいつまで、手、繋いでるの?」


「……」


「チッ」


 お子様どものジト目に、神官長は忌々しげに舌打ちする。

 私としてはやっとのツッコミだが、彼にとってはそうでもないようで。まあ、子供の指摘を素直に受けるなど、プライドの高い神官長には許し難い状況であろう。


「……ン、」


「……どうも」


 慎重に、紐が自然と解かれるように、そっと離れていく、指。


 賢明に、縋るように、非常事態に怯える子供とは大違いである。彼らは必死で掴んできた。溺れる者は藁をも掴むのだ。藁束頭は役に立たない。藁束頭こそ元凶なので。


 装置の只中にいるときも、神官長は強く握るような真似はしなかった。顔色に恐怖も浮かべなかった。大人の余裕で、悠々と風に身を任せ、マリアアザミと指を絡めるだけに留め、特に慌てることもない。むしろエスコートまでしていた気もする。繋がる指をちょいと引き、方向を示し、互いに悪くないようバランスを整える。装置を出るときも、添えた手を支えにできるよう、一歩先を行き私を待った。大人だ。これこそ大人の姿。神官長は極悪非道のアポロン神殿神官長で、それに相応しい極悪非道の面構えを持つ、大人だ。大人なのだ。


 大人なのだ。


 大人である。


 そう、大人。


 おとな、とは……?


 ◆


 神官長アクイレギア。

 悪名高いアポロン神殿の総責任者である彼は、その座と容貌に似つかわしい、如何様な悪事も鼻歌交じりに軽々こなす、外道中の外道である。

 神をも恐れぬ傲岸不遜。神の子すらも道具として、ビジネスチャンスを決して逃さず、邪魔する奴らは返り討ち。

 味方すら恐れ戦かせる手練手管は見事の一言。悪役ヒロインの上を行く、悪の中の悪といっても過言ではない。


 そのアクイレギアが、片腕と言っても遜色ないポジションにあるとはいえ、部下一人の手をああも慎重に、丁寧に、優しく、壊れ物のように扱うだろうか? 否である。

 相手が女である、それだけが理由でああも紳士的なエスコートをするのものであろうか? 否である。


 では、あの装置に関する一件は何であったのか。

 子供相手に大人気なく、張り合うように名乗りを上げ、悠々と風と戯れる間も決してこちらの手を離さず、最後には惜しむように離れていった。


 悪役ヒロインであれば恩でも売る気かと企みを勘ぐるのみに留まるが、OLは違う。漫画、ドラマ、乙女ゲーと、現代日本で培ってきた第三者的な観点を持つOLであれば、こう考えるであろう。――フラグ! キタコレ!


 言ってる場合ではない。

 聞いてない。

 マリアアザミと神官長にロマンスの話なんて、聞いてない。


 いや聞いた。噂は聞いた。回りに回り、巡りに巡った、魔法具にしか興味のないオリザサティバにまで伝わるような噂の存在をたしかに聞いた。


 もちろん、マリアアザミは噂など知らぬ。

 彼女は孤高である。どのような悪巧みも、基本自分で、手当たり次第に手ずから他人を貶めてきた。情報収集くらいなら部下も使ったか。しかし大体が諜報を主とする、マリアアザミの命などなくとも自ら拾って上に報告するような、業務上の伝わりだ。身内の色恋沙汰に励むような、和気藹々とした噂の伝わりはない。


 OLの記憶はどうだ。

 乙女ゲー厶にマリアアザミはいた。当然いた。神官長もいた。登場した。マリアアザミを中ボスにして、大ボス扱いで登場した。ヒロインの数々の努力を無に帰す、厄介極まりない悪の首領として登場した。


――どうして、こんな酷いことをするんですか?


 ヒロインの問いは、大ボスたる神官長アクイレギアに向けられた。


――テメェが邪魔だ。目障りだ。理由なんざ、ソレだけありゃア上等だろ。


 まったく、悪役らしい物言いで、悪役らしい行動理由ではないか。恐れ入った。


 それだけだ。そんなもんだ。

 マリアアザミと神官長の関係など、悪役たちの裏の顔など、そんなものの詳細描写はない。乙女ゲー厶とは、ヒロインの成長を、イケメン共との恋愛を、世界と愛を美しく描いた物語なのである。


 だから、OLには知りようがないのだ。

 だから、マリアアザミに頼らねばならぬ。


 過去からは得られない。記憶を遡れば遡るほど、頭痛は強く激しく私を苛み、すべての思考を千々に乱す。耐える術はない。対抗策も用意できない。


 神官としての日々にならヒントはあるだろうか。

 マリアアザミの記憶を探る。仕事と、仕事と、それまた仕事。駄目だ。頭痛の起こらない範囲では、これが限界。人間関係など、仕事にまつわるやり取りから辛うじて察せるくらいのものだ。神官長との思い出など、悪巧みか神事に関する報告ぐらいの付き合いしか見当たらないない。


 体の反応はどうだ。

 多くはないが、神官長相手に、不意に沸き起こる不快感があった。OLを宿して初日のことだ。身内に甘い神官長の姿に、なんと馬鹿げたことだろうと、反射的に侮蔑を孕む、あの不快。……駄目だ。神官長が気に食わない、以上の推察は不可能だ。


 マリアアザミは神官長の甘さが不快。なるほど、神官長の片想いというわけか。顔に似合わず、否、あの顔だからか。不憫なものだ。あの悪人面も苦労しているのだな。何と言っても片想い。いい年こいて片想い。マリアアザミに片想いときたか。


 片想いと、きたかぁー……。


「うっ、うげ。うげええええ……」


 哀愁漂う思考回路を、だんだん大きくなってきたえずき音が遮ってくれる。

 今回ばかりは感謝しよう。確定事項でもないのだし、あまり、この件に関して考えたくない。


「大丈夫ですか? はい、どうぞ」


「……オマエ……気遣いとか、ないアル……?」


「気遣ったではありませんか。大丈夫ですか? はい、どうぞ」


「心籠もってないアル……」


 口の減らないアイチャンが恨めしげにこちらを睨めつけながら、それでも素直にスプーンを持ったので、私も着席する。

 指のない手で、どうして持てるのか。布に吸着と言っていたから、その応用だろうか。やはり不気味なマスコットキャラクターなのであった。


 テーブルには二皿のシチューと、二皿に分けられたパンの山。片方は小さく一口大にちぎり、机上に直接腰掛けるアイチャンの前に置いてやる。お行儀悪いが、椅子に座ると届かないので仕方ない。


 帰宅後。とりあえず私は夕食としてシチューを作り、ついでの思索に没頭した。鍋の中身をくるくる回すだけなど時間の無駄だ。単純作業が手を塞ぐとき、思考は働かせ放題。その恩恵は最大限利用すべきなのだ。

 おかげでマスコットキャラクターが死にかけているが。些末ごとである。


「せめて、食事時にはやめるアル。お互い食欲減退するだけアル。救いようがない惨事アル」


「……あの、住居は別にしませんか? それならお互い、気が楽なのでは」


「離れていても契約あるアル。どうせ、その魂の気持ち悪さからは逃れられないアル。それなら近くにいた方が、心の準備ができて気楽アル」


 お陰様で、こちらは一切気が休まらないのだが。

 アイチャンは「寝床探すのも面倒アルー」としっかり本音を口にして、パンを手に取りたっぷりのシチューを掬い上げた。


「もむもむ。……ボクが言うのは、オマエのためでもあるアル。ただでさえ歪、ただでさえ微妙な魂アル。あんまり刺激すると良くないアル。もむもむ」


「おくちに物を入れて喋るのははしたないですよ。……先程のお話ですか? わたくしが、二人分の記憶を攫っていた際の」


 えずき続けるマスコットを完全スルーし、鍋の中身をかき混ぜながらの思索。神官長、マリアアザミに報われない片想い疑惑を精査していたときの話か。

 アイチャンは素直に口の中身を飲み込んでから、


「そうアル。混ざった魂、あんまり安定してないアル。会ったときも言ったアル。繋げているのはつっかえ棒、固定するには弱いアル。ちょっとの刺激でも、当たりどころが悪いとバラバラアル。バラバラになったら、そのまま死ぬアル」


「安定させる方法は」


「知らんアル」


 役に立たないお助けマスコットキャラクターである。


「なにアル! その目は! 失礼アル! だいたい、オマエの魂は例外中の例外って言ってるアル! あり得ないものの解決方なんて、それこそあり得ないアル! 知ったこっちゃないアル!」


「はいはい、失礼致しました。パンのおかわりがありますよ」


「もむもむ! もむもむ! もむもむもむ!」


 適当にちぎったパンを口に押し込んでやれば、大きすぎたのか咀嚼に時間がかかっている。良いことをした。


 とんでもなく力の籠もった顎の動きだが、マナーを守る気はある様子。

 素直に食事を続けるアイチャンをそのままに、私も食事に取り掛かる。たっぷりごろごろ野菜が私の好みだが、アイチャンに合わせて今回は小さめに切った。文句を言われると面倒なので。ツンデレではなく。本当にうるさいのだ。小さな体に似合わぬ声量、人間とそう変わりない。


 マスコットを黙らせて、ようやく食事を舌で味わう。ミルクとたくさんの野菜からなる、甘みとコクが織り成すハーモニー。じっくり煮込んだ甲斐があった。

 帰宅も危ういブラックではこうはならない。ホワイト退社様々である。


「というか、ふたり分の記憶を攫うアル? オマエそんなコトできるアル?」


「できますね。あまり、過去は遡れませんが」


 黙って食べられないのか、食卓は団欒あるべしとの信条か。多少の会話は構わないので乗ってやるかと、今更の疑問に答えてやる。


「……? オマエ、解決方法探してたアル。その、別の記憶? そっちから何か見つからないアル?」


「見つけると言われましても……こことは異なる、別世界の記憶ですので」


 普段は巾着に宿すことで妥協させたし、神官長はいちおう納得させたし。この謎生物を、誰かの目に晒すことはないだろう。トンデモ知識の持ち主とバレても問題ない。

 アイチャンを目にできそうな、会話まで可能と思しき他の人間は、正規ヒロインをおいて他にいないのだ。彼女の精神が同郷であるならば、頭おかしい扱いはされまい。……あの口の軽さが心配ではあるが。不味いことをしたか。


 アイチャンは特にペースを変えず、まったりじゃがいもを咀嚼して、飲み込んで、次に人参を掬ったあと、そのままスプーンを取り落とした。やつの居所はテーブルの上。高い位置から落下したわけではないので、跳ねたり皿を倒したりはしていない。良かった。大規模な掃除の手間はない。


「……えっ。別の、世界、アル……? 頭おかしくなったアル……?」


 頭おかしいマスコットまで、この言いよう。

 やはり、あまり言って回るべき事態ではないのだ。控えよう。


「わたくしの頭がおかしいだけなら構いませんが。魂の具合を感じ取れるあなたなら、多少は信用できませんか?」


「あー……んー……まあ、そうアルな。ちょっと納得したとこもあるアル」


 納得とは。

 もしや、先に言え案件だろうか。早く言ってさえいれば案件だろうか。人外の知識を侮ったか。アイチャン、ついにお助けキャラクターの面目躍如ターンが来てしまったのか。


「そんなにも複雑に魂が絡んだ理由、たぶん片方が違う世界のものアルからアル」


「あなたのお言葉は複雑ですので、極力簡潔に、とにかく簡潔にお願いしたいのですが」


「はいはいアル。えーっと、元の魂がバラバラになるアル。それで、別の魂が補ったアル。普通はないアル。あり得ないアル。ここまでは良いアル?」


「ええ。お会いしたとき、そのように」


「で。わかったのは、どうして可能になったか、の部分アル。簡単アル。世界が違う、これだけアル」


 ものすごく、ものすごく大した話じゃない。

 しかし話にはまだまだ続きがあるようで、アイチャンは少し視線を彷徨わせる悩みの仕草のあと、再び口を開いた。


「世界というのは……んー。なんて言えば良いアル。たくさんあるアル。本とか、紙束とかで例えればわかるアル? 一枚の頁、一枚の紙の上。その範囲内なら移動もできるアル。でも別の頁、別の紙、そっちに移動するのは無理アル。頁をちぎる、あるいは束にあった紙を引き抜いて、隣に並べれば大丈夫、って話じゃないアル。それをやると本は完全さを失って、紙束は崩壊するアル。この世の終わりアル。この世が終われば可能アル。でもこの世は終わってないアル。だからオマエの場合は違うアル」


「……なんだか、壮大なお話ですね」


「そうでもないアル。世界の存在は、その中に存在さえしていれば知覚できるアル。別の世界は無理。横移動はできても縦移動はできない、それだけアル。……続けるアル。肝心の、バラバラの魂が重なった理由、簡単アル。たまたま頁、あるいは紙の、下か、上か、それ以外か。別の世界にあったふたつの魂が、たまたま同じ座標に重なったアル。バラけた部分に、補う形に、たまたま寝返りしたらピッタリはまった、そんだけアル」


 ものすごく、ものすごく大した話ではなくなった!


「え、寝返り? 寝返りですか?」


「寝返りはものの例え……うーん、それもあり得ない話じゃないアル。記憶、遡れないって言ったアル? その原因も信憑性増すアル。寝惚けた魂の一部だけ、わずかに活動していた部分が、たまたま別の魂の欠けた部分にピタッと重なったんじゃないアルか? あちこち歪な理由はそれで、記憶障害の理由もそれアル。中途半端な部分と、中途半端な部分しか残ってないアル。日常生活送れてるのが奇跡アル。おめでとうアル」


「……ご丁寧に、どうも」


 ものすごく、ものすごく大した原因じゃない……とはいえ、判断材料にはなった。


 記憶はおそらく、戻らない。


 少なくともOLに関してはそうだ。別の世界、つまりは地球から、一部しか来ていないのだ。世界を渡る術がないとされる以上、追加分を得ることはできない。

 再び、世界軸上のたまたまの重なり、たまたまの寝返りを期待するのは難しいだろう。向こうの私がどこにいるかは不明、加えて寝返りなんて再現不可能ともなれば、可能性は天文学的数字というやつだ。無理だ。


 だいたいにして、OLが生きているかどうかも怪しい。

 アイチャンの言葉を鵜呑みにし、世界を越えた共通認識と捉えるとするなら、OLとて魂の一部を失っている。そして、魂が欠けすぎれば死を招く。


 社畜生活と乙女ゲー厶の記憶だけが抜け落ちたのだと、好意的解釈をしても良いが……社畜根性を失って、あの会社でやっていけるのだろうか。息抜きとしてなんとか見つけた乙女ゲーの記憶を失って、日々苦しんでいないだろうか。心配は尽きない。元気でやってくれていると良い。私も頑張る。


 マリアアザミの記憶は、どうだろうか。

 世界越えが必要なOLはまだしも、この世界出身のマリアアザミはなんとかならないか。無理か。砕けて欠けて失われた部位は、OLが担っているらしいし。取り戻せたところで、OLの追い出し方法もわからない。


 結局どうしても、現状維持なのか。

 やはりマスコットキャラクター、悪役ヒロインには役立たない。


 失意の中で食事を終える。私が片付けをする間、アイチャンはテーブルの上でごろごろして、私がシャワーから帰ってもごろごろしていた。豚まんではなく牛まんか。それは結局何まんだ?


 牛だか豚だか合い挽きだか、よくわからない生き物と同衾などしたくないので、木箱の中にタオルを敷いて寝床を作ってやることにした。

 木箱は良い。硬くて丈夫で、釘を打てば完全密室。捨てるも流すも思いのままだ。

 などと考えていたら嫌がられた。仕方ないので紙箱に変えてやる。勘の良いやつである。


「神の御使いとやらも、食事と睡眠を必要とするのですね」


 あとは寝るだけ。私はベッドに横たわり、アイチャンは部屋の対面にあたる隅っこ、そこに置かれた紙箱の中で、敷いたタオルをぽふぽふ整え、言った。


「そんなワケないアル。神の御使いを、ニンゲンやその他の生き物なんかと一緒にしないで欲しいアル」


「……お昼は果物を欲しがり、今の寝床作りも否定なさいませんでしたよね?」


「目の前で食べられてたら欲しくもなるアル。寝床は……まあ、寝なくても良いアルけど。休めるに越したことないアル。快適ならなお良しアル」


「……」


「おやすみアルー」


 アイチャンはタオルに埋まって横たわり、ぱっと黒豆の瞳を消し去って、ついでに口まで消し去って、のっぺらぼうとなって活動を停止した。寝息は聞こえない。胸が上下することもなく、寝返りを打つ気配すらない。不気味だった。


「……おやすみなさいませ」


 届きはしなかっただろうが、一応の礼儀として言葉を返す。明かりを消して、改めて布団に横たわった。

 いつでも快眠、寝付き抜群のマリアアザミの体だが、今日ばりはほんの少し、ごくごく短い時間とはいえ、意識を落とすのに苦労した。


 マスコットキャラクターって、いったい。


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