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☆19☆ 彼女の苛立。


 乳鉢で磨り潰された薬草の香りがここ最近ずっと屋敷の中に漂っている。それ自体はルネにとっては揺り篭のように心地良いのだが、問題はその香りを生み出しているトリスタンの常より物憂げな表情だった。


 仕事から帰って来て二人で夕食を食べる間も言葉少なで、寝る暇を惜しみ、何かに憑かれた様子で一心不乱に調薬を行う姿はルネを不安にさせる。日々の食事の量も減っている中で、暦はもうすぐ二月の後半になろうとしていた。


 今夜も寝る支度をすっかり整えておきながら、ゆらゆらと揺れるランプの火を前に作業を続ける少し痩けたその横顔を見つめ、ルネの不安もランプの火と同じように揺らめく。


 毎晩毎晩この調子では身体が保たないだろうからと、根を詰めすぎている気がした彼女は早くベッドに入るよう促し、本人は無自覚であるのだが、時には結構大胆に誘惑したりもしていた。気持ち良いことのあとはいつも二人で抱き合って眠れるからだ。


 ――が、最近はこの手にも全然乗ってくれない。


 彼女の目には、最早トリスタンが調薬に使用する乳鉢と乳棒の一式と結婚したのではないかと映っている。けれど彼女は妻として愛しい夫の健康が害されるのは嫌だった。


 故に今夜もきっと無駄だろうし邪魔をして嫌われたくはないものの、読むでもなく開いていた植物図鑑を閉じ、ベッドから起き上がって愛しい夫の顔を横から覗き込んだ。

 

「トリス、もうねましょう?」


「ああ、いや、今晩はもう少しだけ作業をしてしまいたい。ルネは先にお休み」


 しかし思っていた通り、彼女の夫を気遣う言葉は迷う暇もなく拒否され……ついにルネは自分の中で何かが切れる音を聞いた。


「――……そう。じゃあ、もういいわ」


 今までの結婚生活の中で出したことのないような平坦な声が出たが、彼女はそれに気付かない。むしろその声音の変化に気付いて切れ長な深緑色の双眸を上げたのは、これまでほとんどこちらを向かなかったトリスタンの方だった。


「ルネ……?」


「もう、じゃましない。きょうからあっちでねるわ。おやすみなさい」


 今まで蕩けるように微笑む表情か、無邪気にはしゃぐ表情以外はほとんど見せなかった彼女の無表情に驚いた彼が己の失態を悟って手を伸ばすも、時すでに遅し。


 ルネはさっと身体を翻してベッド脇のランプと植物図鑑を掴むと、自室へと続くドアを開いてヒヤリとした闇に飛び込み、拒絶感も露に振り返らないまま閉じた。


 ドアの向こうで椅子を引いて立ち上がるトリスタンの気配を感じたが、後ろ手に鍵をかける。その足で廊下側に繋がるドアの鍵もかけ、サイドテーブルにランプを置くと、冷たいベッドの中に潜り込んで頭から毛布をかぶった。


 少し埃っぽいのは、ずっとトリスタンの部屋で眠っているせいで、ほとんどこちらの部屋を使っていないからだが、生家にいた頃よりは随分快適なほどだ。


 ドアの向こうから、


『ルネ、心配してくれたのにすまない。今夜は君の言う通りもう休む。そっちの部屋は寒いから風邪をひく。こっちに戻ってきてくれ』


 ――という今更過ぎるトリスタンの声が聞こえたけれど、ルネは返事をせずに植物図鑑を抱きしめて身を固くする。もう知らないという思いと、やっぱり戻って一緒に眠りたいという思いがせめぎ合ったものの、今夜ばかりは意地が勝った。


 いくら命をとられてもいいくらい大好きな相手だからといって、言葉と視線を交わしてくれなければ寂しい。痛みを感じないのならどんな死に方でもいいだろうと言われそうなものだが、ルネは寂しくて死ぬのは嫌だった。


 前まではそれでも耐えられたとは思う。けれどトリスタンとの結婚生活は、彼女の鈍かった内側を弱くした。彼はルネがいなくても生きていけるのに、ルネにはトリスタンのいない世界が想像出来ない。


 しばらく『ルネ』と呼びながらドアをノックする音が聞こえたけれど、彼女が返事をせずに毛布の中で息を殺している間にやがて止んだ。それに合わせ、ドアの隙間から漏れていた向こうの部屋の明かりも消える。そうなると今度は急に怖くなり、そっとドアに近付いて耳をあてた――と。


『ルネ、そこにいるのか?』


 ドアのすぐ向こう側から聞こえたトリスタンの声に驚いたものの、ルネは無言を貫いた。一度意地を張ってしまうと、老いも若きも簡単に止められないものだ。答えはしないが、立ち去ることもせずにルネはその場で聞き耳を立てる。


『明日は久し振りにクリストフ神父達のところへ出かけようと思う。一緒に来て欲しいのだが……嫌なら、一回。もしついて来てくれるなら、二回。ドアを叩いてくれないか?』


 どこか不安を含んだ声音がドア越しに響く。ルネは今すぐドアを開けて抱きつきたくなる衝動を抑えて、一回、コツンとドアを叩いて耳を澄ませた。


 すると向こう側から小さく息を飲む気配がしてきたので、もう一度コツンとドアを叩く。そうすれば今度は向こう側から安堵なのか、細く息を吐き出すような音が聞こえてきた。トリスタンのそんな反応にルネまでホッとしてしまう。


 しばらくドア越しに黙って額をくっつけていたけれど、向こう側から『風邪をひくから、暖炉に火を入れに行っても構わないか?』と、トリスタンの窺うような声がした。


 それにはドアを一回コツンと叩いて再びベッドに向かい、寒さを我慢して毛布を頭からかぶって目蓋を閉じる。ドアの向こう側からはそれ以上何も聞こえなくなり、彼もベッドにもぐったのだろうとルネは結論付けた。


 しかし翌日の早朝には何故か暖炉に火が入れられ、部屋の中はすっかり暖かくなっていた。昨夜自身が寝入った後にトリスタンが合鍵を使って、こっそりと火を入れに来たのだと知った彼女の機嫌が再び悪くなったのは、理不尽だが仕方のないことだろう。

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