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刻印のノッカー  作者: アキハル
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7話

「お初にお目にかかる。アーロン=クリストフと申します」

 アーロンと名乗った栗毛の男は恭しく頭を下げた。

 外向き用に粗野な服を着ているが立ち居振る舞いに品の良さがあった。

 引き連れられた学友達も一様に丁寧な物腰でハクに向けて一礼をしている。

 だがイグナートに刹那送った下卑た目線。面の下ではイグナートを見下しているのは明らかだった。

 イグナートは気持ち悪くなって思わず目を背けた。アーロンのああいう目は見たことがない。自分のことは汚物か何かを見るように蔑むくせに、ハクに対しては純粋に敬意を持って接している。そのように切り替えられる人間が気持ち悪かった。

「今日は良き日です。ひと目見たときからお話してみたかったのです。いやあ、縁があって良かった。私も船を持っていてここにはよく来るのですよ」

「ごめんなさい。どこかで会ったかしら?」

「ええ、入港された日にちらと。巷で貴方はちょっとした有名人なのですよ。あれほど立派な船を持っているのですから当然でしょうが、それが見目麗しきご令嬢となれば殊更に噂は広まるでしょう。もっとも私は噂などに惑わされませぬ。そのお姿、立ち居振る舞いを見ればよく分かる。貴方が名のある貴族であることはね」

 アーロンは歌でも歌うようにまくし立てて言ったが、ハクは興味がなさそうに肩をすくめていた。

 聞いている素振りではなかったが、知ってか知らずかアーロンはまだ畳み掛けてくる。

「如何です?私のコテージでディナーでも」

「魅力的な提案ね。でも、私には先約があるから」

 ハクは忌々しげな目で奇怪な魚が納められた木箱を見るとイグナートに手を触れた。

 アーロンは顔をしかめていた。

「先約とは……まさかそこの野ネズミと、ですかな」

 心底意外そうな顔で見られた気がした。木箱に隠れて何も見えなかったが。

 余計なお世話だと態度で示してやりたかったが、やはり顔は木箱で隠れていて、両手も塞がっていた。

「卑賎な平民など、貴方の共にふさわしくない。そこの男は学院の異端児です。金目当てで入学した貧乏人、みなから後ろ指を指されて嘲笑されているのですよ」

 余計な情報をペラペラと話し始めた。口を塞いでやりたかったが、荒事にしたくない。

 イグナートは心を落ち着かせた。

 いつものように黙ってやり過ごせばよいのだ。心を殺して、ナサニエルのように。

 軽やかな足取りでハクはイグナートの肩を叩くと、

「なに、貴方こんなのにやり込められてるの?」

「うるさい。金持ち貴族なんだよこいつらは。楯突くと碌なことにならん」

 げんなりしながら言った。我ながら情けない。遅かれ早かれだったろうが新参に恥部を見られるのは屈辱的なものだ。焦燥感が湧いて出て、できるならこの場から逃げ出したかった。

「貴族ねぇ……ところでイグナート君、貴族ってどう思う?」

「なんだ急に。そりゃ悪く思ってるに決まってるだろ」

「どうして?」

 ハクの素朴な疑問にイグナートは戸惑った。

 貴族の何が悪いか。改めて問われると言葉が浮かんでこない。こういうときにサンジェルマンやナサニエルはすらすらとイデオロギーだなんだと高尚な話ができるのだが、どうにも自分ではまとまらない。

「そりゃあその……金とか土地とか沢山持ってるからだよ。しかも持ってないやつを馬鹿にしてくる」

 これが精一杯だった。素直に考えて、素直に頭から吐き出した答えだ。

 何か含蓄のあることを言おう頑張ったがそれは諦めた。自分に合ってない。

「貴方、諦めると言葉選びがとんでもなく雑になるのね」

「うるさい。そんなの、急に聞いてくるな」

「まあいいわ。じゃあ私が貴族の極意を教えてあげる」

 そういってハクはイグナートの懐をまさぐり始めた。抗議の声を上げるも無視される。

 やがてあるものをポーチから引き出すとアーロンの足元に叩きつけた。

 あるものとは手袋。なけなしの小遣いで買った、防火手袋だった。

「貴族の極意とは……舐められたら、潰す」

 堂々たる宣言。イグナートは開いた口が塞がらない。

 一方のアーロンは困惑よりも怒気の色を放っていた。

「ふざけるなよ平民風情が。貴様如きが決闘の真似事だと?」

 投げた手元を上手に木箱で隠したのか、どうやらアーロンはハクが投げたと思っていない様子だった。

 イグナートは足がすくんでいた。この後に何をしろというのだ。

「表に出ろ」

「いや待て。誤解だ。俺は争うつもりはない」

「ほう、日頃の意趣返しか?自分の所業が何を意味しているか知らんわけでもあるまい。それとも貴様は儀礼すら軽く見ているのか」

 アーロンは冷たい声で、顔の一切の歪めず、ただ静謐に怒りを滲み出していた。

 頭が真っ白になっていた。まず、木箱を下ろして面と向かって謝意を示さねばならない。

「平民の分際で……」

 不意に手が止まった。この男はまた毒を吐いた。いや、依然変わらず侮辱を続けていた。

 謝る理由がどこにある?イグナートもまた切れそうになっていた。

「ほら、やってやりなさいよ」

「焚きつける方は気楽だな。やるかよ。あいつは気に食わんがお前の思い通りに動くのも御免被る」

「お金出したげる。悪い虫を追い払った賃」

「…………」

 静かに木箱を置いた。

 悲しくなってくる。お金と聞いて頭の冷える自分が。お金と聞いて燃え上がってしまう自分が。

 貧乏人はいつも腹をすかして餌を待っているのだ。

 イグナートは毅然とアーロンの前に立った。

「悪いな。欲しくて欲しくてたまらなくなってきたんでな」

「な……なんだ急に」

「表に出てくれ。たまには仕返ししてもいいだろ」

 もう迷いはない。お金が欲しい。

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