第十三話
久しぶりの更新
1911年二月、史実では日本とアメリカは日米通商航海条約が調印され同年四月に発効された。が、この世界では既に関税自主権は撤廃されているので特になかった。
そして8月30日、第二次西園寺内閣が成立する。ちなみに韓国併合はされていないので(そもそも半島の宗主権は清国と明記されている)伊藤博文がハルビンで暗殺される事はなかった。そのため元老間での権力均衡は崩れず、山縣有朋の発言力が増大する事はなく陸軍の増強圧力が高まる事はなかった。
そして将和は斎藤海軍大臣ととある料亭にいた。
「『河内』の竣工は来年になるだろう」
「でしょうな」
『河内』型戦艦は日本が初めて建造する弩級戦艦だった。性能は以下の通りである。
『河内型弩級戦艦
排水量 23,000トン
全長 170メートル
全幅 26メートル
機関 宮原式石炭・重油混焼水管缶
主機 ブラウン・カーチス式直結タービン二基四軸推進
最大出力 三万五千馬力
最大速力 23.2ノット
兵装 30.5サンチ50口径連装砲五基
15.2サンチ単装速射砲十基
以下略(史実と同じ』
『河内』型は主砲を50口径30.5サンチ連装砲で統一されていた。また主砲配置は海軍初めてとなる背負い式であり前部一番、二番砲搭は背負い式、真ん中の三番砲搭は後ろ向き、後部の四番、五番砲搭は前部と同じく背負い式であった。背負い式はアメリカ海軍の『デラウェア』級戦艦や『フロリダ』級戦艦が背負い式砲搭だったので諸外国も特に気にする事はなかった。後に『河内』型の砲搭配置は超弩級戦艦『扶桑』型に受け継がれていくのである。
「それと……陛下はやはり……」
「……このままいけば来年の七月には……崩御致します」
陛下は周囲からの体調への配慮を拒否していた。将和が面会をして「何とか体調だけは気を付けて下さい」と言っても「済まぬ。朕の運命が決まっているならばその運命まで朕がすべき事を致す」と丁重に拒否をしたのだ。
「……分かった。わざわざ済まなかったな」
「いえ……それと別の事で御願いがあります」
「何かね?」
「来年の練習艦隊の航路変更をしてほしいのです」
「……前回と同じく『タイタニック号』の沈没というやつかね?」
「はい。未曾有の海難事故ではありますがたまたま練習艦隊の我が海軍がその近くを通り救助すれば……」
「フム……日本の国際評価は高まるわけか……」
「事故を出汁にするので後ろめたい気持ちではありますが……それでも死者は幾分か減ると思います」
「……分かった。必ず出すよう手配しておく」
「ありがとうございます」
「それと君も練習艦隊に乗艦してもらう」
「ア、ハイ」
斎藤の英断に将和は頭を下げるのであった。そして1912年(明治四五年)2月、栃内曽次郎少将を司令官とした練習艦隊が出港した。参加艦艇は装甲巡洋艦『吾妻』『八雲』防護巡洋艦『吉野』である。そして教官として将和が乗り込んでいたが、彼の班員には前回と同じく山口多聞、大西瀧治郎がいた。
「隊長、お久しぶりですッ」
「また会えて嬉しいですッ」
「……マジで?」
面会に来た二人の開口一番に将和は唖然としたが気にしない事にするのであった。練習艦隊は史実とは少し異なりハワイ・ブラジル・アメリカ東海岸・イギリスのルートだった。これは斎藤大臣が「世界一周も悪くない」と多少強引ではあるが進められていたのである。
そして4月14日の2250時、練習艦隊はアメリカ東海岸からイギリスに向かう途中のニューファンランド沖で高さ二十メートル弱の氷山を発見した。
「艦長、最大出力での通信を周辺海域に飛ばせ。氷山があるので警戒されたしとな」
「ハッ、分かりました」
栃内はそう指示を出す。周辺海域は霧も出ていたが千島列島や東北沖合い等の演習で栃内は霧にある程度は慣れていた。
「……万が一もある。速度を少し落として氷山周辺十五海里を三時間程警戒しよう。氷山に近づけば発光信号で知らせればいい」
栃内はそう指示を出す。彼にしてみれば氷山が危険という認知しかなくその事態は直ぐに訪れたのである。
「司令官、客船が!!」
「何!?」
「停船信号を送れ!!」
「駄目です、間に合いません!!」
2340時、豪華客船『タイタニック』は氷山と衝突した。『タイタニック』は練習艦隊からの発光信号に気付き氷山を視認したのが距離五百メートルだった。この海域は世界的にも海霧が発生しやすい海域としても有名だったのだ。
「客船の救助に向かう!! 総員起こーし!!」
「総員起こーし!!」
三隻の練習艦隊は急いで停船している『タイタニック』の救助に向かう。
「舷梯下ろせ!!」
「ですが三好教官。まだ上から指示が……」
「良いから早くしろ!! 準備くらいは出来るだろ!!」
学生の言葉に将和はそう一喝して舷梯を下ろす準備をする。三隻は距離五百で停船して全てのカッターを下ろして『タイタニック』に向かうのであった。
結果的に言えば『タイタニック』の乗員乗客は客船『アパラチア』も加わった事を含むて史実より多くは救えた。しかし四月の大西洋は気温が低く海の海水気温は零下二度である。
史実では海に投げ出された人々の大半は低体温症や心臓麻痺等でほとんどが死亡した。しかし、この世界ではタイタニックに残ったタイタニックの設計者であるトーマス・アンドリューズ、スミス船長や機関長を含む機関部員や乗員乗客合わせて300名弱が死亡したのである。
「それでも救えた者達がいたのは確かだな……」
将和は救助後、自室でそう呟いた。前回と比べれば乗員乗客の犠牲は更に200人弱抑えられた。今回の事を考えれば史実より更に半分近くは救助出来た事になる。
「……安らかに眠って下さい」
練習艦隊は航路を一路アメリカに向けて航行していた。将和は艦尾で『タイタニック』が沈没した海域に向かって頭を下げるのであった。
『タイタニック』沈没は全世界に発信され練習艦隊の救助活動に全世界が感動をした。
「トーゴーの息子達が人々を救う」
「ジャパンが手を差し出した」
各国の新聞は一面に練習艦隊の記事が飾り、練習艦隊から撮影された沈没していく『タイタニック』の写真が掲載される。しかし、時代はまだ差別がある時代であり「奴等が沈めたのではないか?」「練習艦隊はわざと知らせなかった」等と書き立てられたが直前まで氷山発見の電文を放ち付近を航行する客船に警戒を促す電文を発信していたのでそのような噂は直ぐに消えるのであった。
なお、事件を聞いた坂本商会でも救命胴衣の備え等は厳重に準備されるのである。
そして1912年(明治四五年)7月30日0043時。開国した日本を僅か四五年という年月で世界列強の地位に確立させた明治天皇は崩御した。
実際には二九日の2243時であるが登極令の規定上、皇太子嘉仁親王が新帝になる践祚の儀式を崩御当日に行わなければならないため、崩御時刻を二時間遅らせた結果である。
陛下の崩御に日本中は悲しみに包まれた。将和もその一人であった。
「……陛下……」
将和は古い記憶から初めて陛下と会った時の出来事を思い出していた。その日、三好は一人で酒を飲む。一人なのに猪口を二人分用意されて一つは酒が入ったままだった。それが何なのかは将和しか知らなかった。
「陛下、運命は変えられるものです。それを自分は実感してきました。それなのに陛下は前回と同じ道を……」
将和はそう呟くのであった。翌日、将和は斎藤海軍大臣に呼ばれ海軍省に赴いた。
「君に渡す物がある」
斎藤大臣はそう言って一枚の紙を将和に渡す。
「これは……?」
「……陛下から君に送った遺言書だ」
「陛下が……?」
斎藤大臣の言葉に将和は首を傾げて文面を一目した。文面は以下の事が記載されていた。
『君と出会った日が懐かしく感じそれ程歳を取ったと思う。君からよく養生をと言われていたが、朕の身体は自身がよく知っている。明治という時代は日本の存亡の危機の時代だった。その時代を終わらせるには朕の命、それだけで良い。思えば前回も君と飲める機会が無かった。その点については真に申し訳ないという気持ちだ。君のその後の人生の事は東郷や伏見宮達から聞いている。本当によくやってくれている。表立って君を評する事は今は出来ないが朕が君を評する。日本のために戦ってくれて本当にありがとう。日本人として、帝として本当にありがとう。君さえ良ければ引き続き日本を頼む』
その事くらいしか書かれてなかったがその文は重かった。将和はその文面を見て涙を流した。
「……はい、必ずや日本を……史実には致しませぬ……お任せください……全力全開にこの命を燃やし尽くします。その時は二人で飲みましょう……」
改めてそう誓う将和だった。その後、嘉仁親王が即位して年号を大正と改元となり同年9月13日に明治天皇の大喪儀が行われた。
その後、第二次西園寺内閣で上原勇作陸軍大臣による二個師団増設問題が発生したが山縣等の工作で二個師団の増設はならず、上原の後任には木越安綱が就任しようとしたが西園寺は「引っ張る自信がない」として内閣を総辞職した。
さて、問題は後任の総理大臣である。候補には松方正義が挙がるが松方は高齢を理由に辞退し内大臣兼侍従長の桂太郎が候補に挙がる。しかし桂は四ヶ月前に山縣との確執で現職に祭り上げられていた。
桂は将和と会い、どうするか相談していた。
「どうするかね三好君?」
「……まぁ前回と同じくではありますが、一つ手はあります」
「うむ……やはり伊藤さんをかね?」
「はい、伊藤さんを総理大臣にしましょう」
日韓併合という事がないので伊藤博文は暗殺を免れ未だに元老で頑張っていた。
「よし、早速やってみよう」
桂の提案の伊藤の総理大臣案は山縣も思案していた事もあり伊藤の総理大臣が決定され、史実にはない第五次伊藤内閣が発足したのである。
一連の行動で桂の首相指名に憲政擁護運動が発生したが伊藤に首相指名が報道されると「憲法の起草した伊藤なら……」と運動は次第に沈静化するのであった。
伊藤は原敬や高橋是清等を閣僚に迎えて(ほぼ史実の第一次山本内閣)、第二次西園寺内閣の教訓として軍部大臣現役武官制を緩和し予備役・後備役でも可にして融和的な政治をとり政局の安定化を図ったのである。
さて、海軍であるが弩級戦艦の『河内』型の竣工で弩級戦艦の保有に成功したが国力を考えると弩級を越える超弩級戦艦の建造をイギリスに発注する事になった。
これが超弩級巡洋戦艦『金剛』となる。なお、技術士官等は史実より多くイギリスに派遣されて日本の造船技術力は史実より引き上げられる。
発注は計画段階からヴィッカースと決められていたので裏工作は無く、松本和が追放される事はなかった。更にはシーメンス事件にも防ぐ事に成功、斎藤大臣が責任を取って辞職し予備役に編入する事にはならなかった。
それは兎も角、将和は『東雲』型駆逐艦『不知火』の艦長をしていたが1913年四月には創設したばかりの横須賀海軍航空隊に転任した。海軍はモーリス・ファルマンMF.7の浮舟型を三機、陸上機型六機を購入しており三好達パイロットは両機を交互に教官から訓練するのであった。なお、前回も操縦していたので将和は直ぐにベテラン並の腕を発揮し教官からは「飛行機を操縦するために生まれてきた男」と言われる。(いいえ、ただのカンニング野郎です)
そして翌年の1914年、海軍は新たにモラーヌ・ソルニエHを18機購入して将和達パイロットは訓練するのである。
また、他にも航空機製造のために呉・横須賀・佐世保の三工廠に製造工場が作られていた。更に異例だったのはこの年に日本の民間で初めての航空機工場が建設され
た。
名前は『三好航空機株式会社』、正盛の次男盛清が創設した航空機会社であった。
「この航空機は絶対に時代の波となる」
新しいモノ好きの盛清は直ぐに正盛に資金を借りて会社を創設するが、これが現代まで続く事となる『三好重工業』の始まりであったのである。
その間にもシーメンス事件は水面下で処理され関係無かったがそれでも斎藤大臣は責任を取り病気療養という形で海軍大臣を辞職し後任には山本権兵衛が就いた。
海軍大臣に就任した山本は汚職を払拭させるため徹底的に改革するのであった。
その間ではイギリスから回航された『金剛』は横須賀工廠にて小規模の改装が行われた。この改装には防火シャッターと注水機能、隔壁の追加が行われた。これらの改装には理由がある。
1910年、戦艦『初瀬』が舞鶴にて火薬庫が爆発して大破着底し1912年には史実より早くに横須賀港で巡洋戦艦に類別されたばかりの巡洋戦艦『筑波』が火薬庫爆発で大破着底していたのだ。
二艦は今なお修理中であるが海軍は火薬庫爆発を恐れ全戦艦に防火シャッター、注水機能、隔壁の追加を施した。そのため『金剛』も例外ではなかったので火薬庫の管理はより厳重になるのである。
本来であれば将和らも前回で有ったので事前に対処すべきとは思ったが教訓から学ばせるのも一つの手であると判断をして敢えて黙殺したのだ。
また、二番艦『比叡』三番艦『榛名』四番艦『霧島』も建造中ではあるが同様の追加工事をしていたのである。更に改『金剛』型とも言える戦艦『扶桑』型(『扶桑』『山城』)も同様の追加工事を行っていた。
そして1914年6月28日、オーストリア領サラエボにて数発の銃声が響き渡る。
「取り押さえろ!!」
人々の悲鳴を他所に撃たれたオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナント大公は同じく腹部を撃たれた妃ゾフィーに最後の力を振り絞って声をかける。
「ゾフィー、死んではいけない。子ども達のために生きなくては……」
二人は直ぐにボスニア総督官邸に送られたが、二人とも死亡という結果になってしまった。サラエボ事件と呼ばれるこの出来事はヨーロッパを約四年にも渡る人類史上最初の世界大戦への引き金となるのであった。
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