★10★ 処刑人の伴侶。
憐れな娘を匿って欲しいと言った舌の根も乾かない翌日。
使用人達がやって来る前に、散々無理をさせたせいで疲れて眠るルネを揺り起こし、二人で風呂に入って身嗜みを整え、本来なら乙女であった証拠として必要なシーツも、彼女をあの家に返す気はないので庭にある薬草園の焼却炉で処分した。
今日の仕事は急遽不要になったとの書き置きを屋敷のドアに貼り付け、まだ人気の少ない街角で辻馬車に乗り込んだ。馬車の窓から朝の空と空気を楽しむルネの横顔に、これからは明るい時間の散歩も出来るようになると告げれば、瑠璃色の瞳を零れんばかりに見開いた彼女は、初めて涙を一筋零す。
言葉を探しあぐねる私を見て小首を傾げる彼女の肩を抱き寄せれば、ルネは覚えたばかりの口付けをねだって自身の唇をトンと押さえ、まだ同乗者がいないものの、馭者の存在を意識しつつ軽く口付けた。
同乗者が乗ってこないのをいいことに、ルネを膝に抱き上げて眠らせ、濃茶色の柔らかい髪を指で梳く。手離せなくなった存在に安堵と恐怖が綯交ぜになった感情を胸に馬車に揺られること約半日。
何度も破棄しようとして結局出来なかった婚姻届を手に、寝不足と疲労でふらつくルネを伴って教会に向かうと、シスターはルネの様子と翻された内容で私の無体を察して憤慨したものの、壮年の神父は私の顔を見るなり「良いところに落ち着いたのではないかい?」と笑った。
あれほど手離したいと相談に来ておきながら、手離し難いと悩んでいた心を見透かされていたのだろうかと思うと、少々気まずいものがあったが、教会で婚姻届に署名をして誓いを立てられたのは良かったと思う。
ルネと私の姿を見て教会に併設された孤児院の子供達が、興味津々とばかりに周りを取り囲み、街の話をせがんできた。
婚姻届への署名と宣誓に来たようなものだったので、出来れば早く帰りたかったものの、昼食を一緒にどうかと尋ねられた時にルネの腹の虫が返事をしたので、それなら少しだけ……と答える。
生家ではずっと監禁生活を、ダンピエールの屋敷に来てからは軟禁生活を送っていたルネは、それでも持ち前の人懐っこさで子供達と打ち解け、大した情報を知らないまでも懸命に伝えようと苦戦していた。
私はそんな彼女と子供達を少し離れた場所に腰を下ろして眺めていたが、不意に隣にやってきた人物のために座る位置をずらして場所を空ける。相手は軽く頷き返してゆっくりと私の隣に腰を下ろした。
「君はここを尋ねてくるたびにまるで彼女の……ルネさん、だったかな? お嬢さんの身柄が安全になれば、今度こそ人間を止めてしまいかねない様子だったから、今日二人でここに来たことは喜ばしいよ」
そう言って目元に笑い皺を刻んで穏やかに微笑む人物は、神父であるクリストフだった。こんな辺鄙な場所に建つ教会にいるには雰囲気が田舎者のそれとは違う。如何に聖職者とはいえ、やけに洗練された所作からして、本来はこんなところにいる人物ではないのかもしれない。
人格者だからだろう、彼の見せる死顔は非常に穏やかだ。そんな彼に導かれるここの子供達やシスター達も大抵は穏やかで、時々悲し気な死顔も見受けられたが、賎しい表情のものは一人もいない。
白というよりは銀に近い髪を撫で付け後ろで細く束ねて流し、色素の薄い水色の瞳には他者を思いやる知性が見えた。長い首には聖職者らしく銀で作られたトネリコの枝葉が揺れて、花言葉の通り高潔で荘厳な雰囲気を纏っている。
「――本当に、これで良かったのだろうか」
思わず口から漏れた言葉にクリストフ神父が「何故そう思うのだね?」と問う。
「何故……とは、失礼ながらそれはこちらの台詞だ。昨日までは貴方もシスター·マリオンも快くは思っていなかっただろう」
これは皮肉でも何でもなく、純然たる事実に他ならない。クリストフ神父と彼に心酔する赤毛のシスター·マリオンは、直前まで受け入れを渋っていた。
「ああ、だが確かに処刑人の連れてくる人間を信用しろと言うのは――、」
「ははは、若いねぇ。何か勘違いをしているようだが、わたしは処刑人の君を信用出来ないわけでも、穢れだと思っていたわけでもないよ。むしろ正直にあのダンピエール家の当主だと言われた時は、その嘘のなさに感動すらしたんだ」
「……聖職者は誰でも褒めるのだな」
「これは手厳しい。けれどね、わたしも相手は選ぶよ。君は自分のためにも相手のためにも嘘をつかない稀有な人だ。それは誇るべきだとわたしは思う。君の話にすぐに頷けなかった理由は、さっき言った通りだよ。彼女がいないと君は人間でなくなる。君の一族の人達のようにね」
こちらを見つめて細められる瞳に居心地の悪さを感じて視線を伏せる。クリストフ神父はフッと空気を揺らすように微かに笑って「君たちは大丈夫だ」と、無責任とも取れる慰めの言葉を紡ぐ。
――その時、風が一陣吹いて。
子供達と楽し気に笑いながら私を呼ぶルネの声に、我知らず腰を上げて駆け寄ってくる彼女等を抱き留めようと歩み出していた。
***
夕方に街へと戻る辻馬車に乗り込んだあとすぐに眠ってしまったルネを、誰憚ることなく屋敷の正面玄関から連れて帰宅したのは深夜の二時だ。
「予定ではもっと早く帰って来られるはずだったんだが、思いのほか遅くなった。すまない。疲れただろう?」
「ううん。トリスとおでかけできて、うれしかった!」
「腹は空いていないか? 台所に行けば何か食べるものがあると思うが」
「あなたといっしょに、ごはんたべるの、すき」
「じゃあそうしよう」
そんなやり取りをして、台所でパンとチーズと卵を焼いただけの簡素な夕食を作り、温かいミルクティーを淹れて食堂の席についたのは深夜の二時半。もうこうなってくると夕食と言うよりも早すぎる朝食だ。
――しかし。
何故か向かい合って食事が出来るように置かれていた椅子は、今や隣合わせに並んで置かれ、お互いの膝が触れるくらいの距離にルネが座っている。無駄に広い食堂がさらに無駄だと思える斬新な食事風景だ。
おまけに隣に座ってパンを頬張る彼女からの視線が凄い。瑠璃色の瞳は実際にさっきから食事を映す回数よりも、私の無表情を映す回数の方が多い。
「……ルネ、そんなにくっついていると、食べにくくないか」
「ちっとも。トリスはいや?」
「嫌ではないが少し驚いている。私の奥さんは、私を驚かせるのが上手だな」
「おくさん、わたしが?」
きょとんとした表情でそう尋ねられ、説明が足りていなかったのだと内心血の気が引いた。今更ここまできて断られることは考えたくないが、少し足りていない彼女にどの時点で結婚が成立していたのか説明する義務を怠ったのは私だ。
冷えた心臓を温めるためにミルクティーを一口含み、意を決して口を開く。
「……今日出かけた先で会ったクリストフ神父がいただろう? あの人が私とルネが結婚したと神様に報告する人だ。そしてあの人の前で書いた紙……ルネが持ってきた紙だ。あれを明日役所に提出すれば、ルネは私の奥さんだ。嫌か?」
「え? おとうさまがいっていたのとは、ちがうの? わたし、まちがえた?」
そこで帰宅後二度目の血の気が引く経験をする。驚きと不安を滲ませる瑠璃色の瞳に真っ直ぐ見つめられ、ギレム家の当主のやり方にまんまと乗せられた昨夜の自分を殴りたいと思った。
「あれは……その、間違いではないが、順番が違った。本当は今日の手順を踏まえてから、昨夜の……をするのが正しい」
しどろもどろになりながら説明する私を見つめる彼女の瞳が、汚れきった自分をどう映すのか恐ろしい。情けないことに、その瞳を真っ直ぐ見ることが出来ずに途中で視線を膝に落としてしまった。
――けれど。
膝の上で握りしめていた私の拳に彼女の白い手が添えられ、処刑人の証である焼印の上を包み込むように撫でる。穢れた証に彼女が躊躇いなく触れることに戸惑い、手を抜き出そうとしたところでルネが私の手を目線の高さまで持ち上げ、処刑人一族の証に口付けた。
「やめるときも、そうじゃないときも、ずっといっしょにいて」
きっと本当の意味の半分ほどしか分かっていないのだろう、辿々しい誓いとその蕩けるような微笑み。愛を誓い合う言葉など一生聞くことはないと思っていた。あまりにも都合の良い夢を見ているようで目眩がする。
「おくさんになれて、うれしい。ねえ、だいすきよ。わたしのあなた」
彼女の甘い囁きは止まることをしらず、呆然とする私の唇にミルクティーの香りがする口付けが落とされた。