恵まれた人・Ⅳ
「ねぇ、聞いた? また出たらしいわよ、吸血王子様。今度は隣村だって!」
「なんだよ隣村かよー。いい男は皆してここを避けるよなー。若者の女性比率やばくない?」
「この際、吸血鬼でもスカイウォーカーでも何でもいいから、美男子と出会いたいよねー」
「あんまり暑苦しくないやつね。熱弁とか、そういうのしない人でよろしく」
放課後の教室は姦しい。
どういうわけか任務に付随して義務付けられている聖書の写本をキリのいいところまで終えて、エティエンヌは立ち上がった。荒々しい物音が僅かに静寂を招くも、鋭敏な聴覚は密やかな会話でも拾い集める。それは兵士として誇るべき能力ではあるのだが。
「うわ、怖……何であの人いっつも怒ってるの?」
「何かずっと聖書開いてるよね……授業中も、全然話聞かないで」
「誰も注意しないんだよね。修道女なんて、逆に物凄く気を遣ってるっぽいし」
「見た目はカッコイイんだけどね……名前も男の子っぽいし」
エティエンヌは靴音を強くして廊下へと出た。
中庭を囲う回廊となっているそこは、アーチ型の窓こそ宗教的で神秘的な雰囲気があるものの、ガラスは入っていないため吹きさらしだ。小雨が霧のように煙っている。
「……こっちはこっちで、か」
舌打ちし、エティエンヌは中庭へと歩を進めた。
濡れた芝生の先には一人の少女が立ち尽くしている。花壇を見下ろしているのだろうか。凛と伸びたその背へは長い黒髪がしっとりと垂れて……どこか触れ難い静けさだ。
怒鳴らんと開けた口で空気を噛み、エティエンヌは少女の側にまで寄った。
「マリア、こんなところで何をしている」
「花を見ています」
にべもない即答だった。
「そんなことは見ればわかる」
「ならばどうして聞くのですか?」
マリアがゆっくりと振り向いた。ルビー色の瞳は瞬きもしない。
「傘ぐらいさせばいいと……そう思ったからだ」
「花と同じように濡れてみたいと、そう思いました」
「馬鹿なことを。風邪をひくだけだ」
吐き捨てるように言って、エティエンヌは視線を逸らした。
教室の戸口からこちらを覗き見ている顔が幾つかある。ピーチクパーチクとさえずる者たちを思えば眉根も寄る。
「屋根のあるところへ入れ、マリア。こんなところにいるな」
「こんなところ……貴女が口にしていい言葉とは思えません」
「私は雨に濡れる趣味などない。そら、行け」
「それは命令ですか?」
「ごねるな。私は当たり前のことしか言っていない」
「貴女の『当たり前』は槍のようですね。突きつけて、突き放します」
「いいから早くしろ」
問答など面倒でしかなかった。
マリア・ライミス。年齢はエティエンヌと同じ十七歳だ。
孤児院へ入る前はどこか東の方から流れて来たらしい。一時は聖別防疫病院の預かりになっていたというのだから、恐らくは疫病か何かで故郷を失った口だろう。よくある話だ。
「急かす様は難民に接する憲兵のようです」
「私は難しいことなど一切言っていない……普通にしていればいいんだ、普通に」
頭痛すら感じて、エティエンヌは額を押さえた。
新十字軍の騎士に叙任されて一年、最も困難な任務に就いているのかもしれない。修道士時代を振り返ってもこれほどの難儀はなかった。
マリア・ライミスを監視し、その身につつがなきよう護衛せよ。
ただのそれだけの命令がどうしてこんなにも……。
「籠の鳥は大人しく籠の中にいろということですね」
同意しかけて、エティエンヌは慌ててマリアの顔を見た。
「貴女は新十字軍の軍人なのでしょう?」
否定も肯定もできなかった。下手な誤魔化しが通じるとも思えなかった。
「……ここの女子修道院は新十字軍に協力的だ」
「そうですね。そして私はここより他へ出る自由がありません。修道女になることを求められているのだとばかり考えていましたが……貴女が来ました」
火を秘めるかのような双眸がエティエンヌを見据えている。
「エティエンヌ、貴女は私に言いましたね? 名前で呼び合おうと。共に学ぶことになるからよろしく頼むと」
「……それがどうしたというんだ」
「友達に、なろう」
力の入った発音でマリアは言った。
「……そういう呼びかけであると、私は受け止めていました。だからこそ、貴女が何かにつけ私の側にいることも受け入れましたし、貴女の言葉をしっかりと聞いて心からの言葉を返しました。私は貴女の誠実な友であろうとしたのです」
思わず半歩退き、そうした自分にエティエンヌは驚いた。
「貴女は、私を嫌っています」
責められた気はしなかったが、弁明の余地を与えられていなかった。
「それだけではありません。貴女はここにいることが不本意で堪らないのです。そしてその心情を少しも隠そうとしません。高慢な刺々しさで周囲を威圧し、見下しています」
半歩開いた距離が一歩で詰められた。
真正面のマリアが、言った。
「私を見てください。嫌うのならばいい加減にせず、しっかりと私という人間を嫌うべきです」
「何の話だ……馬鹿馬鹿しい」
「貴女はすぐにそうやって目を背けます。そうして、私を見ずに私の名を呼び、蔑むのです」
「いい加減にしろ。ヒステリーにつきあう気はない」
「迷惑そうな顔をして……自分が周囲へかけている迷惑のことをわかろうともしないで……そうやって貴女は不貞腐れているのです」
「いい加減にしろと言っている!」
怒鳴りつけ、睨みつけた。手加減なしの恫喝だった。
マリアは下がらなかった。唇を噛みしめ、睨み返してくる。
「吠えて……牙を剥く。何て暴力的な……」
呟かれたその声は震えていたから、エティエンヌは僅かにだが申し訳なく思った。目の前の相手はか弱いからだ。護衛対象を脅かす己の不甲斐無くも感じた。たとえ不本意な任務とはいえ。
しかし、次に聞こえてきた言葉で全てを忘れた。
「……まるで怪物です」
手が出ていた。
エティエンヌはマリアの細い肩を鷲掴みにしていた。
「……発言を撤回しろ、貴様……」
「配慮を欠いて過ごす貴女に何を言う資格があるのですか」
「訳のわかららない理屈を!」
「他者への愛と思いやりを持たずにどうして人間を名乗れるでしょうか。貴女は考え違いをしています。独善をもって周囲を睥睨する者の末路など知れているというのに」
「私以外が私を語るな!」
思わず振り上げた拳が強固な何かに捕らわれた。
エティエンヌの心は即座に冷えた。強い。掴まれた手首を振りほどけない。それでもと身をひねったところで、急に手首を解放された。
白シャツの大男が立っていた。褐色の肌、大きな手、隆々たる筋骨……男臭いその顔には満面の笑みを浮かべている。
「おお、しまった! これは失態だ! あんまり情熱的であったから、うら若き乙女の手に許可なく触れてしまった! その結果、二人の仲睦まじきひと時を邪魔しまうとは!」
大男は身振り手振りも激しく天を仰ぐ。
そこへ雷の一つでも落ちればいいとエティエンヌは思った。
しかし実際にはその逆なのだから腹立たしい。俄かに小雨が止んだではないか。空には晴れ間すら覗いている。
「御機嫌よう、メタコム先生」
「やあ、マリア君。君は雨に濡れても実に美しい!」
マリアの挨拶に対して大男……農業顧問メタコムは満足げに頷いた。そしてすぐにも大げさに首を振った。
「しかし、だ。いけない。いけないなぁマリア君。女性が身体を冷やしていいことなど何一つとしてないのだよ? まずはこれを進呈しよう。是非とも温かくしたまえ。君は草花とは違い土に半身を浸していないのだからね」
メタコムはバスタオルを差し出した。これもまた鮮やかなまでに白い。
「傘を持たずにタオルだけを持参したのか……非常識な」
「はっはっは、エティエンヌ君。勉学を不得意とする君は、気象学を学ぶよりもまずは空を見上げる習慣を身につけるといい。一か月もすれば雲の晴れる予兆がわかるようになるだろう。心もまた晴れるぞ? 青空とは常なる奇跡だ。そら、今も仰ぐものを祝福している!」
神よ! いるものならば今こそ落雷の奇跡を発現してみせろ!
エティエンヌの心の叫びを知りもしないで、メタコムは諸手を広げて日差しを浴びているし、タオルをフードのようにしたマリアもまた同様に陽光を振り仰いでいる。
「綺麗ですね……」
「うむ。心震えるな……」
これは何の茶番だろうか。
エティエンヌは忌々しさに舌打ちした。すぐにも立ち去りたいが、それはできない。
マリアが誰であれ男性と会う場面には必ず立ち会うべし。
任務における注意事項が行動の自由を縛っている。
「マリア君は花を見ていたのかな?」
「はい、先生。根差すもののない私であればこそ、風雨にも咲く花の在り様に心惹かれます」
「花には花の、人には人のやり方があるさ。奇跡を信じ、神聖なるものと出会う準備をする……そのこと自体は変わらずともな。一つご教授しよう」
メタコムが花壇へ膝をついた。大きな身体を縮こめて何事かゴソゴソと作業している。
「さ、これを差し上げよう」
褐色の肌に映えて白色の、大きな手に持たれたおやかな……それは一輪のユリの花だ。
「美しく咲いたものを……よろしいのですか?」
「花瓶に挿し、日夜手入れをしたまえ。そしてその度に花の美しさと出会うのだ。君が独占することになった美に……奇跡に、日々新たなる敬虔さを捧げて」
気障と罵りたかったが、エティエンヌは心中にもそれができなかった。
美しかったからだ。
白シャツが泥に汚れることも厭わなかった褐色の大男が、立ち上がることもせず白花を献じる。白いタオルをフードのようにして、見目麗しい少女が静々とそれを受け取る。
光芒は降りて二人を照らし、雨露をまとう緑もまた輝いて二人を寿いでいるかのようだ。
荘厳ですらあった。一枚の宗教画のような光景であった。
だから……エティエンヌは瞼を閉じた。立ち去れない身にも許された唯一の手段で、一人分の闇の中へと退避したのである。
「……白々しい。今更」
誰にともなく呟き、エティエンヌは改めてこの任務の難しさを痛感していた。
マリアの近くに侍り、彼女を護らなければならない。
しかし側に寄れば寄るほどに、人となりを知れば知るほどに、何か心がささくれ立って落ち着かなくなるのだ。護衛対象として突き放した距離を保てないのだ。
今しがたにしてもそうだ。
無力な彼女に対して自分は何をしようとした?
己の右手を左手で強くつかんで……エティエンヌは自分の心を疑った。
◆◆◆
クラリスはまず自分の目を疑った。
眼前には天板に革張りの施された重厚な机があって、機密指定の印も赤々と数枚の資料が並べられている。それらを再確認する。
貼付された写真には黒髪赤眼の少女が映っている。
彼女の名はマリア・ライミス。
敬虔な信徒でありながらも霊名を持たない。それを持たせない方針であるという。孤児院育ちの元難民で身寄りはない。身辺整頓済み、という言葉の持つ意味を思う。交友関係も希薄と記されている。性交渉は未経験であるとやたらに強調されている。
瞬きを繰り返してもそれらは消えず、凝視すれども内容は変わらなかった。
次いで、クラリスは自分の耳を疑うことにした。
「申し訳ありません……もう一度仰っていただけないでしょうか。銀騎長」
資料を示した者に……豪奢な椅子に座る上司ピガール・ノワに問う。軍の英雄とはかくやという風貌の偉丈夫は、今しがた、何と言ったろうか。
「俄には信じがたい内容だったかな? ではもう一度言おう」
目を閉じ、力強いその声に聴き入る。
「我々の宿敵が……スカイウォーカーが地上に現れる。正確な日時は不明だが、近々であることは確かだ。出現する場所も判明している。エティエンヌの潜入している例の女子修道院だ」
やはり、聞き違いではない。
「先にも言った通り、奴らの目的も知れている。このマリアという娘……新十字軍が重要保護対象としてきた人間に接触するためだ。特に何をするでもなく、ただ話しかけるためだけに雲上くんだりから降りてくる。彼らにとっての大事のためにな」
生贄、という言葉が脳裏をよぎった。
生餌、という方がより正確なのかもしれないが。
「……と、ここまでのところをまずは納得してほしい。驚くのも無理からぬ話ではあるのだが」
頷く。耳が聞こえている以上、最後に疑うべきものを思う。
「よろしい。続けよう」
新十字軍第四位の地位にある男が、満足げに微笑んでいる。
己の正気と上司の正気……そのどちらを疑うべきか。
「論じるまでもなく、これは得難き機会だ。遠く眺めやることしかできなかった存在が我らのテリトリーにやって来るのだからな。まずは情報収集が優先されるが……あらゆる事態に備え、万全の準備を整えなければならない。既に『百人隊』を含む三個大隊が戦闘準備に入っている。国家憲兵隊の協力も取り付けた」
あるいは新十字軍という組織そのものが狂ったのだろうか。
元は国際連合の防疫隊でしかなかったはずの対ゾンビ組織が、今、一人の罪なき少女を利用して軍事作戦を行おうとしている。
「戦争……ですか?」
「まだ引き金を引く段階ではない。しかしこれが戦争であることなど今更な話だろう? 我々はゾンビ禍以降も戦い続けているではないか」
「……怪物とは。しかしスカイウォーカーとの交戦記録はありません」
「おや、これは一つ勘違いをしていた。君はゾンビ懐疑派だったのか。調査の専門家とはいえゾンビ狩りを知らぬわけでもあるまいに」
「ゾンビ、ですか……怪物に類するものと理解しています。とても衛星軌道上に巨大建造物を建築できる存在とは思えません」
「ああ、なるほど。そういうことか。単純にして明快な誤解が生じているな」
目を細めて笑うから、却って瞳の奥の真意が見えない。
「ゾンビ……不死人……即ちウォーカーには二種がいる。空に属する者か、地に属する者かのな。前者、雲上カタコンペに住まう上等の彼らのことをスカイウォーカーという。そして後者、人間社会に紛れ込んでいる下等な奴らのことをランドウォーカーというのだ」
ひどく優しげな口調だ。まるで、当たり前のことも知らない童子に物を教えるかのようだ。
「確かに、ゾンビ禍以降の戦果の中にスカイウォーカーは存在しない。しかしランドウォーカーならばそれなりの数を狩っている。我々にもノウハウがあるのだよ。ウォーカーの滅ぼし方にしろ、活用の仕方にしろ……な」
手に金飾りの懐中電灯を弄びながら、そんなことを言う。
懐中電灯……それは、照らすものか? それとも、あるいは……。
「スカイウォーカーを恐れる気持ちはわかる。雲上カタコンペは彼我の科学力の差を否応なしに見せつけてくるからな。しかし、それが戦わずともいい理由にはならん。信仰とはそういうものだ」
信仰と戦争……二つが混じり合うことで生じるものを思えば、狂気もまた説明できようか。
しかし、目の前の男にそれを認められるだろうか。
精気に満ち満ち、豪奢な執務室にトレーニングマシーンなどを設置する男に、狂信をなど。
「……エティエンヌは、このことを知っているのですか?」
「いや、まだだ。この後知らせるつもりだ。本来ならば一介の騎士が知り得ることではないのだが、現場の人間が知らないとなれば混乱するからな」
「混乱……彼女はスカイウォーカーを憎悪していますが……」
「心配性だな。あれは優秀な戦士であり、忠実な軍人であり、名誉ある騎士だ。命令の遂行を最優先させるとも。兄に似て思い詰めるところも見受けられるが……」
ピガールは笑顔だ。
親友の妹であり目をかけている部下を語る表情としてはそれが当然なのかもしれないが、どうしてかクラリスにはそれが怖かった。
「『エティエンヌ』は立派に役割を果たすだろう。表の札としてな」
「……それで、ああも目立たせているのですか」
「ハッハッハ、想定以上に目立っているそうだな。誰もが好むと好まざるとに関わらず必要な仕事をしっかりとこなしているということだ」
ピガールはそう言って手の平を向けてきた。
そうやって指し示されたものを……見ないようにしていたものを、見る。机の上、ビロードに包まれて鈍く銀色の光を宿すものを。
「では、改めて命じよう。上級騎士クリストファー」
手に取らずとも、銀十字の階級章は既に効力を発揮しているらしい。
「君は裏の札として密かにマリアを監視せよ。そしてその透視能力をもってスカイウォーカーを探るのだ。修道士を一人サポートにつける。彼以外の誰にもその存在を知られぬよう注意せよ」
エティエンヌへの隠し事をまた一つ数えて、クラリスは眉根を寄せた。
目の前では上司たるピガール・ノアが満足げな笑みを浮かべている。
「新十字軍は君を信頼し、期待している。頼んだぞ」
敬礼をするより他に、クラリスのできることはなかった。