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第一話









「それで、この世界の歴史はどうなっているんだ?」


 ある日の休日、将和と清は外出をして呉市内にある下宿先の家に集まっていた。


「ん。取り敢えず俺も学校にいるからそれ程の資料は集められなかったけどな。まぁ順に説明するぞ」


 そして将和は順に説明していくのである。










 将和率いる但馬三好家(後に続く将和の家系)が日ノ本を統一したのは1587年である。将和はガレオン船等を整備して海外貿易を活発化させ蝦夷地の開発し更に台湾、済州島を占領する。他にも小笠原諸島にも進出をして以後統治下に置き善政を敷いて1618年に逝去するのである。

 話はそれからであった。


「どうやら……後を継いだ将弘が何かとやってくれたようだ」

「成る程、将弘君か……」


 二代将軍の将弘は将和同様に前回の記憶持ちだった。そのため将弘はその時代でやれる国内開発と整備を行うのである。

 将弘は後の時代(明治)に繋げるよう下地を予め作っていたのである。しかも幕末を想定して三好幕府に節約を促し余った資金は将弘が指定した場所に埋められそれは20年毎に少しずつ増やされていた。(後述)

 他にも外国ーーオランダから技術力を受けながら武器の開発及び促進に勤め幕府陸海軍の強化をするのである。三好家の将軍に就任する者は必ず将和が死ぬ間際に残した「異国の敵に備えるべし。我が家系は日ノ本を護る家系なり」を耳にタコが出来るまで聞かされ、その言葉が三好幕府の善政に繋がるのである。

 そして時は嘉永の時代に移る。

 嘉永6年、ペリー提督率いる東インド艦隊が浦賀沖へ到着する。幕府は将軍に将和の曾祖父である将衡が就任したばかりだったが将衡は懸命に働きをし東インド艦隊に市井の民の混乱を避けるために鎌倉沖での停泊・投錨を要請した。

 しかし、ペリーは幕府(将衡)が出した鎌倉沖での投錨要請を無視してそのまま浦賀沖まで向かいそこで投錨したのである。これについては合えて強硬策に出る事で幕府の譲歩を促そうとしたのであるがこれがペリーの痛恨のミスであった。


「何? 奴等は鎌倉沖の投錨を無視したと?」

「真っ直ぐ浦賀沖まで航行中です」

「……良し。これより奴等は『敵』と認識せよ!! 浦賀沖を奴等の墓標にするのだ!!」


 浦賀奉行所からの報告により将衡はこれを敵対行動を見なした。そして三好幕府(指揮権は老中阿部正弘に委ねた)は待機していた幕府海軍に対して攻撃命令を発令。

 幕府海軍は保有していた全隻を以て突撃を選択し夜間に夜襲を敢行し乗船、決死隊による斬り込みをしたのである。そのため斬り込みをされた東インド艦隊は大混乱に陥ったのである。

 後にこの海戦は江戸湾海戦と呼ばれるのであった。

 それはさておき斬り込みから直も抵抗していたペリーだが遂に組伏せられ首をはねられて戦死、四隻の黒船は全て捕獲されたのである。

 オランダ経由から情報を聞いたアメリカーー第14代大統領のフランクリン・ピアースーーは(この時、ペリーの塩漬けされた首も届けられた)翌年の1854年に改めて日本への謝罪とタウンゼント・ハリスがピアースの使者として全権大使に任命され日本に来日し、ハリスは将衡、祖父の和盛らと協議をして日米和親条約が締結された。

 条約は史実の内容ではなく単に捕鯨船への水・食糧の提供等に留められるもこの条約によって日本は本格的な開国を告げる事になる。

 他にも日米和平条約が結ばれ東インド艦隊の生存者が返還されるのである。(ただし、返還には代金での支払い。更に捕虜としての抑留中の生活費代も請求。また、蒸気船『サスケハナ』『ミシシッピ』は戦利品とされ『サラトガ』『プリマス』は日本から再購入という形になる)

 その後、再び全権大使のハリスと共に日米通商条約を締結する。なお、この通商条約も史実と比べたら対等な立場での条約であり治外法権や関税自主権は初めからなかったものである。

 というよりもペリーの東インド艦隊での事件がありまた和盛と会見したハリスも「不平等条約はやめるべき」とアメリカ本国に具申していたので予定から撤廃に変わったのである。

 そして将衡の後を継いで三好幕府の第14代将軍に就任した三好和盛(将和の祖父)は一連の出来事を踏まえて幕府及び日本全体の近代化の必要を痛感しアメリカからガッポリと儲けた資金を元に国内の再開発及び各地に造船所と三好幕府陸海軍の近代化を図るのである。

 そして幕府陸海軍の近代化しつつ幕府の限界を感じた和盛は各地の有力大名を招集して幕府を朝廷に返還する大政奉還を決定した。

 1868年に明治天皇より王政復古の大号令が発せられた。それに伴い三好家は全ての官位・直轄の領地を真っ先に朝廷へ返還した。これにより薩摩の大久保利通や岩倉具視等が企んでいた三好幕府打倒がほぼほぼ不可能となったのである。


「我が三好家は初代将軍将和公及び二代将軍将弘公の命により今日まで軍資金を秘匿してきた。新政府にこれを分け与える。国内開発に投資してもらいたい」


 将弘の命によって秘匿してきた軍資金ーー合計して1600万両ーーを明治政府に寄付したのである。(1200万両)

 明治政府は軍資金の寄付に驚愕した。というのも幕府から交代した時も幕府の金庫には700万両の資金があり更に今回の寄付である。目敏い岩倉等は「もっと三好家からカネを取りまくるんや。奴等はそれ程の仕打ちをワシらにしてきたんや」と主張し全額を徴収しようとしたがそれに待ったをかけたのは明治天皇だった。


「歴史上唯一と言っても良い程の無傷での政権を委譲した家に対し私情とも取れる行動を取るなど言語道断である」


 岩倉達の行動に明治天皇がぶちギレたのである。なお、この行動により岩倉達の命運は決まったのも同然であった。

 斯くして三好家(分家を含む)は明治政府との連絡を握っておりまた、政府やその内部にも色々とパイプはあったので食扶持は当面セーフだったのである。

 なお、世界では「一人の犠牲者を出す事なく政権を交代した一族」と色んな意味で恐れられる事になる。

 そして極めつけは西南戦争だろう。史実と同じく明治6年政変にて西郷隆盛を始めとする参議の半数が辞職したのみならず軍人、官僚等約600人が職を辞する事になり頭を抱えた大久保利通が旧幕府の元老中等の採用を許可する事になり将和の祖父和盛もまた元将軍という形で内閣顧問として雇われる事になる。

 そして明治10年に西郷隆盛を首班とする士族約5万余りが鹿児島を占拠し薩軍として東上を開始したのである。

 政府は日本陸海軍及び警視庁抜刀隊等約15万を差し向け戦いは約半年間にも及んだ。

 この時、三好家でも多数の人物が陸海軍及び警視庁抜刀隊に参戦していた。中でも将和の伯父である三好将光は警視庁抜刀隊で参戦し元会津藩家老佐川官兵衛を狙撃から助ける場面を展開している。

 また、歩兵第14連隊に配属されていた将光の三男三好将典少尉は伊東隊の岩切正九郎と斬り合いに転じ自身の命と引き換えに連隊旗が分捕られる事はなかった。

 その後、明治政府は明治維新で国内開発及び富国強兵を行いつつ諸外国ーー仮想敵国である清に備えた。そして1894年、日清戦争が勃発した。

 史実よりも日本陸海軍の戦力はあった。陸軍は史実より歩兵16個師団、騎兵二個旅団、砲兵二個旅団を揃えて戦線に投入していた。

 なお海軍の編成は以下の通りだった。




 『和泉』型防護巡洋艦

 『和泉』


 『浪速』型防護巡洋艦

 『浪速』

 『高千穂』


 『秋津洲』型防護巡洋艦(国産)

 『秋津洲』


 『吉野』型防護巡洋艦(『須磨』以降国産)

 『吉野』

 『高砂』

 『須磨』

 『明石』

 『千代田』


 『松島』型防護巡洋艦(史実『新高』型)

 『松島』

 『厳島』

 『橋立』

 『畝傍』




 史実の防護巡洋艦を購入しつ更に国内開発によって出来た造船所で建造した国産防護巡洋艦を揃えて日清戦争を迎えたのである。

 なお、戦争の経過はほぼ史実通りだった。が異なっていたのは下関条約だった。



 日清講和条約(下関条約)の主内容


・朝鮮が清国の属国の確認

・清国は日本に五億両の賠償金支払い(銀払い)

・遼東半島の割譲

・日清新条約の締結


 史実と異なり朝鮮が清国の属国である事の確認、二億両から五億両に増額されていた事くらいである。なお、1895年にはドイツ・フランス・ロシアによる三国干渉もあり日本は遼東半島を清国に9000万両で『売却』したのである。(これも銀払い)転んでもただでは起き上がらない事を証明したのであった。


「まぁ大体はこんな感じだな」

「成る程。まさか最初から台湾と済州島が日本の領土とは思ってなかったしなぁ……」


 清は染々と呟く。まぁ将和本人も深く頷くのであるが清はニヤリと笑う。


「ま、今回も頑張ろうや」

「お前も嫁さんはまた増えるかもなww」

「それはマジでやめてくれ……てかそれは言霊に近いぞ……」


 清の言葉に将和は溜め息を吐くのであった。そして同年は義和団の乱が史実通り勃発して史実通りに翌年1901年に鎮圧されるのである。なお、1901年には官営八幡製鉄所が操業開始する。そして1903年、将和と清は海兵学校を卒業し少尉候補生となるも二人は特命として海軍省に呼ばれた。


「何かしたっけ?」

「さぁ……?」


 首を傾げる二人だが入室した部屋に入ると出迎えたのはまだ少佐に進級したばかりの伏見宮だった。


「やぁ二人とも、俺が死ぬ時以来か。久しぶりだな」

「み、宮様……まさか……」

「あぁそうだ。奇しくも俺も記憶を持ったまま、またこの世界に来たようだ」


 驚く二人を他所に宮様はニヤリと笑う。


「海兵学校で何かと話題の二人だからな。直ぐに目星は付いたよ。ちなみに陛下や伊藤さん達も記憶を持ったままだ」

「ッ!? 陛下達もですか……」

「あぁ。皆、お前が来るのを待っていた。本来、幕府を担っていた三好家は取り潰しも視野されていたが、陛下は許さなかった。絶対に三好が来るとな」

「へ、陛下ァ……」


 将和は陛下の行動に涙を流す。そこまで自分を信用してくれていたとは思ってもいなかった。


「日露開戦までは前回と同じところに付かせるからな。今回も頼むぞ」

「はいッ!! 任せてください!!」


宮様の言葉に将和は敬礼で答えるのであった。なお、程なくして将和と清は陛下や伊藤博文らと合流する。


「三好、よくぞ来てくれた」

「陛下。あの時以来です……」


 将和は皇居で明治天皇陛下と久しぶりに会う事が出来た事に涙を流す。


「朕の命数は分からぬがまたその日までよろしく頼むぞ」

「ははっ、お任せください」


 改めて将和は陛下に頭を下げるのである。


 なお、現時点での日本の領地は以下の通りであった。


 本州(四国 九州を含む)

 北海道

 沖縄

 台湾

 千島列島

 済州島


「陸に関しても問題は無いぞ」

「無論海でごわす」


 将和が来たと聞いて慌てて皇居に来た山縣と山本権兵衛はニヤリと笑う。この時、陸軍は前回と同じくM1897七五ミリ野砲をフランスから1900年に300門購入しその後は『三六式野砲』として採用、ライセンス生産して各砲兵隊に配備しつつあった。なお、史実三一年式速射野砲も二九年式速射野砲として採用され生産されていたが三六式野砲の生産集中のため廃止されていた。

 そして海軍は海軍で前回の『六六艦隊』から構想を大きく膨らませていた。


「戦艦八、装甲巡洋艦十隻の八十艦隊。此処で御披露目とさせるでごわす」


 海軍は前回の教訓から輸入戦艦は『敷島』型までとし1900年から国内造船所にて国産戦艦である『薩摩』型の建造を開始させていた。また装甲巡洋艦に関しては史実の六隻の他にも『ジュゼッペ・ガリバルディ』級の『ミトラ』(後の『春日』)『サン・ロカ』(後の『日進』)を購入、戦列化させていたのだ。


「他にも『筑波』型を建造している。こいつは間に合うでごわす」

「ほぅ」

「しかもタービンを搭載しているでごわすよ」

「タービン!? 待ってください、もしかして……」

「パーソンズ式とブラウン・カーチス式、どちらもだよ」


 確かに有り得なくはなかった。パーソンズ式の親会社は1897年には設立していたしタービンを搭載した駆逐艦や輸送船も就役していたのだ。

 ブラウン・カーチス式も史実では1903年にドイツの汽船にタービンが搭載されていたので有り得なくはなかった。


「まぁ楽しみにしているでごわす」


 将和にそう言う山本であった。だが将和も言わなければならない事があった。


「……陛下」

「どうした?」

「実は皆様に言わなければならない事があります」

「何でごわす? 改まって……?」

「実は自分……この三回目の日本を経験した記憶があります」

「……待て、そうなると御主……」


 将和の言葉を理解した山本は将和が何を言うか分かった。


「はい、この先の戦争……及び日本の行く末……大体は知っています」


 その言葉は遥か重く感じるように将和は思えたのであった。









御意見や御感想等お待ちしていますm(_ _)m

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