☆44☆ 彼女の悲憤。
パンッ、パンッと、窓の外――……広場のある方角から軽い破裂音が響き、春の晴れた空に白い煙幕が漂っている。今頃あの煙幕の下の広場は、聖女の処刑を見に押し寄せる民衆で溢れかえっているに違いない。
狂乱の場に一人で佇む彼を想い、人の手で生み出された雲をルネがぼんやりと目で追っていると、いきなり自身の意思と関係なく首が仰け反った。痛みは感じないものの、ブチブチと髪が千切れる不快な音が耳に届く。
彼女がゆっくりと引っ張られた方を振り返れば、そこには仄暗い怒りを露にした実の父親の姿。その手には引き千切られたのだろう深い茶色の髪が、パッと見ただけでも確実に十本以上絡み付いていた。
乱暴にテーブルに手をついて身を乗り出した男のせいで、ルネが淹れた紅茶が揺れてカップから僅かに零れる。
屋敷の主人であるトリスタンの留守を狙って押しかけて来たにもかかわらず、随分と無礼なものだ。この場に彼が居合わせていれば間違いなく即座に亡きものにされていただろう。
それに人より少し足りない彼女とて、そう易々とこの男を応接室に招き入れたわけではない。刺繍の続きをしていたら屋敷の前に馬車が停まる気配を感じ、窓から表を窺えば、そこに実父の姿を見つけたのだ。
最初は無視を決め込もうとしていたのに、この男は玄関のドアを叩き壊さん勢いで殴り付け、けたたましく呼び鈴を鳴らした。ルネにとってここは大好きな夫と暮らす大切な城である。ドア一枚、ノブ一つ壊されては堪らない。
そこで慌てて二階のトリスタンの部屋を飛び出して、彼がお客が来た際に通すこの部屋にまで案内したら……これだ。
普通の娘なら痛みに涙目になりそうな場面であるのに、ルネは何でもないことのように平然としている。彼女の父親であるギレム伯爵はそんな娘の反応に忌々しげに舌打ちし、指に絡み付いた髪を穢らわしいとでもいう風に振り払った。
「親との会話の途中でどこを見ている、この役立たずめが」
ハラハラと絨毯の上に光の雫のように落ちる髪を見やりつつ、ルネは小首を傾げて父親を見つめる。常なら夫に愛情に蕩けた視線を投げかける瑠璃色の双眸は、今はただの美しいガラス玉のようだ。
けれど自身を見つめる娘の瞳に少しも感情がこもっていないことなど、まるで気にも留めずに。血走った瞳で「何故手紙の返事を寄越さなかった」と責める形相は悪鬼の如く醜悪だった。
「だって、おとうさま。なにがかいてあるのか、よめなかったのだもの」
彼女は自分を憎々しげに見据える父親相手にそう嘘をついた。嘘つきな相手に嘘をつき返すのは、たぶん許されるはずだ。昔のように険しい表情になった父親に本能的な恐怖を感じて身体がすくむが、ここは少なくともあの暗い部屋ではない。
「おとうさまのおてがみ、わたしには、むずかしくて、わからないわ」
少なくとも、手紙の書き出しであった【愛しい娘】の意味がすでに破綻しているのだ。足りない彼女でなく凡人にすら読み解くには難解すぎる。
自身を真正面から見据える瑠璃色の双眸に一瞬気圧されたギレム伯爵は、それを誤魔化すために目の前の紅茶を……生まれて初めて“娘”が淹れた紅茶を、たったの一口も飲まずに引っかけた。
すでに冷めていたものの、飲まれなかった紅茶はみるみるうちにルネの髪と服に吸い込まれていく。紅茶で落ちてきた前髪を耳にかける彼女の目の前に、ギレム伯爵はさらにあるものを持ち出した。
「こんな下らんものを作っている暇があったのなら、まだ詩の一篇でも憶えればいいものを。お前が未だ子の一人もなさぬから、わたしが陛下から直々に呼び出され叱責を受けたのだぞ。それなのにお前はその間にこんなボロ布を使って遊んでいただと? どこまで失望させるつもりだ」
その言葉と共にテーブルに零れた紅茶の上に投げ捨てられたそれは、彼女が今日までずっと手をかけていたベッドカバー。慌てて出迎えに出たときに持ってきてしまったのだ。彼女が紅茶を淹れに行っている間に気付いたギレム伯爵は、それを己の苛立ちをぶつける対象として引き裂いていた。
完成間近だったベッドカバーは、その色とりどりの刺繍糸を力任せに引き千切られ、僅かに残っていた白い地の生地に紅茶が染み込んでいく。ルネはただじっとその様子を見つめていた。
「しかし今日のことで、今後さらに処刑人一族の需要は増えそうだというのにこんなことでは……。それとも以前言っていたように、あちらに問題がある可能性もある、か。ならば他にやらせてお前の胎から出れば問題あるまい」
ぶつぶつと身勝手な一人言をのたまう父親の声には答えず、ルネは下唇を噛んだ。三日前の誕生日にもうすぐベッドカバーが完成すると告げたとき、トリスタンは『ルネの手は凄いな。花園を作れる魔法の手だ』と褒めてくれた。
きっと完成したらもっともっと褒めてくれたに違いないのに――……無惨に踏みにじられた花園は、もう修復不可能な状態になっている。
「ふむ、そうなると……こうしてはおれんな。早々に手配をせねば」
項垂れるルネを前に散々身勝手なことを言ったギレム伯爵は、もう彼女に興味をなくしたのか、来たときと同じような唐突さで席を立つ。見送りをする気はさらさらない彼女ではあったが、これ以上何かを壊されてはとの気持ちから、玄関ホールまで無言でついていく。
ドアを開けて玄関ホールで振り返った男は、そこで初めてルネが後ろからついてきていたことに気付き、春の陽射しに浮かび上がった娘を見て嫌な笑みを浮かべて、口を開いた。
「死神に嫁いだにしては、見られる顔に仕上がったか。これならそれなりに相手も集まるだろう」
足りないルネには分からないだろうと端から決めつけた言葉と、嘲りの表情。実の父親から投げつけられる理不尽な扱いの数々に、痛みを知らない彼女の心は軋みを上げる。
乱暴に閉ざされたドアの前に背を預ける形でぺたりと座り込んだルネは、膝を抱えて目蓋を閉ざす。ドア越しに馬車の走り去る音を聞きながら、震える吐息を吐き出した。
「……だいじょうぶ、あれだけしか、だめになっていないわ。ほかはぜんぶ、だいじょうぶ」
言い聞かせるように呟くその頬を、髪から滴る紅茶とは別の雫が濡らしていくけれど、足りないルネは分からない。この気持ちを何と評すればいいのかを。