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Bar Moira



入り口の扉を開けてすぐに突き当たりがあり、左手に姿見、そして右手には店内へ入る曇りガラスのようなオシャレな扉がある。


どれも全部、記憶にある通りに配置されていて、記憶にあるものより少し古びていた。


『Bar Moira』この場所はたしか、


「智夏が初めて人前でピアノを演奏した場所よ」


カツ、カツ、と高いヒールで床を踏む音が近づいて来た。


「母さん…!?」


俺を産んだ母であるマリヤは赤いドレスを身に纏い、遠い昔を懐かしむように俺を見て微笑んでいた。それと対照的に俺は色々と理解が追いつかずにプチパニック状態だった。


「その恰好どう…、いや、それよりもなんでここに!?」


病院にいたはずじゃ…。


「病院には外出許可はもらった」

「もらった!」

「もらったね~」


1席だけの丸いテーブルには秋人、冬瑚、そして香苗ちゃんが座っていた。女性陣はマリヤと同じようにドレスを身に纏い、秋人は俺と同じようにスーツを着ていた。


「……ナニゴト?」

「夏兄がロボットみたいになった!」

「いつまで突っ立ってんのさ。さっさと座りなよ」

「あ、はい」


横からスッと気配もなく現れたバーのマスターが(この人もまた記憶より老け……ナイスミドルになっていた)俺が持っていた赤い花束を持っていった。


空いている席は2席。香苗ちゃんと秋人の間の席と、秋人と冬瑚の間の席だ。多分空いているもう一席にはマリヤが座るだろうと考えて、香苗ちゃんと秋人の間の席に座った。




俺が椅子に座ると同時に、店内の照明が落ちて暗くなり、俺たちの座るテーブル席の正面、店の最奥にパっとスポットライトが付いた。


漆黒のグランドピアノが照らされて、鈍く光っていた。俺が初めて人前でピアノを演奏したのも、あの場所でだった。当時、母さんはちょうど俺がいま座っている席からステージを見ていた記憶がある。


今日のこの位置は、あの日とは真逆だ。俺が客席で、母さんがピアノの前に座っていて。


あの人のピアノを聴くのはいつ以来だろうか。俺にピアノを教えた人。師であると同時に目標でもあった人。


息を2秒吸って、3秒吐く。これは元々は母が現役のピアニストだったときにやっていたルーティンだ。それに憧れて、俺も真似ていたのがいつのまにか演奏前の癖になっていた。


マリヤの一挙手一投足に目を奪われる。とっくの昔に現役は引退したはずなのに、堂々と、しかし優雅にピアノに座る姿からは現役時代と変わらない、いやそれ以上のオーラを纏っているように感じる。


滑らかに指がピアノの鍵盤に―――



「~♪」



ドビュッシー作曲の『夢』。曲の冒頭のテンポは歩く速度よりやや速く、夢見るように。情緒豊かな音色が決して狭くない店内に響き渡っている。


サビで徐々に盛り上がっていくと、不思議な音色で響く和音は、聴く人を夢の中にいるような錯覚さえ覚えさせる。


メロディーが左手から右手に流れるように移った。移ったことを悟られない技術。難しいことをやっていると感じさせない流麗な指使い。


ラストにだんだんとテンポが遅くなっていき、指が最後の一音を奏で、夢から覚めた。



本当に、嫉妬するほどに上手い。



「すごいすごーい!お母さんのピアノの音、とっても綺麗だね!」


ミントグリーンの新緑を思わせる色のドレスを着た冬瑚が席を立って、ピアノの前に立ったマリヤに飛びつく。


「久しぶりに聞いたけど、元ピアニストなだけあるよな」


相変わらず皮肉屋な秋人だが、演奏中は一番瞳を輝かせていたことはみんな知っている。それにしても黒のスーツを着こなす中学生っていったい…。


「うひゃ~。マリヤさんって本当にすごい人なのね~」


パチパチと感心しきりに拍手をしている香苗ちゃんは、グレーの大人っぽいドレスを身に纏っている。


冬瑚に手を引っ張られながらマリヤが席にやってきた。


「相席しても?」

「どーぞ~」

「フフッ。ありがとう。そのドレス、とっても素敵よカナちゃん」

「ありがと!マリちゃんもとっても似合ってる!」


カナちゃんマリちゃん…。生みの母と育ての母の仲が良くて、息子としては嬉しいけど。……いいのか?まぁ、本人たちが楽しそうだしいいか…。


「ちょっと待ってて」


と言い残すと秋人はお店の裏に行ってしまった。しばらくして秋人が料理の乗ったワゴンを押してやってきた。


「晩御飯は冬瑚と2人で作ったビーフシチュー。ここの厨房を借りて昼間に作った」


うわーおいしそー!もくもくと湯気が上がり、照明に照らされてきらきら輝くビーフシチューにお腹がきゅるきゅると言っている。


……あれ?もしかして料理をするのに邪魔だから俺を家から出したのか?


そんなわけない、よな?…え、ないよね。誰かないって言ってくれー!


「これね!香苗ちゃんとお母さんへの母の日のプレゼントだよ!」

「秋くん!冬ちゃん!ありがとう~!!!」

「まぁ!2人で作ってくれたのね、ありがとう。早速食べてもいいかしら?」

「うん!召し上がれ!!」


…。


「母の日ーーー!?」


5月の第2日曜は母の日。それをすっかりと忘れていたのだった。



~執筆中BGM紹介~

「夢(夢想)」作曲:クロード・アヒル・ドビュッシー様

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