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☆8☆ 彼女の焦燥。


 ルネが生家に棄てられるようにダンピエール家に置き去りにされて……いや、彼女が乗り込んで来てから早いもので一ヶ月半が経った。


 この一ヶ月半はルネの人生で絶頂期であった五歳までの記憶よりも、さらに素晴らしく幸せな日々だ。特にトリスタンの態度が段々と軟化し始めた二週間目の仕事の後からは、距離がそれまでよりも少しだけ近付いている。


 服に隠れる場所にあった全身の傷も、トリスタンお手製の軟膏と煎じ薬のおかげか、古傷以外はほとんど目立たなくなった。あの大好きな匂いに全身を包まれ、憧れて止まなかった人が傍にいる。それがどれほど嬉しいか、朴念仁なトリスタンには分からないだろう。


 散歩は相変わらず夜にしか出来ないけれど、近頃はルネが手を繋ぎたいと思う頃に彼の方から手を差し伸べてくれ、彼女が手の繋ぎ方を教えてあげなくても握ってくれる。


 匿われる生活を始めて三週間目に月の物がきてしまった時は、ひたすら謝り続ける彼女にトリスタンが薬湯を煎じてくれ、夜は落ち着いて眠るまでずっと背中をさすってくれた。


『これは女性の身体の作り上のことだ。謝らなくていい。ただ、月の物の痛みを軽減させる薬は初めて煎じたから、多少苦くても我慢してくれ』


 そう言ってトリスタンが手ずから飲ませてくれた煎じ薬は、多少どころかとても苦かったが、ルネは彼が煎じてくれた薬なら、例えそれがどれほど不味くても飲み干せる気がした。


 きっと命を奪う毒杯だとしても、彼が、トリスタンが差し出してくれるなら。それはルネにとって天上の甘露のようなものだろう。けれどそんな幸せな生活の中にも勿論不満はあった。


 それはトリスタンとの心の距離が近付くことと比例して、身体の距離が離れていくことである。以前までなら下着姿(シュミーズ)で抱きついても拒まれることなどなかったのに、最近では言葉少なにやんわり引き剥がされてしまう。


 深夜にまだドアの隙間から彼の部屋の灯りが漏れているので、少しだけお喋りがしたいと思って開けると、書き物机に向かっていたトリスタンが難しい顔をして『夜中に異性の部屋に入っては駄目だ』と言って、ドアを閉めてしまうのだ。


 さらにもっと挙げるのなら不満はそれだけではない。というよりも、今まで挙げた不満はむしろこの一番の不満の前では些細なことであった。


 ――それが、


「今日も少し帰りが遅くなるから、夕食は私を待たずに先に済ませてくれて構わない。それから庭に散歩に出る時は転ばないよう足元と、周囲に人がいないかに気を付けてくれ。バスタブにはいつも通り水を半分入れてある。入浴する時は鍋に湯を沸かして桶に移してから足すように。全部済んだら先に寝ていなさい」


 ここ一週間ほど朝食の席で最近頻繁に行われるこの会話だ。毎朝一言一句変わらない。しかもトリスタンはこの会話をする時には一切ルネの方を見ないのだ。現に今も手許の新聞に視線を落としながらの発言だった。


「……トリスと、いっしょがいいわ」


 これもまた彼女にとってはここ一週間のお馴染みの台詞である。そもそもそんなに心配であるのなら、一緒にいるべきではないのかと思うのは、彼女だけではないだろう。


 一応愛称らしき呼びかけを出来る仲にはなれた。しかしトリスタンからの返事は決まって苦い表情での「すまない」だ。彼の謎の謝罪に対して、幸せに馴染んで臆病になってしまったルネには“何がなの?”かとは、怖くて聞けない。 


 毎夜行き先も、一人なのかも、誰かと一緒なのかも分からないことが、彼女の人より足りない柔らかな心を軋ませるのだ。


***


 そうしてその夜、ルネは初めてトリスタンとの約束を破って起きていた。屋敷の表に馬車の気配がしたのでそっとカーテンの隙間から窺うと、思った通り彼が馬車から降りてくる。


 遠目にも少し疲れて見えるのは、他の仕事に加えてこのところ深夜までどこかに出かけているからだ。不良であるし、不健康でもある。屋敷の中に入ってきた気配を感じて耳を澄ませ、食堂で食事をせずに階段を上がってくる足音が聞こえた。


 ややあって隣の部屋のドアが開く音がして、深く溜息をつきながらもお酒の入ったキャビネットを開ける音がする。ドサリとベッドかソファーに腰を下ろす音がして、また溜息が聞こえた。


 ――……物音を聞くだけでもとても疲れている気配だ。


 けれどルネは父親から言われた最終手段を思い出し、それを実行する日はきっと今夜なのだと彼に対する情け心を捨てた。そうと決まればベッドから起き出して相変わらずひどい状態のトランクを漁る。


 グシャグシャになった下着や安物の服の中から、お目当てだった紫色の小瓶を探し当てると、その蓋を開けて躊躇なく中身を呷った。


 やけに甘くてトロリとした薬は、皮肉なことに隣の部屋にいる彼が副業で作っている媚薬だったのだが、彼女がそんなことを知る由もない。これを飲んで身体が熱くなりだしたら彼にしがみついて、相手の唇に口付けるようにと言われたことを思い出す。


 最初は少しも身体に異変がないことに狼狽えた彼女だったものの、十分ほど経って身体の芯に熱が籠る気配を感じて苦しいほどになった。未知の疼きに多少戸惑いはあったが、これで準備が整ったのだろうと納得する。


 彼の傍にいられるなら何でも良い。だけどそれが【おくさん】であるならもっと良いはずだ。そんな鬼気迫る思いを胸にベッドから降り立ったルネは、薬のせいか震える手で隣の部屋へと通じるドアノブを握った。

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