決めたんだね
痛みを取り戻して、安心した。
これで”普通”になれた、と。みんなと同じになれたんだと。
これからは叩かれたら痛いし、紙で切ったら痛いし、タンスの角に足の小指をぶつけても痛い。……そう思うと痛みを感じなかった方が楽なのかもしれない、なんて思ったりもする。痛みが無かった方がよかった、とは思わないけど。
痛みが戻ってから早数日。
俺は今、人気絶頂の声優、鳴海彩歌の住む部屋に来ている。なぜかって?そりゃ彼氏だからね(ドヤぁ)
彩歌さんが「お昼ご飯作るから食べに来て」って連絡をくれたので、勉強を切り上げてウキウキでやってきたのだ。
とんとんとん、と心地良い包丁の音がリビングまで聞こえてくる。ちなみにここでも俺は台所に立つことを禁止されている。食材が爆発したら使い物にならないからな。
手持無沙汰なので、家から持ってきた勉強道具を広げてシャーペンを走らせていたときだった。
「いてっ」
台所から小さな声が聞こえてきた。リビングの戸を開けて、台所を覗く。すると彩歌さんの細い指から真っ赤な血が出ていた。
「包丁で切ったんですか!?」
「うっかりっス。そんなに深くないから大じょ、」
「と、とりあえず傷口を洗ってください。消毒液とか絆創膏って、たしか上でしたよね……。あった」
「絆創膏貼るまでもないっスよ。ほら、もう血も止まったし」
「でも……」
「だいじょーぶ」
台所の上の戸棚から急いで救急セットを取り出し、あたふたしていると彩歌さんが怪我していない方の手で俺の手を握った。
痛みを取り戻してからというもの、どうやら他人の怪我にかなり敏感になってしまったらしい。
今も血が固まった傷口を見ただけで、心臓がバクバクとうるさくて仕方ない。
こんな自分が情けない。
「呆れたよね。ごめん……」
彩歌さんの指に半ば無理やりだが、絆創膏を貼りながら謝る。
「なんで謝るの?」
絆創膏貼るの上手だねぇと言いながら、彩歌さんが尋ねた。
「大げさに騒ぎ立てちゃったから」
でも、傷口を見たらすごいぞわぞわして、心臓を氷の手で鷲掴みされたみたいに怖くなる。
「ダメだな、俺。痛みが戻ったら、臆病になったみだいだ」
まるで、暴力に怯えていたあの頃に逆戻りしたように。
思考が暗闇に沈みかけたとき、ぎゅむっと両頬を引っ張られた。
「にゃにふるんれふか」
何するんですか、と言ったつもりだったが、むにむにと引っ張られているので満足に喋れない。
「無謀な人より、臆病な人の方がずっとカッコいいっス。私は、智夏クンが痛みに臆病になってくれて大変うれしく思います」
なぜ語尾が丁寧に。
頬を引っ張っていた手を離し、今度は包み込むように俺の頬に手を当てる。彩歌さんの親指が、秋人に殴られて切れた唇にそっと触れる。
今はもうかさぶたになっているが、それでも触るとピリッと痛みが走った。
「痛みに臆病なままでいてほしい。怪我することを嫌がってほしい。傷つくことになれないで欲しい……って言ったら、我が儘かな?」
それを我が儘と言うならば、なんて愛おしい我が儘なんだろうか。
彩歌さんの両手を掴み、胸に引き寄せて抱きしめる。少しの力だったので嫌なら振り払うこともできたが、彼女は一切の抵抗も見せずにすぽりと腕の中に収まった。
「我が儘じゃないです、全然。もっと、教えてください。彩歌さんの思ってること。心配なこと。俺に直して欲しいところとか」
彩歌さんの思っていることを全部聞きたいし、叶えたい。俺にできることは、すべて。
「じゃじゃじゃあ!キスしてくれても、いいよ?」
「自分で言って照れるところ、好きですよ」
「なっ……ん、」
それから2人でお昼ご飯を食べて、食器を洗って、彩歌さんが参考書を見て変な声を上げて、それからたくさん話をした。
「――なので、正確に言うと秋人に殴られたときじゃなくて、殴られた後、消毒液を付けたときに痛みを感じたんで、消毒液のおかげで痛みを取り戻したんじゃないかと。これを言うと秋人が怒るけど」
「ふふっ。四捨五入したら秋人クンのおかげで痛みを取り戻したってことになるんじゃないっスか?」
「四捨五入すれば、たしかに。消毒液のおかげって言うより、弟の鉄拳のおかげって言った方が締りは良い、ような?」
とりとめのない話をたくさんして、時間が過ぎていった。
日が傾いてきたし、そろそろ帰らないといけない。けれど、その前に言わなきゃいけないことがある。
「彩歌さん、聞いてほしいことがあるんです」
「うん。待ってた。ここに来てからずっと、なにかを話したそうな顔をしてたもの」
「進路について、なんですけど」
「決めたんだね」
「はい。俺、海外の大学に行こうと思います」
次章が最終章になります。いましばらく、智夏たちの旅を見守っていただけたら幸いです。




