心も体も、痛みを感じない
タグには職業ものとありますが、主人公は学生です。設定は作者のお腹並みにゆるゆるなので、あったかい目で見守ってください。
今も兄さんが生きていたら、こんなことにはならなかったのだろうか。あのとき、兄さんの代わりに俺が死んでいたなら、きっと家族は壊れていなかった。
「くそっ!こんな絵が売れるわけがないだろうっ!この能無しが!!」
罵声と共に、近くにあった花瓶が投げつけられる。
ーガッシャーン!!
俺の左肩に花瓶が当たって割れた。挿してあった花と花瓶の欠片が無残に床に散らばっている。この家で花瓶に花を挿すのは弟の秋人くらいだ。花と花瓶と秋人に申し訳ないことをしたな。後で謝っとかないと。
「すみません。父さん」
頭を下げると残骸が散らばった床に、赤い雫がポタポタと零れ落ちた。花瓶の欠片が割れた拍子に顔に当たったのだろうか、どこかから血が出ている。
「なんでお前なんだ。あの子が生きていたなら、」
父が憎しみのこもった瞳で俺を睨む。何百何千と言われてきた言葉。そしてこれには続きがある。
「お前が代わりに死ねば良かったんだ」
昔は傷ついた心も、今は動かない。心も体も、痛みを感じない。
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御子柴智夏15歳、春。普通だったら、新しい制服に袖を通して学校に通う頃。俺の世界は家の敷地の外れにある小屋のような所と、月に一度父に絵を見せるために訪れる本邸のみ。会う人は、父と弟のみ。その生活を6年も続けていれば嫌でも慣れるというもの。
「ただいま。兄貴」
「おかえり。秋人」
4歳下の秋人は現在小学六年生で、近所の私立小学校に通っている。
「今日は豚が安かったから、夕飯は肉じゃがだ」
肉じゃがとご飯が乗った盆を片手にやってきた秋人は、本邸では家事を担っている。私立学校に通えるお金があるのに何故家政婦を雇わないのか。それはこの家の家計が火の車だからである。亡き兄が残した絵画を売って得た大金は底をつき、今は俺の下手くそな絵画を売って得たお金でなんとかこの家は回っている状態だ。
「いつもありがとう」
「別に大したことじゃねえし、って兄ちゃんそのケガ!」
「呼び方が兄ちゃんになってるぞ?兄貴って呼ぶんじゃないのか?」
「いや、今そこ気にする状況じゃねぇだろ!?」
どうやら思っていたより酷い怪我だったらしい。自分では痛みを感じないため、怪我の存在をすっかり忘れていた。
「救急箱取りに行ってくるから、傷口洗っとけ!」
「はーい」
指で顔を触り、傷口を探る。えーっと、左の頬と左耳と、あと首かな。奥の洗面所に行き、この小屋唯一の鏡を見ると、やはりその場所には派手な傷口が。既に血は乾いているが、なんというか、痛そう?痛みを感じないのでよくはわからないが。とりあえず顔を洗って血を洗い落とす。
この小屋は元は兄、春彦のために作られたアトリエである。そして、今は俺の唯一の居場所。秋人には牢獄に見えるらしいが。
「兄ちゃん!!!」
「そんなに慌ててどうした?それに顔色悪いぞ、大丈夫か?」
「と、父さんがリビングで倒れたまま動かないんだ!!どうしようっどうすればいい!?」
「…きゅ、救急車を呼ぼう」
急いで本邸に戻り、電話を掛ける。電話を掛ける前に父の様子を見たが、動揺して脈がうまく測れなかった。たどたどしく住所を伝えて、救急車が到着するまで、震える秋人の肩を抱いていた。
父の緊急手術が行われている間に、顔の怪我の治療を受けた。初老の優しそうなお爺さんだ。しかし、俺にとっては約6年ぶりの家族以外の人との会話。救急隊員の人には秋人が話してくれていたため、なんとかなったが、今は俺一人。逃げ場はない。おどおどしているうちに、治療が施されていく。
「ちょっと痛むけど、すぐ終わるから我慢してくださいねぇ。あと、首も治療したいから、服脱いでねぇ」
「あ、はい」
言われたままに着ていた服を脱ぐ。すると後ろにいた看護師の女の人が息を飲む音が聞こえた。
「君の、その傷は、」
二人の視線の先には俺の体に刻まれた数々の傷跡。古いものから、まだ新しい傷までびっしりと体を覆いつくしている。自分の中では当たり前すぎて気が回らなかった。
「すみません。お見苦しいものを」
脱いだ服に手を伸ばす。そうだよな。こんなの見せられたら気持ち悪いよな。
「いや、服は脱いだままでいいよ。首の治療するから、座って」
「は、はい」
お医者さんは、看護師の人に何か耳打ちし、そのまま看護師さんは去っていった。
「これは、痛かっただろう……」
「?どれのことだかわかりませんけど、痛みを感じないので別に平気です」
「痛みを感じない…?まさか、」
告げられた病名を、どこか他人事のように受け止めた。
長い治療を終え、秋人の元に向かう。秋人の前には、静かに横たわる父の姿があった。
「兄ちゃん、やっと、やっと」
秋人が涙を流しながら歪に笑う。
「やっと死んだよ。これで僕たち、自由だよ」
父の死を目の当たりにしても別段心が動くことはなかったが、秋人にこんなことを言わせてしまったのは、後悔している。秋人の心の中はきっと、いろんな感情でぐちゃぐちゃだろう。それを憐れに思うのと同時に、少し羨ましくもある。
それから2日後、俺たちは家を売り払った。
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「今日からお世話になります。御子柴智夏です」
「弟の御子柴秋人だ、です」
少ない荷物を持ってやってきたのは、父が死んで初めて存在を知った叔母の家である。ちなみに、父の妹だ。
「あなた達を預かることになった、御子柴香苗です。えーと歳は27!独身彼氏なし!以上です!質問あったらどうぞ」
「叔母さん、しつもーん」
「はい、秋人くん。あと、叔母さんと呼ぶのはやめて。香苗ちゃんって呼んで」
「……香苗さん、」
お年頃の秋人はどうやら年上の女性をちゃん付けで呼ぶのは恥ずかしかったようだ。
「香苗さんの、職業は?」
「うんうん。いい質問だね!私は夢を作るお仕事をしています!!」
うん?と思わず首を傾げる。夢を作る?隣では秋人も同じように首を傾げていた。
「さすが兄弟。動きがシンクロしてる」
「で?本当は?」
「あ、信じてないな〜。まぁいいか。私はアニメを作るお仕事をしてます!!」
えっへん、と自慢げに言い放った顔は、誇りに満ち溢れていてとても眩しかった。