悪魔来たりて・Ⅲ
ここは水底だから、こうも息苦しく、身体が重いのではないだろうか。そら、今夜の闇はどこかしら青く揺らめく。ゆらりゆらりと、音もなく。
ベッドの上という長方形の世界で、マリアはぼんやりとそんなことを考えていた。
悪阻がひどい。日増しにひどくなっていく。
吐き気の襲来は不規則かつ頻繁で、その合間合間に食事と睡眠を貪るような毎日だ。昼も夜もあったものではなく、恥も外聞もまたしかりだ。時には理性を捨て、獣のように四つん這いになって呻くよりどうしようもないこともある。
苦しい。そして惨めだ。なぜ、どうしてと嘆く暇もない。ただ耐える。やり過ごす。それだけのために呼吸している。
「……ここに……いる……」
マリアは腹へ手を添えた。自分の内側に他者がいる。それがはっきりとわかる。
「この苦しさには……善も悪もない……ただただ、苦しい……」
これが普通の妊娠ならば、あるいは伴侶との愛の経緯にすがれるのだろうか。恋を知らないマリアには想像すらできなかった。
「奇跡と信じたなら……信じられたなら……楽になる?」
あの夕暮れの礼拝堂は夢かうつつか。翼持つスカイウォーカーにより受胎告知を受けた自分はその者の言う通り聖母であり、宿りしものは神の子なのだろうか。
到底、そうは思えない。
嘔吐物に汚れ、便器にしがみつく神聖さなどマリアは聞いたことがなかった。
「奇跡は再現しない……」
独り、暗い天井へと告げる。
「再現するもの……それは、科学」
口にしてしまえば、すとんと納得もできた。
エティエンヌは言っていた。奇跡は容易く起きないと。身に覚えもない処女受胎とてスカイウォーカーの技術であると。
「だから、新十字軍はこのことを予測できた……でも、いつから? 私は、いつの頃から、この時のために用意されていたの?」
目を閉じる気にもなれず、独り言を続ける。それで保てる正気もある。
「私を用意したのは……新十字軍? スカイウォーカー? どちらとも? それとも別な誰か? その人たちは今も私を監視している? 新十字軍だけでなく……寄ってたかって……」
眩暈がする。息がしづらい。手足が冷えて痺れる。まるで全身を作り替えられていくような……この逃げ場なき悪寒と怖気。
鼓動の音を聞く。自らの肉体が生きる音を。耳を澄ませば、もう一つ別な鼓動も聞こえるのだろうか。小さくも生きている奇妙なそれが。
リンと音が響いた。
鳴ったのはユリの花だ。卓上の花瓶に挿したそれが、暗闇の中に白く淡く光を発している。そして鳴る。聞き違いではない。そら、今もまたリンと聞こえた。
「ずっと咲いている……綺麗な姿のままに」
手を伸ばし、可憐な花弁に触れた。
「メタコム先生にいただいてから、もう随分と経つのに……散りもしぼみもしない」
柔らかでしとやかな、白い感触を指先に繰り返す。
「これは奇跡?」
鈴のように音が鳴り続けている。鳴るはずもない音が聞こえ続けている。
「それとも……空の上にありふれた……不死?」
花が縦に揺れたのは偶然か必然か。
ドン、という音と共に突き上げるような衝撃があった。タタタ、と連なり聞こえるものは発砲音ではないだろうか。
怒声がする。悲鳴がする。何かが破壊される音がするたび、部屋が、建物が揺れる。
「何が……起きているの?」
夜の静けさは破れて戻らず、暴力的な喧騒が広がっていく。この階でも扉を強く開閉する音が立て続き、逃げろ逃げろと半狂乱な叫び声が上がった。幾つもの足音が階下へと駆けていく。
取り残される。
そう理解したところで避難する手段はない。這いずって移動するための体力とてないのだ。
さりとて呼び鈴を鳴らすことはしなかった。ただ待つ。
「何かが、来る……」
予感があった。
外には激しく戦闘が行われて日常を壊し、内にはリンリンと白ユリが鳴って現実感を失わせるこの部屋にあっては、超常的なそれこそが唯一の頼るべきものと思われた。
「もう、すぐそこにまで……」
初めてのことではない。礼拝堂で独り祈っていた時にも感じたものだ。
……来た。
青い夜の向こう側から、マリアが身じろぎもせず待つここへ、何かが滑り込んだ。
「誰が来たのですか?」
部屋の隅に沈殿する影へと問いかけた。
そこには人の隠れるスペースなどはありはしないから、答える者とは即ち人外の存在だろう。
「お見それしました、聖母。よもや名乗るよりも先に問われるとは」
闇がそのまま人型を成したかのようにして……一人の男が現れた。
その者を表現するには、黒衣の紳士とでもいうべきか。シルクハットをかぶり、フロックコートを着て、ステッキを持っている。総じて黒色だ。
「お初にお目にかかります。アルファベータと申します。聖母におかれましては、御身健やかにお過ごしでいらっしゃいますか?」
黒衣のアルファベータは帽子を取って優雅に一礼した。心を吸い取られるのではないかと錯覚するほどの美貌だ。
しかし、その笑顔は完璧にすぎて却って仮面のようだ。欠片も心がこもっていない。
「深夜に事前の連絡もなくまかりこしたこと、心よりお詫び申し上げます。これも諸事情あってのこと……どうかご容赦いただきますよう」
アルファベータはさも恐縮しているという風に首を振り、マリアが返事をする間もなく、言葉を連ねてきた。
「私はさるやんごとなき御方の使いにございます。貴女様をお連れするよう仰せつかっておりますれば、身支度などなさいまして、私めの手を取っていただきますようお願い申し上げます」
差し出された手は黒革の手袋に包まれている。触ればきっと冷たく硬かろうと思われた。
「ついて行かない、という選択肢はあるのでしょうか」
「ございません」
即答だった。表情はおろか指先一つ微動だにせず。
「今夜ここに聖母の取りうる選択肢があるとすれば、それは速やかに行動なさるか……もしくは修道院が灰塵と化した様を眺めてより行動なさるか、の二択にございます。いずれをお選びなさるにしろ、行動に時をかければかけるほどに、修道院の被害は増していくことでしょう」
アルファベータは感心しないとばかりに肩をすくめた。
「……私を脅すのですね」
「予知、とお受け取りくださいませ。今夜多くの者の運命をその手に握っておられる御方。甘き過去に比べ、未来とは往々にして残酷非情に待ち受けているものでございますれば」
「そんな未来を予言する貴方は……悪魔のごときものでしょうか? 私は天使のごときものもまた知ります」
「いいえ、違います。聖母は世界を誤認しておられますな」
偽りの笑みを深めて、アルファベータは言う。
「悪魔とは聖を貶め生を辱める者。死に怯えて空へと逃れながら、自らを神聖であるとうそぶく者どもこそがそれでございましょう。自身を偶像とし、自己愛に耽る……何とも破廉恥な集団でございます」
困ったことですと首を振り、クルリと人差し指を伸ばした。指し示したものはマリアではない。
白ユリだ。今もそれは音を発している。甲高い耳鳴りのように。
「ひるがえって私どもは、地にあり人間に寄り添って暮らしております。天使とまでは申しませんが、少なくとも善き隣人ではあろうかと存じます。不死を分け与えるに際しましても、居丈高な裁判官を気取らず、ビジネスマナーに則りドルで取引いたしますれば」
歌うように言い終えると、アルファベータはコホンと小さく咳払いした。
「ただ、ここだけの話にしたく存じますが……」
そっと悪戯な表情を作った。
「……少しばかり渇いております」
チロリ、と生々しい色の舌が覗いてすぐまた隠れた。
「地上では、新鮮で芳醇な食事を得にくいものでございますから」
熱く悩ましげな息が吐かれた。
べっとりとした何かを浴びた気がして、マリアは怖気を感じずにはいられなかった。
◆◆◆
三十を超える数の銃口が火を噴いている。
発砲を命じたエティエンヌ自身は、ミニミ軽機関銃を射撃していた。
弾帯で給弾される小口径高速弾を立て続けに命中させていく。その数は既に五十を超える。
標的は、怪物たちだ。
犬歯を剥き出しにした熊とも狼ともつかない個体がいる。甲殻類と蛸とを無理矢理に融合させたような個体がいる。大小無数の血管を垂れさげたトカゲのような個体がいる。
三体はどれもがグロテスクな見た目をしており、凶暴な性格で、銃弾の一発や二発ではまるで怯まない化け物ではあるが……どの個体も二足で立ち、身体のあちらこちらに人間の衣服の切れ端を提げている。名も知らぬ誰かであった頃の名残りを晒している。
怪物とは、人間より変じた存在なのだから。
「スカイウォーカーめ……今夜、また貴様らの罪を数えたぞ」
何もさせないように、押し止めるように、直径六ミリ弱の弾頭を叩き込んでいく。怪物討伐の鉄則は近づかせないことだ。指揮下の兵士たちもそれぞれに銃撃を加えている。
「騎士! 非戦闘員の避難誘導、完了しました!」
発砲の炸裂音を超えて誰かからの報告が聞こえた。
「よし! ダレット分隊はそのまま非戦闘員の警護につかせろ! マリアは……『繁殖牝馬』の身柄は!」
「それが……保護に向かったベイト分隊は未だ戻りません!」
「ちっ! そこを手間取っては……」
エティエンヌは奥歯を噛んだ。
ベイト分隊はサイモン・B・ヤング修道士に指揮を任せた隊だ。少しでもマリアへ同情的な人物の方がよかろうという判断が裏目に出たのかもしれない。
「アレフ、ガンマ、ヘイ各分隊、猛攻せよ!」
苛烈な銃撃を指示する一方で、エティエンヌは自らの軽機関銃を待機する兵士に預けた。側でFAMASを撃つ黒い肌の修道士へ顔を寄せる。
「ダイソン修道士、この場の指揮を任せる。怪物どもを仕留めてくれ」
「は、デヴィッド・G・ダイソン修道士、三個分隊の指揮を預かります。して、騎士ロワトフェルドはいずこに?」
「ベイト分隊の元へ行く。『繁殖牝馬』がぐずっていたなら怒鳴りつける」
マリアは何事にも動じず、どこまでも気丈だ。この混乱の最中であってもサイモンの軽薄を叱りつけるくらいはしてのけよう。今やエティエンヌにはそれが容易に想像できた。
「っ! お待ちを!」
駆け出そうとしたところを止められた。
デヴィッドが曖昧な表情を浮かべて二の句に困っている。冷静沈着な彼らしくもない。
「何だ。どうした、ダイソン修道士」
「その……これをお持ちください」
差し出されたのはベネリ散弾銃だ。セミオートマチック機構を有する強力な一丁である。
「今夜の襲撃には不審な点があります。怪物が複数同時に現れるなど……」
「何を言う。先だっては六体もの怪物が現れたじゃないか。私と修道士の初対面は、正にその現場だったぞ?」
「……そう、ですね。そうでした。失念しておりました」
どこか悲痛な眼差しで、デヴィッドはそれでもとベネリ散弾銃を引っ込めない。
「ベイト分隊に何かあったのかもしれません。どうかご油断なきよう」
「……わかった」
釈然としなかったが、それ以上を問わなかった。その時間を惜しんだ。
受け取った銃の暴発防止装置を確認しつつ、エティエンヌは寄宿舎へと走った。
人気のない中を急ぐ。塀を越え中庭を突っ切る。花か草かを踏み散らしたかもしれない。回廊に入ってその暗さに眉根を寄せた。この修道院には碌な照明設備がない。
案の定か何かに蹴つまずいた。靴が黒く汚れた。
「な……に……?」
エティエンヌが踏み潰し、蹴り壊したそれは……黒く炭化した人体だった。
闇に塗れて気づかなかったが、見れば周囲は暗いばかりでなく黒く煤けていたのだ。懐中電灯を照らした。幾つもの炭の塊が……ベイト分隊の兵士たちの成れの果てが転がっている。
「騎士! そこヤバイ! こっちに!!」
その声を聞くや否や、エティエンヌは石畳を蹴って中庭へと跳んだ。
火炎が吹き荒れた。
そのオレンジ色にこそ触れずに済んだが、服越しにも痛いほどの熱気を浴びた。回廊に転がっていれば煤塗れどころか煤そのものになっていたかもしれない。
「あれは……何だ……?」
寄宿舎へとつながる曲がり角から、のそりと、巨大なものが移動してきた。夜よりも暗く、闇よりも黒々として……赤い瞳の恐るべき何かが姿を現した。
恐竜だろうか。
映画で見たティラノザウルスに似ている。しかしあれは鶏のようにな二足歩行で、この化け物はトカゲのような四足歩行だ。一歩の度に鉤爪がジャラリと鳴る。
「嘘だろう……まさか……」
化け物はドラムロールのように喉を鳴らし、口の先から舌ではなく火をチラチラと漏らしている。背にはコウモリのような羽が重々しく揺れている。
「神話やおとぎ話でも、あるまいに……」
これまで戦ってきた怪物とは根本から何かが異なる、その荘厳なまでの迫力。
エティエンヌは唾を飲んだ。気圧されていた。
「……ドラゴン、なのか」
呼びかけたわけではなかった。しかし応えられた。
身の竦むような咆哮が放たれて、夜が震えた。