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☆12☆ 彼女の平和。


 薄氷の上で抱き合うように始まった結婚生活もすでに七ヶ月。彼の仕事柄、結婚式という世の女性なら一度は憧れるは祝事すら出来なかったルネではあるが、彼女自身そんなことをまったく気にしていない。


 十二月にあった一年の終わりを告げる銀月祭も、一月にあった一年の始まりを告げる陽麗祭も、四月にあった建国記念祭も、他にも細々とあった祝日なども、全部当日は屋敷の敷地内……もっと言えば屋敷の中でトリスタンと過ごした。


 彼女は窓の外から聞こえてくる人々の楽しそうな歓声や音楽に興味などないのに、トリスタンはずっとルネに謝り続けて。そのたびにルネが抱きついて『あなたがいるわ』と幸せな気分で甘えた。


 それに今月の頭にあったルネの誕生日には、ちゃんと贈り物を用意してささやかにお祝いもしてくれたのだ。去年は庭仕事にも使える帽子だったが、今年は柄に野バラの彫物をした移植ごて(スコップ)だった。


 勿体なくて使うたびに綺麗に磨いて、使わない時は自分の部屋の鏡台に飾ってある。トリスタンはそれを見て『もっと飾るのに向いたものを贈れば良かった』と言ったけれど、ルネはそうは思わなかった。


 彼がくれるものは庭先の小石でも宝物で。そこに彼から口付けの一つもあれば国宝の扱いだった。


 幼い頃に空っぽの胸に芽生えた小さな感情を大切に大切に温め続け、ようやく手にしたこの幸福。彼があの時にくれた軟膏入れには、今や残り香ではなく彼お手製の本物の軟膏が入っている。


 いつも彼女を鞭で打った父親のコロンの香りよりも、ずっと身近で愛おしい。


 日中の留守番の時は何度も蓋を開けては香りを確かめ、夜はその香りのする夫に手ずから傷の多い肌に軟膏を塗布してもらい、結婚してから初めて自分が暗がりが怖いのだと気付いたルネは、その恐怖を忘れさせてくれる彼の胸に抱きついて眠るのだ。


 彼女が【おくさん】の座を射止めたと思っている行為は、あの夜以降一度も最後までしていないものの、二人の関係はそれ以前と以後では大違いなので、ルネは少し寂しい気もしたけれど概ね満足している。


 しかし突然現れた妻の存在に屋敷の使用人達は大した興味を持たなかった。これまでの経験上、数年もすれば居なくなる(・・・・・)だろうと思っているような節がある。だからだろうか、彼女が日中屋敷の中を歩き回っていても誰も気にも止めず、挨拶などの必要な言葉以外はかけなかった。


 けれどやっぱり彼女にとってそんなことは些末なことであり、彼女もまた使用人達……いや、夫以外の人間など眼中にないのだった。


「それでは行ってくるが……くれぐれも今日は広場には来ないように」


 使用人達が働きにやって来るまでに食堂で一緒に朝食をとり、処刑(しごと)に出かける夫を見送るために玄関ホールまでついて行くと、彼はルネを見つめて微かに怯えを含んだ声音でそう言った。


「わかったわ。いってらっしゃい、トリス。はやくかえってきてね?」


「ああ。仕事が終わればすぐに戻る」


 微笑んでそう答えればどこかホッとした様子を見せる夫。そんな彼に抱きついたルネは、背伸びをしてその唇に軽く触れるだけの口付けをした。新婚だということを考えればたぶん【普通】の夫婦だ。夫の仕事が処刑人で、彼女が少し足りない以外は、普通の。


 五月の半ばも過ぎたというのに、帽子も、上着も、手袋も、トラウザーズも、靴も。その長身を全身真っ黒な装いに包んだトリスタンは、処刑人でなければ葬儀屋か墓守のようだ。


 どれが一番一般人に忌避されにくいかは分からないが、どの職業も好かれないことだけは確かだろう。


 ルネからの口付けが終わると、名残惜しそうに額に口付けを返してくれたトリスタンは、屋敷の門の前に待たせてある公務用の馬車へと乗り込んで、広場の方角へと走り去っていった。


 今日は処刑日なので使用人達も働きに来ない。こうなってくると、読み書きも刺繍も家事も出来ないルネは手持ち無沙汰に――なりそうなものだが、意外なことにそうでもなかった。


 自分が家にいない本職の日に妻が暇を持て余さないように、トリスタンは彼女に色彩の鮮やかな絵本や、自分の薬師としての仕事に興味を示した彼女にも読めそうな原色植物図鑑を買い与えている。


 なのでルネは夫を見送ったあとはそれらを眺めて時間を潰し、時折夫の不在が寂しくなれば懐から軟膏入れを取り出して、その香りを胸いっぱいに吸い込んで幸せな夢の中に憩い、好きな時間に庭に出て陽の光を浴びた。


 やがて空が少しずつ暗くなり夕方と夜の気配がせめぎ合う頃になれば、屋敷の玄関ホールをウロウロと行き来しながら待ち伏せ、屋敷の前に馬車が停まった気配を察知するや、ドアを開けてトリスタンを出迎えるのだ。


 トリスタンはいつも走り出て出迎えるルネを抱き留める時、とても驚いた顔をする。正確に言えばルネにしか分からないような極々小さな変化なのだが、彼女は彼が見せるその表情が堪らなく好きだった。


「おかえりなさい、トリス」


「ただいま、ルネ」


 口付けを贈ろうとする妻の前で少しだけ身を屈めると、決まって朝よりも熱烈な口付けを受ける。それは何もトリスタンが無事に戻ったことへの喜びだけではなく、仕事に出かけた日の彼が虚ろな状態であることが多いからだ。


 ルネはトリスタンの魂が口から抜けてしまわないように命を吹き込む。ちょうど炉から取り出したばかりのドロドロとしたガラスの塊に息を吹き込むように。もしも膨らませることに失敗してしまっても、一体化してしまえるように身体を密着させることも忘れない。


 二人の世界はきっと、生まれながらに欠けていた。けれど彼女はこう思う。それならそれでも良かったのだと。欠けていた部分にはまる欠片がトリスタンであることが、彼女には何よりも大切なのだ。


「おふろにする? それともごはん?」


 お帰りなさいの言葉の次には決まってこの言葉を囀る妻に、端からだと無表情にしか見えない夫が僅かに口角を上げる。彼等の幸せはいつも歪な形をしていて、そこに【普通】は持ち込めない。


「そうだな……私の奥さんのお腹の虫が鳴いているようだし、先に夕食にしよう」


 トリスタンが抱き寄せる腕に力を入れてそう言うと、それを聞いたルネが小さく笑う。広い食堂に二脚しかない椅子は、今夜も隣合わせで主人達を待っている。


 そんな【普通】で良い。

 そんな、普通が良い。

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