*幕間*青い炎の揺らめきは。
珈琲を載せたワゴンを押しながら、薄明かるい孤児院の廊下を一人歩く。
私がクリストフ先生に出逢ったのは、今から二十二年前。痩せっぽっちで世界中の大人を憎んでいた、あと数日で六歳になる生意気な子供だった。
当時のここはとても教会と呼べるような場所ではなく、教会だった建物の抜け殻に高齢の老人が住み着いただけの場所で。それでも老人が身寄りのない子供達を集め、神父の真似事をして得た僅かな食事で糊口を凌いでいた。
誰に咎められることもなく気軽に子供を棄てに来られて、気軽に見目の良い子供を持ち帰れる場所。それがここだった。
ずっと続けられる生活ではないのが分かっていた子供達は、食料のゴミが多い町に一人、また一人と出て行って……それきり誰も帰らなかった。きっと人攫いに捕まって娼館に売られたり、奴隷商に売られたのだろう。
私はただでさえ目立つ瞳と髪の色をしていたから、町に出ては生きていけないと薄々感じていたのでここから離れなかった。この年齢まで生き残れたのはその臆病さのおかげだったのだろうと思う。
高齢だった老人が亡くなる少し前、これまで食事を分けてくれたお礼に彼の身の回りの世話をしていたら、そこに修道士の旅装に身を包んだ先生が『新しい神父として赴任してきました』と現れたのだ。
当然いきなりやってきた怪しげな大人を私は全身全霊で威嚇した。こんな廃教会に神父として赴任など誰だって疑うのに。そんなことも思い付かない世界からやってきた人なのだと分かるほど、当時の先生は浮世離れしていた。
けれど先生は毎日悪態をついて追い返そうとする私を宥め透かし、老人が亡くなるまで一緒に面倒を見てくれ、埋葬してからも――……ここから邪魔者の私を追い出したりはしなかった。
見目に品があり、穏やかで人好きのする先生が新しく神父になった者だと挨拶に出向くようになると、教会への寄付が少しずつ増え始め、そのお金でボロボロだった教会の修繕を始めて。暇がある夜には私に勉強を教えてくれた。
そうこうするうちに、また以前までのように身寄りのない子供達が集まってくるようになった。けれどそのことを素直に喜べない自分がいるのが恐ろしくて。
独りぼっちではなくなったことで私は社交性を身に付け、愛想を良くして寄付金を多くもらって、他の子達より先生の役に立って喜んでもらおうとしたけれど……。
『気持ちは嬉しいけれど、君はまだ庇護されるべきこどもなのだから、そんな真似はしなくていい。ここは大人のわたしに良い格好をさせてくれないかい?』
そう膝をついて視線を合わせて言ってくれた日からずっと今日に至るまで。クリストフ先生は、私の一番大切な人になった。憧れが恋慕に変わったのは、いつからだったのか憶えていない。
クリストフ先生がクリストフ神父になる頃には、この想いが一生打ち明けてはいけないものだと分かってしまった。
彼にとって私はいつまでも出逢った当時の子供のままで。そんな私に彼が向けてくれる愛情が、私が抱くようなものではないのだとも。
『今日は良いお式ができて良かった。マリオンにも好い人が見つかったら、真っ先にわたしに教えて下さいね。こう見えても人相見は得意なんですよ』
初めてそう言葉をかけられたのは、教会で村の人の小さな結婚式を挙げた日。あの言葉を聞いたときの私の気持ちを彼は一生分かってはくれないだろう。
純粋で可愛らしい教え子の夫から餞別に受け取った茶色の小瓶。ワゴンにはその中身を薄めずティースプーン一杯分落としたカップと、希釈したティースプーン一杯分を落としたカップが仲良く並んでいる。
聖職につくものとしていけないと思いつつ、その甘美な申し出に頷いたのは紛れもなく私の意思だった。これで駄目なら……嫌われてでも無理矢理【餞別】をもらって、修道院に逃げ込んでしまおう。
そんなずるい考えを胸に抱いて目的地であるドアの前に立ち、緊張しながら控えめにノックをして「神父様、珈琲をお持ちしました」といつものように声をかける。ややあってからドアが開き、中から現れた穏やかに微笑みかけてくれる薄い水色の双眸に、心が震えた。
何の疑いも持たずに招き入れられたことに思わず微笑むと、先生が「おや、何やらご機嫌ですね?」と頭を撫でて下さる。嬉しいのに、寂しい。そう感じることがすでに罪であるのに。
「そうでしょうか。自分ではあまり感じておりませんが……」
「理由がないのにご機嫌なら、それはそれで良いことですよ」
そう言って微笑む顔を見られるのも今夜限りのことだと思うと、このまま時間が止まれば良いと思ってしまうけれど、それではルネに嘘をついてしまうことになる。何より、自分にこれ以上嘘をつけない。
「ええ……と、シスター·マリオン? こども達の学習についての相談でしたね」
思わず凝視してしまったことで、先生が少しだけ怪訝な表情を浮かべる。そのことに内心焦りつつ「はい。そうですわ」と答えて微笑めば、すぐに先生も表情を和らげて来客用のソファーに腰を下ろした。
その姿を視界におさめてから、私はいつも爪先分の幅だけ開かれているドアを閉ざして鍵をかけた。
そうしてまた怪訝な表情を浮かべた先生が口を開く前に、薄く微笑んで「私の個人的な相談もしたいものですから」と言えば、彼はまた「成程」と。お人好しな微笑みを零した。
古びた来客用のテーブルを挟んで向かい合うよう私も腰を下ろし、ほぼ二人で同時にカップを手にする。そのことに先生が小さく笑い、私もつられて笑う。
先生がカップに口をつけようとした直前に「ずっと先生を愛していました」と、長年封印してきた想いを吐き出した。
けれど私の言葉を聞いた先生は一度だけ瞬きをして、それから不意に薄い水色の双眸を細めながら「寂しくなったら、いつでも帰ってきなさい」と笑った。ずっと傍にいたからこそ分かる、優しい先生の柔らかな拒絶。
思っていたよりもショックではなかったものの、結果は昼間小瓶を手渡してくれた彼が言った通りであり、そして、私の予想通りでもあった。涙の一滴も零す暇など与えてもらえない。
何も答えない私の目の前で、先生は今度こそカップに口をつけて珈琲を飲む……というよりも、すぐにも飲み干して追い返そうという魂胆らしかった。最初から分かっていたことだと覗き込んだカップの珈琲に映る自分に嗤いかけ、そのままカップを持ち上げて、そっと一口珈琲を飲んだ。
「シスター·マリオン。話がそれだけなら、もう時間も遅い。君にとって不名誉な噂が立って、しまう前……に、」
唯一嬉しい“予想通り”は、原液だから効力が桁違いだと言っていた彼の言葉。先生はソファーから立ち上がろうとしたものの、急にテーブルに突っ伏して肩で荒く息をつき始めた。
私もそんな先生を前に残りの珈琲をゆっくりと喉に流し込み、その隣に回り込んで、身を起こそうとテーブルの縁を握るその耳許に唇を寄せる。
「子供達の学習内容と個別の能力に合わせた次の教材は、私の部屋のクローゼットの中にありますので、しばらくはそれで授業ができますわ」
――……私の顔も憶えていない母は、王都でも有名な娼婦だったという。
「愛しています、クリストフ」
この身体は生まれからして綺麗な愛なんて知らないけれど。この単語にはずっと憧れ続けていた。痩せっぽっちで世界中の大人を憎んでいた子供に、綺麗な言葉をたくさん教えてくれた優しい人。
「こんな恩知らずなガキを愛さないでいてくれて、ありがとう先生。これが済んだらアタシは二度とあんたに会いに来ない。約束するから安心してよ」
久しぶりに使った品のない言葉遣いに情けなく声が震えたけれど、きっと先生にはもう関係のないことだから大丈夫だ。苦しげに呻くその唇に自分の唇を重ねると、何故だか少ししょっぱかった。
――と。
いきなりグルリと視界が回転して、私の身体は先生を下から見上げる姿勢になっていた。何が起こったのか一瞬分からずに呆然と苦悶に歪んだ先生の顔を見上げていると、先生の顎から滴った汗が私の頬に落ちる。
そこでようやく自分が膝の上に抱き留められているのだとが気が付いた。
「――っ、今の言葉は、聞き捨て、なりません。撤回して下さい、マリオン」
「今のとは……どれのことです。まさか“愛している”と言うことも許さないと?」
名前だけを呼ばれて嬉しかった。でもこんなに苦しそうに息を詰めてまで拒絶されることなのかと思うと悲しかった。
――けれど。
「……二度と、帰ってこない、など……許しません。それが、本当、なら、教会から、君を出せない」
絞り出すようにそう言う先生の薄い水色の双眸には、いつもの穏やかさがどこにもなく、ギラギラと冷たい氷の輝きが宿っていて。私の心はその色に恐怖か歓喜か分からないほど、惹き付けられて揺らめいた。
「できることなら……愛さないで、いたかった……君は、わたしに、眩しすぎます」
途切れ途切れの甘い懺悔の言葉と共に堕ちてきた愛しい人を抱きしめて、私は何度も愛した彼の名を呼んだ。
クリストフとマリオンのお話は
一応これにておしまいです(`・ω・´)ゞ<R15の壁。
次からはまた主人公達の本編に戻ります。