★41★ その瞳に映る権利。
聖女の居場所が分かったと聞かされて、もっと感慨深い気分になるのかと思っていたのに、私の心の中は普段とあまり変わった様子もなく、ただ凪いでいた。
そのことに多少の疑問を感じつつも帰宅し、食事をとって風呂に入ったあとは、注文を受けていた薬の調薬を何とか終えて、作業机に突っ伏してしまう前にルネに腕を引かれ、自室のベッドに押し倒されるという一連の流れをなぞる。
あと少しなら作業ができると言う私を捕まえ、寝かしつけよう髪を梳くルネ。心地よさに抵抗が薄れ、眠りに落ちるまでの僅かなひとときに微睡んでいた最中、ふと夕方に騎士から聞いた言葉を彼女に打ち明ければ、どんな反応を見せるのだろうかと気になった。
「今日……城で耳にしたのだが……聖女の行方が分かったそうだ」
今にも睡魔に屈しそうな目蓋を持ち上げ、髪を梳くルネを見つめて何とかそう言うと、ルネは髪を梳かしていた手を止め、瑠璃色の双眸を細めて「よかった」と蕩けるように笑った。
「どうして……そう思う……」
「だって、トリスがまいにち、いたそうなのも、こんなにつかれてるのも、もうみたくないもの」
そう言いながら額に口付け髪を梳く手を再び動かすルネの言葉に、何故か胸の内側が急に苦しくなる。すがるように華奢な身体を抱きしめると、ルネは何も言わずにふわりと微笑んで抱きしめ返してくれた。
「だいすきよ。わたしの、あなた」
人を殺すことを生業にする一族に向けるには、あまりに優しい声音で耳に吹き込まれる囁きが、彼女がまともな感性の持ち主ではないのだと……嬉しくなった。
「はやく、トリスがくるしいことが、ぜんぶ、おわればいいのに」
今まで私が行ってきたことで、それが聖女の死を意味していると分からないはずもない。それでもそう言ってくれることが、歪な私は嬉しくて。背中を撫でる小さな掌の温もりと「だいすきよ」と囀る声に、ようやく心が漣を立てた。
漣が立ち始めた翌日から急激に何かが劇的に変わるようなことはなく、淡々と聖女の到着を待つ間も処刑を続ける日々が重なっていく。しかし城で騎士から話を聞いてから二週間が経っても、何ら事態が動く気配はなかった。
ルネは以前のようにぼんやりすることはなくなり、毎日大きなベッドカバーと格闘している。彼女の指先が心配なこちらにしてみればそろそろ完成させてほしいところなのだが、ルネいわく『しろいところ、なくしたいの!』という答えが返ってきてしまった。
赤、緑、黄色、紫、ピンク、青、夕陽色――……。様々な色の絵の具を刷毛で散らしたようなそれが、庭の薬草園横にある彼女の庭だと気付いたのはいつだったか。
もしやと思って訊ねた内容にルネが『おどろかそうと、おもったのに』と膨れたときには焦ったものの、四月の誕生日に何が欲しいかという話題を振ると、彼女は『トリス』と私を指差して笑った。
――毎日のように繰り広げられる広場の狂乱も、この屋敷までは届かない。
三週間目になるとルネがまだ見つからないのかと気を揉んでいたが、恐らく誤報だったのだろうと私が告げると、彼女は労るように私を抱きしめて『だいすきよ』と甘く微笑んだ。
けれどそんな日々に幸せを感じながらも明日で三月が終わるという早朝、ついに屋敷に王家の紋章印が捺された封書が一通届いた。
珍しく城からの配達人が呼び鈴を鳴らして直接手渡されたところから考えても、中身が重要事項なのだと分かる。玄関ホールから朝食の席に戻ってきた私に向かい、ルネが不安そうな表情を浮かべた。
食事の途中だったので気を取り直してルネの隣に座り、あとで目を通そうと封書を食卓の上に置こうとするも、その手をルネに掴まれてしまう。
「いまあけて?」
「それは別に構わないが……食事中に見ても気分のいい内容ではないぞ?」
「いいから、よんで。はやく」
いつになく押しの強い彼女の物言いに気圧される形で封を切り、入っていた書状を取り出し、食卓の上に広げた。面倒な回りくどい文面にサッと視線を走らせる私の服の袖をルネが引っ張る。
「なんて、かいてあったの?」
「聖女が明日この王都に到着するそうだ。到着後は……義勇軍の話を聞き出し、処刑は二週間後に執り行うとあるな」
「じゃあ、もうすぐで、トリスがいたくなくなるのね」
「――……ああ」
それまで眉間に寄せていた力を抜いてホッとした表情になる彼女を前に、ほんの少し返事をするのが遅れたが、ルネは気付いた様子もなく淡く微笑んでいる。この瑠璃色の双眸に美しいものだけを見せてやれないことが、ひどくやるせない気持ちになることがある。
尋問に二週間。本当にそれだけならばまだいいが、素直にそれを信じられるほど綺麗なものを見てきた人生ではないからか、苦いものが込み上げてくる。
処刑人は対象者と顔を合わせるのは処刑の当日のみで、引き合わされたときの対象者が廃人になっている場合も少なくない。追い詰め捕らえた人間を前にしたとき、人は悪魔以上に醜悪だ。
こちらの気配が伝わったのか、袖から離れたルネの手が頬に伸ばされる。彼女が「いたそうなかお、してるわ」と心配そうに表情を曇らせるが、その瑠璃色の双眸に映る私の顔はいつもと変わらぬ無表情で。
彼女の瞳にこの先も恥じずに映るためにはどうしたらいいだろうか、と。そんな利己的なことを思案していた私の耳に、出勤時間を告げる無慈悲な時計の時報が聞こえた。