泡沫の夢
8月ですね。暑いですね。頑張りましょうね。
曲目は『泡沫の夢』。先週放送された『月を喰らう』12話で主人公の過去回想シーンのBGMとして流れた曲である。みたいなことを司会者が説明している間にバレないようにこっそりと客席を覗く。
あ、これヤバいやつかも。見なければよかった。以前音楽室で弾いた時はみんな知った顔だったから大して緊張せずに弾けたのだ。だがしかし、今回は人数が桁違いだ。指先から体温が奪われたかのように感覚が無くなっていく。かなりまずい状態なのでどうにかして指先を暖めようと手をすり合わせる。すると俺の緊張で冷えた両手を覆う暖かい手があった。
「久しぶりっスね、春彦クン」
目の前にいたのは俺が尊敬する人物、大人気声優の鳴海彩歌だった。ということは必然俺の手を握る暖かい手は、目の前の人物ということで・・・
「わわわっお、お久しぶりです!」
「しー!静かにっスよ?」
「は、はい。すみません」
しー!と口の前に人差し指を立てる仕草がなんとも可愛い。ってそうじゃなくて。
どうやら緊張している間に舞台上の声優の人たちは裏に戻っていたらしい。
「随分と手が冷えてたみたいだけど、もう大丈夫っスね」
「あ、そういえば」
美女と至近距離での握手?というシチュエーションにより緊張が吹き飛んでいた。
「観客はみんなジャガイモ、人参、玉ねぎっスよ」
「カレーの具材ですね」
「いや、肉じゃがだよ」
というか、カレーも肉じゃがも具材はほぼ一緒とか秋人が言っていたような。
「春彦さん、お願いします」
いつの間にか舞台が暗くなっており、真ん中にあるピアノだけに照明が当たっていた。
「鳴海さん、ありがとうございます」
「ここから見てるよ、春彦クン」
「えぇ、見ていてください。貴方は俺の憧れの人だから」
そう言ってピアノに向かって歩き出した俺は、後ろで顔を真っ赤にして「ふぎゅ~~っ」という変な声を出していた鳴海さんの様子には気づかなかった。
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「先週放送された『月を喰らう』第12話で流れ、ネットを騒然とさせた曲、そしてその曲の作曲者『春彦』。流星のごとく突然アニメ業界に誕生した『春彦』の初の公の場での演奏を、どうぞ皆さまお楽しみください。皆さまを『泡沫の夢』へと」
そう司会者は言うと舞台裏に引っ込み、ステージを明るく照らしていた照明は暗転した。
まさかあの『春彦』の初の生演奏を最前列で聞けるなんて!!一生分の運を今ここで使い果たしてしまったのだろうか。期待に胸を膨らませながら、彼?彼女?の姿を今か今かと待ちわびる。
コツ、コツと足音が聞こえた。ステージ上のピアノだけがライトを浴びて、その存在感を主張している。しかし、スポットライトに照らされたあの人を目にした瞬間、この場で誰が主役なのかを思い知った。
大きめのシャツにジーンズと比較的ラフな格好に、桜色の狐のお面。そして中性的な髪形。彼か彼女か気になる?そんなちっぽけな疑問、あの人には不要だ。性別なんて関係ない。むしろ性別が無いと言われた方がしっくりくる、そんな不思議な存在。
あの人が、『春彦』様が椅子に座り、ピアノに向き合う。お面をしていてよくはわからないが、深く呼吸をしている、気がする。そして綺麗な指が鍵盤に触れた瞬間、会場中の人間が心を掴まれた。目を奪われた。その存在に圧倒された。『泡沫の夢』は主人公の幸せだった時間をイメージして作られた曲なのだろう。幸せな、それでいてありふれた家族の風景が音に乗って見えてくる。徐々に視界がぼやけてくる。涙がこぼれるのはきっと、この夢が覚めてしまうとわかっているから。泡のようにはじけて消えてしまう儚いものだと知っているから。
曲が終わり、『春彦』様が席を立つ。急に現実に引き戻されたようで、心が追いつかない。まさしく今の時間が『泡沫の夢』そのものだった。だから、そんな素敵な時間を見せてくれたあの人にとびっきりの感謝をしないと。ぱちぱちと拍手をする。するとその音で現実に戻ってきたかのように、人々は驚き、拍手を送る。静かに頭を下げる『春彦』様と、溢れんばかりの観客からの拍手喝采。対照的なこの風景が、いつまでも胸に残っていたのだった。
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「見ててくれましたか?鳴海さん」
「うん、うん!」
長い長い拍手を浴びながらひっそりと舞台上から戻ってきた。そして一目散に彼女の元に。
「しっかり見てた。すごいっスね。会場のお客さんはみーんな春彦クンの虜になってるっスよ」
「いやいや、そんなことないですよ」
そもそもこのお客さんたちはあなた達声優を見に来たわけだし。
「あの拍手の雨を聞いてもまだそんなこと言ってるっスか?」
「・・・そうですね。少しは自惚れてもいいんでしょうかね」
「自惚れなさい!お姉さんが許可するっス!」
観客からの拍手も確かに嬉しかった。でも、それ以上に、憧れの人に認めてもらえたこの瞬間が、俺は嬉しい。お礼を伝えたい。きちんと目を見て。周りを見ると周囲はまだ暗く、人は忙しなく動いていてこちらに注意は向いていない。狐面を顔の横にずらして、綺麗な鳴海さんの目を直接見る。
「ありがとうございます!」
「は、「鳴海さーん、どこですかー?」」
鳴海さんが何かを言おうとしたが、向こうから探す声が聞こえてきたため聞けなかった。急いで狐面を付け直す。
「こちらこそ、素敵な曲をありがとうっス」
肩に手を乗せ、少し背伸びをして俺の耳元で囁く鳴海さん。よ、よかった狐面着けてて。多分いま、顔真っ赤だ。そそくさとその場を去り、足早に控室に向かう。
「めっちゃイケメンじゃないっスか~しかも最後のあの笑顔、アレは反則っスよ~」
へなへなと地面に座り込み、顔を赤くする鳴海。初めて素顔を鳴海に見せるとか、自分の顔が国宝級イケメンだとか、そういう重要な情報をすっかり忘れていた智夏なのであった。
「犠牲者が一人増えた気がするわ!」
「香苗さん、うるさい」
以前に怒涛の忙しさとか書いた気がしますが、今回もやってまいりました。怒涛の忙しさpart2ってやつです。