兄の座
大抵の恥ずかしい話は、時間が経てば笑えるようになるものだ。
のちに笑いと共に語られることになる「紫電サーブ事件」と呼ばれるこの出来事だが、今の俺のメンタルでは到底笑える話じゃなかった。
「チーちゃん」
「エレナ…」
さすがのエレナも慰めてくれ、
「はやく立って!あんな失敗いつものことでしょう!」
「……うす」
エレナの闘争本能の前では俺の羞恥心なんて、取るに足らないちっぽけなもんさ、と心の中で踏ん切りをつけて気持ちを切り替える。
「よっしゃやるぞ!」
「昔からそういうとこは変わってないんだ」
「え?何か言った?」
立ち上がって手首をフルフルと振っていると、エレナがラケットで顔を隠しながら――ラケットだからきちんと隠れていない――何かを言った。聞き返すと、ラケットを顔の前から背中側に動かして、ニカッと笑った。
「チーちゃんはたま~にカッコいいネって言った!」
「”たま~に”は余計だ」
そういえば、いつからだろう。エレナが春彦のことを言わなくなったのは。初恋の相手の為にロシアから日本の学校に遥々やって来て、その相手はもうこの世にはいないと知って。
目的が消えてしまった今、エレナが日本に留まる理由はなんだろう。
「なにボーっとしてるの!」
「ごめんなさい!」
エレナに注意され、試合中だったことを思い出す。坂井さんがサーブを打ったところでハッとなり、咄嗟に打ち返し、1回戦からの定位置であるコート前方へ走る。
俺が打ち返したシャトルは今度こそ敵方コートに入り、ブラックダイヤモンドサーブことアンドレイ君が思いっきりそれをコートの端を狙ってさらに打ち返した。
「見え見えの丸見えねっ!」
素早くシャトルの下に潜り込み、一度敵コート内を確認するエレナ。このときニヤリと笑ったら得点がほぼ百発百中で決まるし、口が「へ」の字になったら決まらないことが多い。今回はニヤリと笑ったので決まると見ていい。
「やったか」
と、思っていたのだが。
「あっぶないあぶない!」
坂井さんが上半身を尋常じゃない角度で逸らして打ち返した。
「な、んだと!?」
「チーちゃんが「やったか」とかフラッグをたてるから!」
「俺のせい!?」
コン、ころころころ…
「「あ、あー!!」」
エレナと言い合っているうちにシャトルがコート内に落下してしまった。2人で呆然とコート内に寂しそうに転がるシャトルを見下ろす。
コートの外では実況の田中が好き放題言っている。
「エレ柴ペアは仲が良いのか悪いのか正直わからないですね~」
「一回戦から実況を務めているベテランの田中さんでもわかりませんか?」
「長年研究していますが、さっぱりですね~。あえて言うならこの2人は兄弟みたいだなーと」
「兄弟ですか?」
「勝手知ったる仲と言うか、好き嫌いの次元じゃないというか。玉谷さんには幼馴染はいますか?」
「俺の幼馴染は軒並み男ですね~。まったく色気もクソもない」
「現実なんてそんなもんですよ」
実況なのか、ただの無駄話なのか。田中も玉谷も楽しんでやっていることだけはわかる。だが、とりあえずここではっきりとさせておかなければならない。
「俺たちが兄弟なら俺が兄」
「寝坊は寝てから言うのよ!私が兄よ!」
「寝坊じゃなくて寝言だし。兄じゃなくて弟だし!」
ていうかエレナはそもそも男でもないからどっちが兄か弟か、なんて最初から破綻している話ではあるのだが。それでも譲れないものは譲れない。
「はー!?猫に引っかかれたって泣いてたチーちゃんを慰めてあげた私の方が兄の座にふさわしいわ!」
「うわぁー!!こんな場所で大声で言うな!」
この場に彩歌さんがいなくて良かった、と紫電サーブ事件も含めて心の底から安堵していた、のだが。
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『猫に引っかかれたって泣いてたチーちゃんを慰めてあげた私の方が兄の座にふさわしいわ!』
『うわぁー!!こんな場所で大声で言うな!』
ラジオ収録に向かうため、移動中の車内でスマホ片手に彩歌は悶えていた。
(う……可愛い!にゃんこに泣かされたチビ夏クンを思いっきり抱きしめてあげたいっスー!!)
エレナのナイスアシストにより、リアルタイムで智夏の恥ずかしエピソードと、ついでに紫電サーブ事件も彼女に見られていたのだった。
「御子柴流奥義、紫電サーブ。……ふふっ、いいなぁ。鳴海流の技も考えてもらおうかな~?」
思わず口に出したくなるような、かっちょいい技の名前だと彩歌は上機嫌で次の現場に向かうのだった。
~執筆中BGM紹介~
斉木楠雄のΨ難より「青春は残酷じゃない」歌手:花江夏樹様 作詞・作曲:金子麻友美様




