*幕間*珈琲と紅玉。
人数が少なくなったせいか、遅くまで孤児院内を駆け回っていた子供たちの就寝時間は、以前よりもずっと早くなった。今ここに残っているのはまだ労働力として受け入れられるには幼い子等だ。
このご時世、頼りの綱である他教会も、すでに自分たちのところにいる子供や見習いたちの世話で手一杯のところが多い。一般的な養子先や職人見習い先も、余程裕福な家や店でもないかぎり下働きにも使えない子供は断られる。
そんな子供はまともな表ではあまりやすく、ろくでもない裏の業種の人間に狙われやすい。それはシスターたちにしても同様だ。だからこそしっかりと行き先を吟味して、そこまで無事に送り届けてもらえるように報酬の方を工面しなければならなかった。
まだ新しい預け先の決まっていない不安を感じている子供たちは、残っているシスターたちと同じ部屋で眠らせている。
長年暮らしてきたこの教会から出て行くことになるとは思っていなかったが、これも神とやらの思し召しなら仕方がないだろう。首から下げた銀製のトネリコを摘まみ上げながら、ふと一ヶ月前にこれを欲しがった彼のことを思い出す。
暦を見るまでもなくすでに約束していた八月は過ぎ、現在は九月の頭だ。親しくしている商人達の話では、段々と“聖女”の包囲網が狭まってきているらしいということだった。そうなると、王都の彼は今頃予定より早く忙しくなっているのかもしれない。
そんなことを考えつつ、手許にある厳しい数字の並ぶ書類と睨み合う。すでに切り詰められるだけ切り詰めているだけに、どこから幾ら捻出できるか考えるだけでも相当骨が折れた。
文字がぼやけて見えるのは疲れ目のせいだと信じたいものだが……さて。
一瞬脳裏に浮かんだ“老化”という響きを誤魔化すために、椅子に座ったまま大きく背をそらしたところ、背中と腰から少々危険な音がしたのでゆっくりと書き物机に肘をついて項垂れる。
そのとき部屋の外から聞きなれた靴音と、トレイの上でスプーンとカップが跳ねて立てる硬質な音が聞こえてきたので、椅子から立ち上がり、ドアをノックされる前に開けた。
そこに立っているのは私がここで生活するようになってから、かれこれ二十二年ずっと同じ人物だ。赤い髪と紅玉の瞳をした彼女はわたしを見上げてはにかむと、長年の習慣か「先生、お邪魔でなければ休憩にしませんか?」と言った。
敢えて間違いを指摘せずに微笑んで見下ろすと、どうやら気付いたのか、マリオンは慌てて「その、休憩しましょう? クリストフ」と。まだ呼び慣れないわたしの名に照れた様子を見せる。その表情の変化にこの歳になっても面映ゆい気持ちになるのだから、我ながら何とも困ったものだ。
マリオンの手からトレイを取り上げ、来客用のテーブルセットを視線で促せば、彼女はドアを隙間なく閉ざしてついてくる。まだドアを閉める動作にぎこちなさが残ることにそっと笑う。テーブルを挟んで向かい合わせに腰を下ろし、彼女が淹れてくれた珈琲に手を伸ばす。
わたしの好みに合わせて濃いめに淹れられた珈琲は苦すぎるのだろう。マリオンは「味覚が幼くて」と前置きしてから、自身のカップにミルクを入れた。
「ちょうど計算に煮詰まっていたので、良いところに来てくれて助かりました」
「まぁ……そうだったのです、ね。お役に立てて嬉しいわ」
そうまだつっかえながらも砕けた話し方をしようとする姿に、今度こそ笑ってしまう。それを見た彼女は「もう、意地の悪い人ね」と眉根を寄せた。けれどその口調ほどそう思っていないのは、笑みの形に細められた目を見れば明らかだ。
修道着に身を包まない彼女が今もわたしの傍にいてくれるのは、王都から出られない彼等のおかげなのだと改めて感じる。それからしばらくは他愛のないことを幾つかと、昼間に面倒を見てくれていた子供たちの身の振り方について話し合う。
しかし教会の後始末について語り終えると、最終的に気になることはわたしも彼女も同じだった。
「あの……クリストフ、ルネ達のことなのだけれど」
「どうかしましたか?」
「あの子達も一緒に逃げようと誘わないのはどうしてなのか……気になって」
ひたりとこちらを見つめる紅玉の瞳に、ふと胸の内に愛しさが込み上げる。この娘は昔からずっとこうだ。
今の自分が身を置かれている現状も、決して楽観視できない状況であるにもかかわらず他人を気遣う優しさが、蹴落としたり蹴落とされたりといったことが当然の生き方をしていたわたしには、ずっと眩しくて堪らなかった。
同時にこの狭い教会からほとんど出たことのない、真っ直ぐすぎる残酷さも。彼女の言葉は優しく惨い。そしてその“優しい故の残酷さ”が、いまのわたしを作り上げる一端にもなった。
「そのことなら、ちょうど明日にでもトリスタンを訪ねようと思っていたところだ。けれど、もしかすると彼は大仕事中かもしれない」
聡いマリオンはわたしの言葉に一瞬表情を失い、唇を引き結んで珈琲のカップに視線を落とす。
「それを見てもまだ誘う勇気があるのなら、君も一緒に来るかい?」
意地の悪いわたしからの問いかけに、それでも彼女は女性にしては少々低いその声で、言った。
「貴男とすれ違わずにこうして一緒になれたのは、あの子達のおかげです。その友人達を放って、どうして私だけ幸せになれるでしょうか」
震えているのは彼の仕事を知っているからこその怯えだろうに、カップから視線を上げた彼女の瞳にははっきりとした覚悟の色がある。
「……君のその全てを焼き尽くすような激しい優しさが、わたしはいっとう好きだよマリオン」
思わず見惚れてそう言葉にした瞬間、それまでの凛とした空気を散らして頬を染め上げる妻の姿に声を立てて笑ったのは、不可抗力としておこう。




