★35★ トネリコと薬入れ。
吐瀉物と死臭と狂気が凝縮された広場に天を支える柱のように並んだ杭には、大小の違いはあれど“人間だった”ものが三柱分くくりつけられている。どれも意識はすでにないもののまだ大半の形はしっかり残っているので、今日もこの場から離れるにはまだ時間がかかるだろう。
最近は四日と開けずに“魔女”が届けられるために、身体にこの異臭が染み付いていた。人間を薪のように火にくべることで多忙なだけではなく、当然平行して他の処刑もある。そのせいでクリストフ神父との約束が守れていないことに焦りが募るが、こればかりは職務なので仕方がない。
それどころかこの一ヶ月は臭いが気になって、屋敷でルネと同じ部屋にいるのを避けてしまうくらいだった。おかげで眠るときも一緒にベッドには入っても、彼女が眠った瞬間別の部屋に移って寝ている。
だからだろうか、あまり睡眠をきちんと取れていない。鋭いルネには何度か『よる、となりにいる?』と聞かれたが、目を見て頷くと渋々信じてくれた。
ただそんな火刑にも他の処刑方よりも優れている点が二つだけある。
一つに、焼いてしまうので疫病の心配があまりない。
二つに、同じ日程で処刑対象が複数人でも一度で済む。
――以上。
この二つは処刑をする上で意外と無視できない。見物人達も獣のように火の熱を恐れて近付いて来ないため、普段は見物人達を押し戻すのに苦労している役人達にとっても楽だろう。ただし間近で人が焼け落ちる臭いと光景が平気ならば、だが。
常の癖で野次を飛ばす見物人達の顔をグルリと見回せば、視界の端に赤いものがちらついた気がして一度は通りすぎた視線を戻した。するとそこに信じられない人物達の存在を見つけ、思わず職務中にもかかわらず僅かに目を見開いてしまう。
初めてルネに私の正体を見せようとつれてきたあの場所に、その人物達は身を寄せあって佇んでいた。
一番近くにいた見物人と役人ですら気付かないような私の変化に、けれど離れた場所にいる人物達は気付いた様子だった。見つめる先で赤髪の女性……マリオンが紙袋を手にえづいている。彼女はついこの間まで神に遣える身であったのだから、この惨劇を前にああなったとしても無理もない。
むしろこの場所に彼女を伴って現れたクリストフ神父と――……その隣で蕩けるように微笑んでいるルネがおかしいのだ。頭には何故あの三人がこの広場に? という当然の疑問と、こんな姿を見られたくはなかったという感情がせめぎ合う。
見世物になるのは慣れているはずなのに、居たたまれなさに三人から視線を逸らして燃える魔女達に視線を戻す。早く、早く、燃え尽きてくれと心の中で唱えながら、右手の証に爪を立てた。
三人の魔女の処刑が終わったのは、人体の構造上多少の誤差はあるものの短くなることはあまりなく、通常通りの時間帯だった。
処刑が完了したという確認を済ませ、いつものように見物人達に向かって一礼をする。怖々と視線を巡らせたあの場所にはもう三人の姿はなかった。けれどホッとすると同時に、クリストフ神父達がルネ共にやってきた理由が分からず、もしこのあと屋敷に戻ってそこにルネの姿がなかったらと想像して――。
近くにいた役人に城への報告を言付け、帽子と上着と手袋を着用し、唇を噛みしめて表の広場の雑踏に紛れ込む。足早に向かったのは城ではなく、ルネと一緒に通ったことのある人通りの少ない道を使って屋敷に戻った。
通常なら城に報告に向かい、身を清めてから馬車で戻る。しかし今はそんな余裕がなかった。途中からはほぼ走っていたかもしれない。
だがそこまで心が逸っていた割にいざ屋敷の門を開けて玄関のドアの前に立つと、ドアを開けてルネが飛び付いて来なかったらという恐怖に膝が震えた。しかし開けないことには確認もできない。
諦めてのろのろとドアを開けて足を踏み入れた玄関ホールに、当然と言うべきかルネの姿はなかった。彼等は正しい判断の下にルネをつれて教会に帰ったのだろう。けれどそう考えて呆然とその場に立ち尽くしていたら――。
「おかえりなさい、トリス! きょうは、いつもよりはやかったのね。おでむかえ、できなかったわ」
その言葉通り少し驚いた表情を浮かべ、両手を広げて抱きついてきたルネの身体をほぼ条件反射で抱き留める。豊かな深茶色の髪からは、あの広場の煙と汗の香りがした。
夢ではないと確かめようと思わず強く抱きしめると、腕の中のルネは消えずに「ふふ、おかえしね」と笑って抱きしめ返してくれる。
――と。
「おや、急に『トリスだわ!』と言って走り去ってしまったから驚いたけれど、本当に帰ってきたのだね。お仕事ご苦労様。お帰りトリスタン」
そんな言葉と共に悠々と現れたのは、勝手知ったる我が家といった空気を纏ったクリストフ神父だった。状況が掴めず凍り付く私にルネが「おふろ、しんぷさまがてつだってくれたから、はいれるわ」という、この場で聞きたい情報ではないものを提供してくれる。
何が起こっているのか分からず困惑しつつも、ふと一人この場に足りないことに気が付いた。
「マリオンは? 広場で気分が悪そうだったが、彼女は大丈夫だったのか?」
「ああ、マリオンなら応接室のソファーを貸してもらって寝かせているよ。彼女には少し衝撃的だったらしくてね」
「それは……そうだろう。普通の精神をした女性を相手にあんなものを見せるなど、貴男は何を考えているんだ」
思わず責める声音になってしまった私を、ルネが心配そうに見上げてくる。その瞳に映る私の表情はやはりほとんど動かないが、彼女にとっては違うらしい。あやすように頬を撫でられると、苛立っていた心が落ち着きを取り戻していく。
それを見ていたクリストフ神父は薄い水色の双眸を笑みの形に細め、頷きながら私達に近付いてくる。そして咄嗟に身構えた私の頭に手を置いたかと思うと、いきなりわしゃわしゃと乱暴に撫でられた。
「今日広場に行ったときから分かっていたけれど、君は本当に良い子だね。ルネさんが甘やかす気持ちも、マリオンが一緒につれて行きたいと言い出す気持ちもよく分かるよ」
穏やかな声音と大きな掌の感触にほんの一瞬動きを止めた私の目の前に、銀色のトネリコの枝葉が揺れる。
「良い子な君に、誕生日の贈り物を届けに来た」
瞬間、幼い頃に父が気まぐれに私に寄越した薬入れの記憶が蘇る。今ではルネの持ち物になっているあれをくれた父の顔も声も、朧に霞んで思い出せない。