番外編 コンサート
久しぶりの番外編。
これは球技大会が終わってすぐのこと。
「御子柴君!今日のお昼休み、覚えてますね?」
廊下を歩いていたら、空き教室から伸びてきた手に引きずり込まれた。俺こんなんばっかだな…。
「安心してください、早乙女先生。きちんと覚えてますよ。ですから……少し離れてください」
「ハッ!ごめんね~。先生みたいなおばちゃんと近いのは嫌だよね」
「…」
「そこはすぐ否定するところですよ!?「先生みたいな美人教師に近づかれて嫌なわけないじゃないですか~」って言うところ!」
「先生もしかして寝不足ですか?」
いつにもまして情緒が不安定みたいですけど。
「今日が楽しみ過ぎて眠れなかったんです~」
「そんなに楽しみですか?」
「そりゃあもちろん!ずっと求めていたものですから!…あ!そろそろ授業が始まりますね。遅れないように!」
「はーい」
今日のお昼にすることは、早乙女先生と以前に約束したこと。
俺に妹がいるとわかって、冬瑚に会いに行くためにコンサートのチケットを早乙女先生から一枚もらったのだ。そのとき、チケットを譲る条件として約束したのだ。
『早乙女先生のためにピアノを弾く』
と。こんなものでいいのか疑問だったが、本人にとっては興奮して眠れないほど嬉しいものらしい。
昼休みになって、田中たちに用があると言って教室から抜け出し、誰にも見られないように音楽室に向かう。昼休みの学校で人に見られないように移動するのはなかなか難しいのだが、ちょっぴり楽しかった。
「早乙女先生、お待たせしました」
「いえいえ。コンサートを待つ時間というのも楽しいものですよ」
「では先生。なにかリクエストはありますか?」
「リクエストしてもいいんですか!?なんたるご褒美!では、ドビュッシーの『月の光』を」
「『月の光』ですか。懐かしいですね。昔コンクールで弾いたことがありますよ」
「うん。先生が初めて聞いた御子柴君の演奏なのです」
椅子の調整も終わり、演奏前の呼吸のルーティンを済ませ、鍵盤に手を添える。
ドビュッシー作曲のクラシック音楽『月の光』は、音のほとんどが静かで、タイトルにぴったりの曲だ。しかし、個人的には元のタイトルの『感傷的な散歩道』の方が好きだったりする。幸せな日常の中で、ふと不安になるような、切なくなるような、そんな矛盾を抱えた心が表現されているようで。
コンクールのときに弾いたときは、月の光が降り注ぐように、と思って弾いていたが、いまはこんなにも心を乗せて音を奏でることができている。これが成長というものだろうか。
最後の音を奏で、両手をゆっくり鍵盤から離す。
パチパチパチパチ!
「本当に、本当に大きくなったねぇ…!」
1人分の拍手が音楽室に響いた。決して寂しいとは思わない。この曲は早乙女先生のために弾いた曲なのだから。
「昔とは違いましたか?」
涙ぐむ早乙女先生にハンカチを差し出しながら感想を聞く。
「うん。もう、言われるがままに、求められる音を出していたあの頃の御子柴君はいなかったのです。体も、心も、大きくなったんだね」
「はい。いろんな感情を詰め込めるくらい、心も大きくなりました」
「そっか~。それじゃあ、あともう一曲!」
「なんでしょう?」
「ラ」
……ま、まさか。ピアノ弾きの中で一番難しいんじゃないかと言われているあの曲を言うつもりか!?
「『ラ・カンパネラ』で!」
「んんっ!わかりました…。けど、弾けないんでアレンジします」
「アレンジしてくれるのですか!?わーい!」
子どものようにはしゃぐ先生の隣で、俺の心配はただ一つ。
次の授業、シャーペン持てるかな…。
結論、両腕が上がらなくなった。
「しばちゃん大丈夫か?」
放課後もへばっていた俺を心配して田中が来てくれた。
「両手を高速移動しまくってたら上がらなくなった」
「なんだそれ。なぁ、今日仕事休みだったよな?」
「そーだけど、どした?」
「多分津麦がしばちゃん家のピアノ弾きに行ってるから、迎えがてら行くわ」
「あいよー」
田中と家に帰ると、ピアノの音と、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「今更だけどさ、仕事道具で遊ばせても良かったのかよ?」
「全然いいよ。楽しく弾いてこそピアノは輝くからね」
「かっちょい~」
「うぇ~い」
男子高校生はとりあえず「うぇ~い」って言っておけば大丈夫だってこの2年で学んだのだ。
ピアノのある部屋に田中と向かっていると、歌っている声がはっきりと聞こえてきた。
『お兄ちゃ~んは~、怒る~とこーわ!こーわ!こーわーうぃ!』
「…お兄ちゃんは怒ると怖いんだってさ」
「津麦な…最近、変な歌ばっか自分で作って歌ってるんだよ。才能あんのかな」
「怒ると怖いお兄ちゃんは兄馬鹿だな」
これは和やかに過ぎたとある冬の日の話。
~執筆中BGM紹介~
「月の光」作曲:クロード・ドビュッシー様
次回からは先輩たちの卒業ですね。多分。




