★11★ 雁字搦めの安寧。
バルコニーの窓を開け放ち、四月の夜風を部屋に招き入れながら書類を整理していると、ふとあることに気付いて思わず「多いな……」と呟いた。するとそれをベッドに腹這いになって植物図鑑を眺めていたルネが聞き付け、視線を本からこちらに向けて「なにが?」と小首を傾げる。
私が仕事で留守にする間、彼女の暇を紛らわせてくれている図鑑はかなり読み込まれ、ところどころ頁の擦りきれた本は、閉じると買った当初よりも少しだけ嵩が膨らんだ。
ルネは図鑑をそっと枕許に置いて書物机の前に座る私の後ろに立ち、首に腕を回してもたれかかると、そのままこめかみに口付けてくる。くすぐったさに苦笑すれば、今度は唇の端に口付けられた。
お返しをねだられて頬に口付ければ、満足したのか「なにがおおいの? おしごと?」と私の独り言の内容をもう一度尋ねる。同棲期間も含めるのなら、六ヶ月半の結婚生活だ。
それにいざ蓋を開けてみれば、ギレム家があんなに焦ってルネを生贄にした下らない理由も分かった。無茶な領地経営拡大に失敗した当主が出した莫大な損失を、王家に恩を売ることで補填させる為だ。
そうして王家側も近年領地の拡大戦争が起こらない統治が続く中で、処刑人一族に生贄を差し出す家がなかった為にその申し出を飲んだ。汚い仕事をする飼い狗は一度野に放せば帰らない。要は、そういうことだろう。
――始まりこそ薄汚い蜜月は、今や必然であったのだろうと思える。
緩やかな時間が流れる間にルネは二十歳になり、私は二十二歳になっていた。
ルネは自分の歳も誕生日すら知らなかったが、婚姻届を提出するに当たって私がギレム家に手紙を出し彼女の出生日を入手していたおかげで、当日は小さな花束と薬草園を手伝いたがるルネに作業用の帽子を贈ることが出来た。
ただ彼女を祝う前に私の誕生日がすでに過ぎていたこともあり、それを知ったルネから後日口付けの雨と、どれだけ私を好きかという愛の言葉を子守唄代わりに囁かれたのは……恥ずかしくて堪らなかったが……。
おまけに彼女は妻になってから以前よりもさらに距離が近くなった。あまりに無邪気にすり寄られると色々と困るものの、それは結婚を決める前からのことだ。
ただ痛みを感じない代わりかそれを埋めるように、ルネは心地好いことに対して素直というか……積極的だった。あの夜のようにすり寄られて、途中までで誤魔化して寝かしつけるのもだいぶ慣れてきたと思う。
首に回した腕はそのままに私の髪を梳く。優しく髪を絡めとられる感覚に目を細めて彼女の指摘してきた内容に「ああ」と答えた。
しかしそれ以上のことを教える気にはなれず、血生臭い処刑予定が書かれた書類を彼女の瑠璃色の瞳から隠す。世間では新婚と言われるものであろうとも、祝事が関係のない処刑人一族にそんな概念はない。
結婚したところで以前までと何ら変わらない内容の予定が淡々と組まれ、処刑装置である私は与えられた仕事をこなすだけだ。
「……おしごとがおおいの、いやだわ」
彼女にしては珍しく非難めいた言葉に息が詰まった。それは……当然だろう。しかし何と答えればいいのだろうかと動きを止めた私の耳許で「わたし“いたそう”なトリスは、みたくない」と。
そう囁いて髪を梳く指の力が少しだけ強くなる。予想していた内容とは違う言葉に「どこが痛そうに見える?」と尋ねれば、ルネは「わからない」と首を横に振り、それを補おうと優しく唇に口付けを落としてくれた。
***
昨夜のルネと私しかいない穏やかで静かな屋敷とはまるで別世界のように、処刑台の上からぼんやりと見渡す広場は異様な熱気と興奮に包まれている。しかし今日の熱気がいつもよりさらに狂気じみて感じられるのは、私という大看板が名前を貸さないからだろう。
鈴なりと表現したくなるような広場の端の木箱群の上で身を乗り出している見物人達の中に、当然のことながらルネの姿はない。式もせず婚姻届だけの結婚は、私に無垢な妻と明日死のうとどうでもよかったこの身にしがらみをくれた。
目の前には今さらガタガタと震えるまだ三十代くらいの若い男が一人。こんなことになる前に犯罪を止めればよかったのに……馬鹿な男だ。
両側から屈強な兵士に腕を掴まれて用意された台に上半身を押さえつけられ、処刑台に膝をついている。その下には水溜まりが出来、両側の兵士達は悪態をつきつつも、どこか狂気を感じさせる笑みを浮かべていた。
『だって、あのひとは、いたいのでしょう? わたしには、わからないけど。みんなは、しってるはずじゃない』
ふと、そんないつかのルネの言葉が耳の奥によみがえる。確かにそのはずなのに、人間とはどうして他者の痛みは娯楽と感じるのだろう。痛みを感じない彼女はどうして、そんなことを考え憂うのだろう。
「――罪状、傷害罪! 刑罰は左手首の切断とする!」
役人が罪状を読み上げた瞬間、見物人達の声が一層大きくなる。そこで思考は打ち止めた。久しぶりの本職としてのお呼びだ。返り血で汚れないよう黒いローブを纏い、愛用の斧を手に見物人達へと向き直り、軽く一礼する。
右手の甲にある証に違わぬ得物を持った私に隣に並び立たれた男は、最早顔色もなく私の顔を見上げていた。けれどそんな男の表情は見飽きるほどに目にしてきたものだから、次の瞬間には斧は頭上に振り上げられていて。
振り下ろした手にほんの一瞬引っかかりを感じた後には、切り飛ばされた手首が処刑台の上から転がり落ちて、最前列の見物人達の足許に転がる。チラリと確認したところ断面図が潰れていないから、止血はそれほど難しくないだろう。
至極当然の罰を受けただけにも関わらず、命を取られたような断末魔をあげる罪人の男と。
被害者でもなければ被害者の関係者でもないのに、正義の裁きが下ったのだと他者の痛みに熱狂する一般人。
民達が声高に叫ぶ正義の代行者でありながら“死神”と揶揄される我等の一族。
正常と異常が混在するここは現世だろうか、地獄だろうか。そのどちらも存在するのにこの場所に本当の意味での【救い】は一つもない。あるのは【痛み】の連鎖だけだ。
ルネが言うように痛むものが私にまだあるのだろうか。クリストフ神父の言うように、処刑人一族の私が人間であっても赦されるのだろうか。解のない疑問は膨らみ、胸の内で暴れまわるだけだった。