悪魔来たりて・Ⅱ
それは指揮棒か、それとも魔法使いの杖か。
水銀式の体温計が優美に振られている。
自室の狭いベッドで身動きもせず、マリアはそれを見ていた。
「マリア。貴女、生理が止まっているわね?」
モイレインの言葉は確認であって疑問ではなかったから、マリアは頷くよりなかった。
「熱っぽさが続く内は苦しいわよ。とにかく横になっていなさい。あと一月もすれば少しずつ楽になっていくわ。そして出てくるところが出てくるの」
見られている場所をさすった。お腹だ。
「……何も聞かないのですね」
「何も聞くなとお達しを受けてるわ。怖い怖い新十字軍からね」
「修道院はこのことを問題にしない、ということですか?」
「色々と問題はあるわよ? とりあえずここは貴女の個室にするし、感染症の疑いありとかって適当な理由つけて誰も近寄らせないわ。食事は届けるとしても、トイレが近くてよかったわね」
「問題ではなく、秘密にするのですね」
「ま、そういうこと。ちょっと他の子たちには刺激が強いお話だもの」
やれやれと首を振るモイレインには、僅かな深刻さも感じられない。
不死人によって処女のままに妊娠させられたことも、周囲にそれを倫理道徳の欠如と罵られることも、まるで大したことではないという態度だ。
堪らない気持ちが湧き出でて、マリアの口から零れた。
「私は……罪人なのですか?」
「そう思うのなら、そうなのかもしれないわねぇ」
大げさな溜息が吐かれた。
「けれどそれは誰もが同じことよ。人は原初の罪を引き継ぐことで、罪を犯しやすく生まれついているの。ただ一人、無原罪に御宿りした聖母を除いては」
聖母、とマリアは口中に繰り返した。
その呟きが呼び水となったか、泣き叫びたい衝動が喉にまでせり上がってきて……一つの違和感に遮られ留まった。
モイレインが横顔を見せている。何かを面白がるような眼差しを窓の外へ向けて。
「それでも人は救われる。なぜなら、神の子が十字架の裁きを受けたことにより、誰もがその原罪を赦されているのだから……」
それは敬虔なる信徒の言い様だったろうか。言葉だけをたどれば、そうだ。信仰に適う内容だ。
しかしどこかがおかしい。何かが軽々しい。まるで作り物の花びらが風に舞うかのように。
「……とでも言ってほしいのかしら? 違うわよね? それは貴女の望む答えじゃない」
内臓の色をした舌が洩れ出でて、ねっとりと這いうごめいた。
誰だろうか、この女性は。気さくで美しい修道女の姿をそのままに、妖しげな笑みを浮かべる誰かがそこにいる。
「マリア。貴女は誇り高い人間よ。誰に見られずとも行いを清く正しくし、神によらずとも自らを厳しく律することができる。気づいているかしら? 貴女の信仰には怒りがある。聖なるものを疑い、批判し、挑戦するべく心を構えている。敬虔であるよりも先に勇敢なのよ」
朱を引かずとも赤色の唇が言葉を編む。妖艶な声が耳朶をくすぐる。
「そんな貴女は、誰かに姦淫の罪を疑われることなど恐れはしない。不当な弾劾になど屈せず、己の在り様を周囲に示し続けるわ。貴女は貴女によってしか倒れない」
褒められているのだろうか。励まされているのだろうか。嬉しそうな熱弁の先に浮かび上がる人物は、果たして本当に自分のことだろうか。
「ああ……堪らないわ。貴女の罪はその胆力と探求欲よ」
マリアの疑いを察したものか、愉悦にとろけた言葉がやってきた。
「それがために、貴女の目には周囲の人間が浅はかで愚かしく映るのね。どんなにか気配りし、隠し通そうとしたところで、その真情はまるでカインの印のようにして表れているわ。別に今に始まったことではないの。ずっと以前から、貴女は孤高だったのよ」
爪の先まで整えられた白い手が伸びてきて……しかしマリアの頬には触れず戻った。
モイレインであってモイレインでないようなその女性は、窓辺の小机を見ている。そこにはユリの花が可憐な白さを咲かせている。
「神聖さって、何かしらね?」
唾液をすする音がした。あの舌ではと、どこか腑に落ちる。
「特に女のそれはミステリアスだわ。神は最初に男性を創ったというけれど……それはつまり、後に女を創らなければ楽園は完成しなかったということ。そして楽園追放の契機となったのも女……貴女の罪はいずこに由来するのかしらね?」
挑んでいるのだろうか。疑っているのだろうか。
笑いを含んで挑発的な発言のその裏に潜むものは、あるいは怒りではなかろうか。
「堕ろすという手もあるわ」
ゾッとするような響きで、その問いはマリアの耳朶を打った。
「だってそうでしょう? 貴女は望まない妊娠に悶え苦しんでいる。母になる者のようではなしに、母になるべく体調を崩している。それは子を産む覚悟のなさからくる歪みではなくて……もっと憤ろしくて……むしろ貴女の覚悟こそが身体の変容を受け入れず、心の変容を抑え込んでいる」
その声は震えている。それはどこか煮え立つ湯を思わせる。
「聖なる文言が中絶を否定していても、貴女には関係がない」
確信に満ちた声で断じてくる。
「マリア。貴女は聖なるものを聖なるままに受け取ることができない人間なのよ」
剥き出しの感情が双眸に燃えている。
憤激と興奮とがない交ぜになったそれは……どこか肉食獣の牙剥く姿に似て……狂おしい。
「貴女は全てを批判する。理性のナイフで解剖することなしにはいかなる糧も口に入れない。鵜呑みにしない。考察と検証を経ずしては納得しない。そうすることで神秘と聖性とを剥奪するの。冷徹で情状を酌量しない奇跡調査官のように」
責められているのだろうか。それとも励まされているのだろうか。
判別は難しく、ただ一つのことばかりが理屈抜きに思い知らされている。
「知恵の実を齧った者の悲哀とでもいえばいいのかしらね。それが今、貴女を苦しめる方向に作用している……」
危険だ。目の前で激情に駆られている女性はとても危険な存在だ。人間としての常識を全て弁えたその上で、それらを躊躇なしに踏み躙ることができる。そうとわかる。
「気づいていて? 時間は今、貴女の敵よ?」
裂けていくように唇を笑みにして、その狂える女は言葉を放ってくる。
「状況は刻一刻と切迫していくの。貴女の子宮に眠る者は、鼓動を重ねるその度に成長していくのだから。貴女を母親へと追いやっていくのだから」
感に堪えないとばかりに吐息して、その危うい女は言葉を重ねてくる。
「さあ……どうするのかしら? マリア。マリア・ライミス。貴女は堕胎を望むの?」
問われども答えられない。未だ答えを所持していない。それでも答えねばならない。沈黙し項垂れることは惨めだ。自分一人のことならばそれでもいいが。
自分はマリア・ライミスなのだ。
父と母の間に誕生し、名付けられ、愛されて、今ここに生きている。一挙手一投足が、空気を吸うことと吐くことが、心臓の拍動が……全てが父と母とがこの世界に存在した証なのだ。
どうして恐ろしいものを前にして惨めを晒せるだろうか。
どうして命の尊厳を……銃弾の一発などでは貶められるものではないそれを、自ら否定することなどできようか。
「……望みません」
そう答えていた。
言葉が心をけん引していく。己を導くものは己であるとばかりに。
「確かに、私は望まない妊娠をしています。全く身に覚えはありませんし、子を産み育てたいと願ったことすらありません……気味の悪いものに寄生されたとすら、感じています」
意識することすら憚っていた真情を吐露した。
己を偽って立ち向かえる相手ではないからだ。妖しい言動の裏には老獪さが感じられて、それは目の前の女性が見た目通りの年齢ではないことを徐々に確信させつつある。
「ウフフ……ならどうして堕胎を望まないのかしら? 信仰の道においては咎められる行為かもしれないけれど、一人の女性としては当然の権利なのではなくて?」
権利、という言葉が甘く響いた。
それでも首を振って否定した。甘えを振り払うようにして。
「……私は誰の命も否定しません。たとえ私の命を否定されようともです」
それは一つの覚悟だった。そうあるべきだと信じた言葉だった。
「ですから、堕ろすことはしません……してはならないのです」
しかし、視界は涙に歪んでいた。身体は震えていた。理性が編んだ結論を、突き上げ焼き焦がす衝動があるからだ。
何でこんなことに! 何で私ばかりが! 何で、何でこんな目にあっている!
未だ暴走し続ける感情があった。それは熱病にも似た体調不良と生理的嫌悪感とを伴っている。抑えつけども鎮まらず、今も自分の内側で荒れ狂っている。
「……周りが堕ろさせてくれないからではなく?」
「関係、ありません」
「博愛の精神をもって望まぬ母親業もやってみせようということかしら?」
「……あるいは、そういうことにもなるのかも、しれません」
「模範解答のように聞こえるけれど……そう答えなければいけないって、考えていない?」
「……これは、私の意思です」
「そうかしら? 本当にそうなのかしら? 無理をしているだけじゃないかしら?」
「無理を……無理をしないで……それでできることなんて……!」
それはマリアの怒りに火を着ける言葉だった。
さもあらん、難民として無理と無体に晒されてきた半生である。故郷を失い、両親を失い、今また性にまつわる掛け替えのないものを失おうとしている。
マリアは眼前の挑発者を怒鳴りつけようとして……しかしできなかった。
心の叫びを押し潰して胃の中身が逆流してきたからだ。前のめりになって嘔吐した。呼吸ができない。身体は硬直する。視界は真っ暗だ。
吐くものを吐き、とにかくも酸素を求めて……気づけば背をさすられていた。
「ごめんなさい。無理をさせちゃったわね」
シーツは汚れていなかった。洗面器が移動し、視界から消えていった。
顔を上げると、そこにはいつものモイレインがいた。たおやかに微笑んでいる。
「頑張る子は好き……大好き」
優しくも焦がれるような、その声。
「でもね、独りで頑張り続けることはとても悲しいわ。気高く在ることは高峰の頂に似ているの。そこは風が強く吹く……ひどく寒く、乾いて、削られて……」
言葉尻に切なさを薫らせて……モイレインはマリアへ背を向けた。
「あ……」
異物感の残る喉を押さえ、マリアは声を発していた。
モイレインは肩越しに振り返った。
「何かあればその呼び鈴を鳴らしなさいな。遠慮は無用よ? 私でなくとも誰かが来るわ。まあ、運が悪いと不愛想な金髪猫が来るかもしれないけれど……エティエンヌとかいうのが」
片目を閉じてそんなことを言うから、マリアは少し笑った。
あの軍人が猫ならば、倒れるたび彼女に運ばれる自分は子猫だろうか。それとも魚だろうか。
どうしてか下らない連想が止まらず、じわじわと笑いの発作が強まった。ツボにはまったのだ。激しい情動変化の末に思わぬところへ着地した形だ。
「また様子を見に来るわ。御身健やかにね……聖母」
制御し難い笑いの発作に襲われていたから、マリアはそれを聞き損ねた。
モイレインが去り際に呟いた言葉を、ただその笑顔から内容を推察して、会釈するのが精一杯だった。
◆◆◆
騎士たる身であれど、配膳係を立候補したことに何の後悔も卑屈もない。
しかし……一体、どんな顔をして会えばいいのだろうか。
エティエンヌは夕食の乗ったトレイを片手持ちし、常ならぬ歩みの遅さで回廊を行く。夕暮れに照らされる修道院の様子をつらつらと観察し、今更ながらその古めかしさを発見した。
「まるで中世の砦だな……」
狭く暗い階段を登る。質素倹約を体現しているかのような住環境に今は眉を顰めた。狭さは防衛戦に適しているかもしれない。しかし照明が足りない。夜襲に対応しづらい。
「……護衛、か」
二階に上がり、廊下の奥に目的地を見定めて……エティエンヌは吐息した。
「本当に難しい任務だ……本当に……」
十数秒は立ち尽くしていたろうか。もう一度息を吐くと、エティエンヌは大股で突き当りにまで進んだ。一つの扉に向かい合う。
「マリア。入るぞ」
ノックをするなり扉を開けた。
簡素な部屋に西日の差して、ベッドに半身を起こし祈る少女を赤々と染めている。
「食事を持ってきた」
トレイをテーブルに置く。ガシャリと鳴ったことはいかにも失敗だった。皿やフォークの位置を整えつつ用意していた言葉を連ねた。
「食べられるものだけ食べて、受け付けないものは残すといい。厨房のお薦めはトマトだそうだ。希望があればもう一つでも二つでも持ってくる。あとこれは同僚から聞いた話なんだが、とにかく寝られる時に寝ることが大事だそうだ。何というか、こういうことに妙に詳しいというか耳年増というか……」
「エティエンヌ」
「ん? ああ、余計な話だったな。後でまた食器を回収にくるから、まあ、とにかく少しでも食べておくことだ。何かあれば呼び鈴を鳴らせ。また倒れるようなことになっても大変だからな」
「エティエンヌ、私を見てください」
そう言われてはそのままに退室もできない。エティエンヌは長めの瞬きを一度し、この部屋に入って初めてマリアの顔を見た。
ベッドの上で背筋を伸ばし、彼女はこちらを見ている。
夕暮れの赤の中にも赤い瞳が、眼光を鋭くしている。
「……そういう、顔ですか。そういう風に私を見るのですか。他ならぬ貴女が」
マリアの目には怒りがあった。それは烈火にも似る。
エティエンヌはその火色の中に映る己を思い、さもあらんとどこか他人事のように考えていた。
人は誰しも蔑まれ嫌悪されれば憤るものだ。
どう取り繕ったところで、今、自分がマリアを汚らしいものを見るようにしていることをエティエンヌは自覚していた。
おぞましい。
スカイウォーカーに由来する何かを腹に宿した女を前にして、そう感じずにはいられない。それが全てではないにしろ、確かにあるその感情を隠し切れてはいまい。
「……同情はしている」
マリアの頬のこけた顔を見やって、エティエンヌは吐息した。
任務は任務であり、新十字軍の大義は揺らがない。しかし目の前の少女は被害者でしかないのだ。
彼女の日常は『受胎告知』によって壊されてしまった。彼女の子宮には確かに子が宿っている。処女のままに、何かをされた自覚もなしにだ。
そこにスカイウォーカーによる犯罪行為があったことは疑いようもないが、真実が極秘のものとされた時、どう誤魔化したところでマリアは不義の子を孕んだ少女としか周囲の目に映るまい。
もう今までのように生活することは叶わない……そしてそれを新十字軍は黙認している。
「同情……ですか。それは私の体調についてではないのでしょうね」
「それも不憫に思っている。非常識を極めた災難に見舞われて、自分の思い描いていた日々を奪われたんだ。せめて身体の自由が利けばまだしも何か発散できたろうに、そんなでは嫌な思いに囚われるばかりだろう」
「エティエンヌ……貴女は私を、何かの犯罪被害者のように語っていませんか?」
「気に障ったのなら謝る。しかし……」
強姦されたようなものだろう、という言葉は口に出さなかった。
ただでさえ不埒な犯罪行為であるのに、その加害者がよりにもよっている。背徳感もひとしおだ。さりとていちいち言葉にすることでマリアを傷つけることは避けたかった。
「……安心していい。新十字軍はお前をスカイウォーカーから護るべく修道士中隊を動かした。火器小隊も含む強力な部隊だ。雲上カタコンペの監視も強化されている。もう一度あの翼の男が姿を現したなら、今度は地面を踏ませることもなく撃退できるだろう」
途中までは事実を述べ、最後には敢えて楽観的な意見を添えた。マリアの不安を少しでも取り除くためだ。エティエンヌなりの気遣いである。
だからだろうか。
マリアのその言葉を看過できなかった。
「……待て、マリア」
エティエンヌの説明に何ら感銘を受ける様子もなく、そっと呟かれたそれを。
「お前……今……何と言った?」
聞き違いであればいいと思った。
「できもしないことを、と言いました」
「それは、どういう、意味だ」
「言葉のままの意味です。貴女たちはきっと何もできません……いえ、何もしないというべきでしょうか」
「私の言葉を信用せず……新十字軍を信頼していないということか」
マリアの浮かべた微笑み。
その意味は嘲りか。諦めか。それともそれら両方か。
「私の目に映る貴女たちは、不死人の仲間だということです」
「何だと……!」
「何を語らい何をお互いの利益としているのかはわかりませんが……少なくとも私の尊厳を好き勝手にするという点で貴女たちと不死人とは協調しています。よほどに仲がよろしいのでしょうね」
あれが天使のような外見をしているからでしょうか、と付け加えてマリアは溜息など吐いた。
エティエンヌは左手で右手首を握り締めた。
「発言を撤回するなり……訂正するなり、しろ。スカイウォーカーは……空に巣食う不死人は……人類に仇為すゾンビだ。駆逐するべき存在でしかない」
「ゾンビ……あれがゾンビですか。あのように翼を生やして」
「見た目など……!」
「雲上カタコンペ……あれを人の目に見えるまでに近づいた天国とでも考えているのでしょうか」
「……おい。正気か?」
ガタリと大きな音がして、エティエンヌは自分が一歩二歩とマリアへ近づいていたことを知った。卓を膝蹴りされたことで、トレイの中にスープが洩れた。
「お前は講義を受けているはずだ。ゾンビ禍を……スカイウォーカーの悪を知らないとは言わせないぞ。奴らの持ち込んだ『不死』がいかに害悪かを。そして我ら新十字軍がいかにしてその悪と戦っているのかを」
「……貴女たちがゾンビ禍を呼ぶそれは、片方の見解ともいえます。雲の上ではどのように捉えられ、語られているのでしょうか」
「ゾンビ禍はゾンビ禍だ! 戦争を……旧世界を滅ぼしかねなかった災禍を! 下らない喧嘩や何かのように語るな!!」
震える拳をトレイへ叩きつけた。トマトが転げ落ちて床に水音を立てた。
「卑しいぞ、マリア。それともおこがましいのか」
声も震える。怒鳴らないためには努力を要する。
「確かに、あの男は神秘的な雰囲気の中に舞い降りてきた。私も気圧されたほどだ。だが、それだけだ……それ以上であってたまるものか!」
拳に力が入っていて抜けない。みなぎる力に腕が震えている。
「天使の姿を模倣したとて、スカイウォーカーはスカイウォーカーでしかない! 私は、あの男を特別な存在と思い込まされやしない……自分を特別な存在と過信しないように!」
「……私が、彼の存在に魅入られ、自身を特別視していると?」
「ああ、そうだ。悲劇のヒロイン気取りはやめることだ。同情はするが、お前が世界で一番に不幸な人間というわけではないぞ。奴らとの戦いで、これまで何人が死んだと思う。今もどれだけの人間が命を賭して戦っていると思う」
「そう……貴女はそういう風に考えるのですね。銃を取り戦う者こそが不幸に抗う勇者であり、銃後に生活する者は総じて弱く臆病な存在であると」
「事実だ。だから新十字軍は世界を指導する立場にある」
「まるで悲劇のヒーロー気取りですね」
「何だと! 貴様!!」
胸倉を掴もうとしたその手を止め、エティエンヌはその場を飛び退いた。周囲を確認する。手は腰の銃に触れている。
今、自分は何者かに照準された。
冷たい汗を感じながらも、エティエンヌはそう確信していた。全くの勘だ。前後の理屈はない。しかしこの勘働きがあってこそ、今日の日まで戦ってこられたのだ。
この部屋には自分とマリア以外の誰も存在しない。
ただ、一輪の白いユリだけが首をかしげるようにして僅かに揺れている。
「私は突然に身籠りました。このあり得ざる現象は……何?」
マリアの声がする。抑揚がなく、どこかゾッとする声音だ。
今は聞いている場合ではないが、言わずにはいられない。
「そういう未知の技術があるのだろう。スカイウォーカーには」
「主が共に……とは? それではまるで……」
「勘違いするな! 奇跡は容易く起きないからこそ、奇跡という!」
「それでも起こると知っていて……それで、貴女たちは私を監視していたのでしょう?」
言い返せない。エティエンヌには反論のしようもなかった。
思い出されるのはピガール・ノワ銀騎長の言葉だ。
「マリア・ライミスを側近くで護衛し、彼女とスカイウォーカーとの対話を無事に成功させるのだ。それが彼らの執着心をより強いものとし、我々の計略をより効果的で決定的なものとするだろう」
「万難を排し、万事つつがなくなさしめよ!」
それら命令の意味を……果たして自分は深く考えたことがあったろうか。ノワ銀騎長は、一体何を意図して、そのような特務を命じたのだろうか。
言葉に詰まったエティエンヌを追求する言葉はなかった。
マリアは再び祈りの姿勢をとっている。もう話すことはないという意思が示されている。
白いシーツの半身を起こし、暮れなずむ赤色の中で手を組み指を組むマリアのその姿は……忌々しくも聖母を思わせてならない。
エティエンヌは目を逸らした。部屋の隅にわだかまる影を見る。
「……堕ろした方がいい」
気づけばそう発言していた。苦々しいものを吐き捨てるようにして。
「そんな得体の知れない赤子……産んでどうする気だ。忌まわしいだけだろうに」
命令違反の発言だった。新十字軍はマリアの妊娠と出産を全面的にバックアップする方針なのだから。そのためにこそ、貴重な兵力を投入しているのだから。
「エティエンヌ……エティエンヌ・ロワトフェルド」
その声。振り向かざるをえない力を帯びて。
祈る姿勢はそのままに、マリアがエティエンヌを見据えていた。静かな静かな表情だ。赤い瞳が冷たく透き通っている。激情を秘めて深々と凪いでいる。
「貴女は不死を罵ったその口で、誕生をも否定するのですね」
凍てつくような口調だった。
「何て浅ましい……!」
それ以上、互いに言葉を交わすことはなかった。
エティエンヌは己の任務の困難さを、心から嘆いた。嫌悪し、嫌悪されてなお、この不憫なるマリアを護りたかったからである。