悪い話
「帰るわよ、智夏」
俺を見つけた途端、先ほどまでのヒステリックな様子は鳴りを潜め、まるでごく普通の母親のような口調で意味不明なことを言い出した。
約8年ぶりに見た母の姿は記憶にあるよりも小さいが、皺一つない顔は昔のままで正直気持ち悪い。もはやこの女と同じ空気を吸っていると思っただけで気分が悪い。
「・・・帰る?いきなり姿見せたと思ったら何言ってんの?」
怒りってある程度までいくと冷静に変わるんだな。香苗ちゃんが心配げな表情で俺を見ているのも、社長が扇子を取り出そうとしているのもよく見える。状況が俯瞰的に見えているのが自分でわかる。
女が首を傾げて心底不思議そうに言った。まるで当然でしょ?とでも言うように。
「水月さん、亡くなったんでしょ?私、最近それを知ってね。智夏と秋人の2人ぼっちは可哀そうだと思って。それに、」
「はぁ?可哀そう?なにそれ。何様のつもり?」
水月とは死んだ父親の名である。その名を聞くだけでも苛立ちが募るというのに、内容が自己中すぎて本当に腹が立つ。
「とりあえず、場所を変えるぞ。ここじゃ目立ちすぎる」
「なんで?私は智夏を迎えに来ただけよ?行く必要ないわ。この後秋人も迎えに行かなきゃならないのに」
「これ以上ここで騒ぐなら警察を呼ぶが」
それでもいいなら続けろ、と吐き捨てるように言った社長。正直この女とはもう二度と口を利きたくはないのだが、秋人との対面だけは避けたい。俺がついていく気が無いのはさすがに察したのか、「わかったわよ」と悔しそうに言って大人しくついてくる。
社長室に俺と香苗ちゃんと社長とあの女の四人が入る。俺と香苗ちゃんが隣り合ったソファーに座り、テーブルを挟んだ向かい側にあの女が座る。社長は少し離れた自分のデスクに腰掛けている。最初に口火を切ったのは香苗ちゃんだった。
「そもそも、なぜ夏く、智夏くんがドリボにいることを知っているのですか?」
俺も気になっていた点である。しかも家に来るならまだしも、ドリボに直接乗り込んで来るなんて。
「『春彦』って名前で、あの曲で、私がわからないわけないじゃない」
「『春彦』の方はともかく、曲で普通わかるかよ」
「あんたにピアノを教えたのは私よ?『レクイエム』だっけ?聞いた瞬間にわかったわ」
終始母親づらをしてくるのにイラっとする。そもそも俺が『春彦』として活動していたのはピアノを捨てた父への当てつけである。お前が最も愛した者の名で、最も嫌った音楽をやってやる、という子供じみた理由。こんなことになるとわかっていたら、別の名前にしたというのに。安易に兄の名を使った過去の自分が恨めしい。
「でもまぁ何年も前のことだし、自信は無くてね。探偵の人に頼んで調査してもらったのよ。あんたらの居場所。そしたら水月さんの妹の家に住んでるっていうから、驚いちゃった」
驚いたのは、父が亡くなっていたことにか、はたまた父に妹がいたことにか。だがここまで話している姿を観察するに、どうやらその妹が香苗ちゃんであるということには気づいていないようだ。
「智夏くんも秋人くんも、私の大切な家族です。あなたに渡すわけにはいきません」
「香苗ちゃん・・・」
香苗ちゃんの言葉に思わずジーンとしてしまう。
「かなえ?・・・そう、あんたが。私から子供たちを奪って楽しい!?返しなさいよ!!」
「ちょっと黙れよ」
力任せに机に拳を叩きつける。この女に可哀そうと言われたときに感じた怒り、あれが最高値だと思っていた。が、そんなもの優に越した。俺が侮辱されるよりも、俺の大切なひとを侮辱される方が何倍も腹が立つ。
「ひっ!ち、智夏も水月さん達みたいに私のこと叩くの!?やだやだやだ!!」
「は?」
急に怯えた表情を見せ、震えながら必死に身を縮ませている。その姿を見て少し冷静さを取り戻し、怒りを出さないようにしながら声を出す。
「俺は父親じゃない。つーか、水月さん達って一体どういう、」
ことだよ?と問い詰めようとしたとき、突然社長室の扉が開く。現れたのは黒いスーツを着た50代くらいの男。
「うちの妻が世話になったようですまないね」
ニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべながら、女の肩を抱き無理やり立ち上がらせる。この女が家を出たとき、サインした離婚届を置いて行ったのでどこかで再婚しているかもとは思っていたが。まさかこの男と?顔の系統前の旦那そっくりじゃねぇか!どんだけ面食いなんだよ!
「あぁ、君が智夏君かい?」
そう言って俺を見てきた男の目は値踏みするかのような、不躾な視線で。思わず鳥肌が立ってしまった。
「君なら大歓迎だよ『春彦』君?」
金周りの良さそうな服装に、上から値踏みするような目つき。ここまで腐っていると最早同情する。こいつは大方、『春彦』としての俺の能力に金の匂いを嗅ぎつけたのだろう。だから今になって俺に接触してきたのだ。俺がサウンドクリエイターとして名が売れ始めなかったら、今頃見向きもしていないだろう。まったく清々しいほどゲスイ大人である。
「お断りします」
即答だ。考える必要もない。
「今日は引き下がるとするよ。でも君にとっても悪い話じゃない」
悪い話だよ。良い要素どこにもねぇよ。
「なんたって妹ができるのだからね」
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~第26回執筆中BGM紹介~
オリとくらやみの森より「escaping the ruins」作曲:Gareth Coker様
読者様からのおススメの曲でした!ゲームの曲も素晴らしいものばかり!