13話
ある日、気がついたときから槌を持っていた。
ときどき水滴の音がする静謐な空間で、身動きの取れない窮屈な穴蔵。
迷宮のような洞窟、その細道をアリのように縫い進んで奥の奥で発掘作業に勤しむ。
ハンマーの嘴で壁を削り、ここぞという割れ目を見つけると強く打ち付ける。打って打って打ち付ける。喉が渇いたら、洞窟苔にたまった真水を舐めて潤す。そしたら打って打って打ち付ける。綺羅びやかな色の石を見つけたら当たりだ。また打って打って打ち付けて、掘り出した石を腰の麻袋に入れる。
打って打って打ち付ける。そしたら打って打って打ち付ける。
それが奴隷だった頃のイグナートだった。
子供でないと入り込めないような隙間を蛇のように身をくねらせて入り込み、強靭に編み込まれた麻袋が一杯となるまで鉱石を掘って削って詰め込む作業。
自分が掘っているのがどんな稀少鉱物でそんな用途で使われるのかイグナートは最後まで知らなかった。分かっていたのは腰に括られた命綱が切られれば二度と地上へは帰れないということ。袋一杯まで石を詰め込まないと、大人たちに鞭を打たれるということだけだった。
いつから奴隷の身分に落ちていたのかイグナートは覚えていない。親を知らない。物心ついたときから名前も知らない誰かの命令を粛々と聞いて生きてきた。それがどれほど理不尽で過酷であっても幼い故に疑問も持たず従っていた。
手元を僅かに照らす光る石だけを頼りに、こつこつと小さなロックハンマーを打ち付けて壁に埋もれた石を削り取っていく。色のついた石を持って帰ると大人は喜ぶ。ときどき色のついた石を持って帰ったのにぶたれて怒鳴り散らされることがあるが。
好悪の概念すら分からないほど未熟だったが劣悪な環境の重労働を長く続けられたのは適正があったからかもしれない。同年代はもとより自分よりも成熟した屈強な男達ですら負荷に耐えられず死んでいく。休憩などなく支給される食料もないので当然ばたばたと餓死していった。あるいは閉鎖空間に耐えられず狂死する者もいた。
その点、イグナートは目敏く、石を伝う真水を舐め取り、洞窟内の洞穴生物を捕まえて腹に入れていた。また、よく働くので途中からは乾パンを持たされた。
生き残れた最たる要因は生来の粘り強く几帳面な性格故か。少なくとも石を削り出す、掘り出すという作業に没入すると他事は何ら苦痛ではなかった。
発掘が好きだったかというとよく分からない。ただ食事や排泄と同等の生理現象のようにイグナートの日常に馴染んでいたのは確かだ。
今思い返せば異常だ。極僅かの食料と身動きの効かない腕も足もまともに伸ばせられない閉鎖空間の只中、ただ槌で小衝くだけの作業を延々とこなすだけの人生など。
思うに当時の自分は人間ではなかった。否、動物ですらなく、その有り様は物言わぬ人形に等しい。何も考えていないのだから、何も否定しなかったし肯定しなかった。発信しなかったし受信しなかった。ただ難しいことを考えず一心に目先の問題に取り組んだだけ。
そんな無心の日々が何日続いたか、何も考えていなかったので月日の流れは分からないが終わりは突然やってきた。いつものように命綱を頼りに作業場から外界まで戻ったら、肉の腐った匂いがした。見渡すと一面が血の海になっていた。洞窟とその入口は血肉の絨毯が敷かれており、外の森を歩き回ってもまっとうなヒトガタの躯はどこにも転がっていなかった。
不意にイグナートはすっとぼけた声を聞いた。
「あれえ。生き残りがいるなぁ」
男とも女とも知れない声だった。
大きな荷物を背負い、円筒形のツバの長い帽子を被った誰かがそこに立っていた。緑色で統一された旅人の服装は常ならば森林に親和するはずなのに血の池では異彩を放っていた。
「君、気付いてないのかい?栄養失調で死にかけているけど」
イグナートは訳も分からずにその場で立ち尽くしていた。そも、職務に関わる会話以外したことがないので、健康を心配する声にどう反応すればよいのか分からない。
「もう自由なんだ。どこへなりと行くと良い。ちゃんとご飯を食べてよく寝なよ」
にっこりと笑って男は立ち去っていった。
イグナートは手近な岩に座り込むとただじっと大人しくしていた。半日過ぎた頃、ようやく奴隷から解放された事実を受け入れた。
そこからまた一日じっと待った。ひょっとしたら命令してくれる誰かが現れるかもと思ったのだ。
現れなかったので自由を受け入れた。
最初に何をしたかというと腹拵えだった。異常事態でも腹は減るのでキャンプ場の食料庫を開けた。尋常であれば食べ物の備蓄に手をつけるなど鞭打ちでは済まないだろうが、遠慮はしなかった。生まれて初めて腹がいっぱいになるまで食べた。
食料庫が空になると、することがなくなったのでキャンプ地で何かを待とうとした。
ぶくぶくに膨れた腹が痛くなってきた。いや、全身が痛い。うまく消化できていないのかもしれない。
イグナートはそのまま動かなくなってしまった。苦痛の中で大人たちの仲間に見つかれば殺されるかもしれない、などと焦りながら一所にとどまる危険に気付いたがもう動けない。
疲労でよく覚えていないが、汗まみれの頬を誰かの手が優しく触れた。
「なにやってんだい君は」
緑の男の声だった。
無意識に差し出された手を強く握り返していた。
イグナートは緑の男としばらく一緒にいた。
サンジェルマンに拾われたのはそれから五年後のことだった。




