生きて在る者たち・Ⅲ
空に灰色がよどむ、気だるい昼下がりのことだった。
遠くで誰かが叫んだ。悲鳴がいくつも上がった。拡声器が不快な音を立てた。何だろうかと目を向ける前から、シャルルの胸はざわめいていたが。
その嫌な予感の通りに、群衆が迫り来たのである。
「シャルル、巻き込まれたら……!」
手を伸ばしてきたヴァレンティンを、次の瞬間には見失っていた。まるで人の津波だ。立っていては突き飛ばされる。転げてしまったら、踏み殺されるかもしれない。後から後から人が駆けてくる。発砲音がそれに拍車をかけた。
「どけ! 邪魔だ!」
乱暴に押し退けられた。男は必死な形相だ。
「ゾンビだ! ゾンビが出やがった!!」
周囲をギョッとさせたその発言が、かえってシャルルの足を止めた。
振り返る。逃げ惑う人々の向こう側に目を凝らす。いるのか。そこに本当にモンスターがいるというのか。
押し寄せる人波にシャルルは抗う。拳を握った。苛立たしかった。
どいつもこいつも、うるさいと思うからだ。死だの不死だのと、命を軽々しいものにして。破滅だの救済だのと、大仰に人心を煽って。
誰かにひじ打ちされ、誰かへ蹴り返したその時に、シャルルは見た。四つん這いになった大男……その背は服が裂けている。赤黒い瘤とも角とも知れない何かが、恐竜の背びれよろしく覗いている。
吠えるや、手近な人間に跳びかかった。若い男女が諸共に組み伏せられた。絶叫を押し潰すような腕力と怒号。獣のような暴力。
殺人だ。今まさに命が奪われようとしている。
そう理解するや、シャルルは息を呑んだ。一気に周囲の音が遠のいた。耳には鼓動が脈打つばかりだ。色も失われた。砂嵐に巻き込まれたような視界の先で、道路に広がる鮮血だけが赤々と見て取れる。
その色彩を見据えたままシャルルは懐へ手をやった。冷たく硬いものに触れた。
なお流れに逆らう。太った男や、老人や、子どもとぶつかりそうになった。どの顔も恐怖で醜く歪んでおり、同時に、シャルルのことを信じ難い愚か者を見る目で凝視していった。
シャルルは口の端を歪めた。無性に馬鹿馬鹿しくなったのだ。
あの殺されつつある男女と、他の逃げ延びた人間との間には、運の有無しか差がない。生き方の善悪や生きる力の強弱といったものがない。
口惜しさとともにシャルルの脳裏に想起されるのは、家族のことである。姉は無念の死を遂げた。殺された疑いもある。姪は生まれながらに死につつある。こうしている間にも生きる望みを断たれようとしている。
神の意思は是か非か。
いかなる審判もなく、ただ生と死がいい加減に転がっているではないか。
「ふざけてる、こんなのは……!」
もはや遮るもののないところまで来て、シャルルは拳銃を構えた。両足を開き、両腕を突き出して、銃口を化物へと向けた。トリガーに指をかける。
目が、合った。化物とだ。
血走った双眸はいかにも獰猛なようでいて、見ればわずかに揺れている。不安と緊張が感じられる。銃を銃として認識しているように思われた。
奥歯を噛んだ。トリガーが重い。全力をもってしても、引けない。撃てない。
発砲すれば自他の命を左右するであろう、一発の弾丸。
何口径だかは知らないが、小指の先ほどのちっぽけなそれが……それのごときが……はたして命の価値と釣り合うものなのだろうか。そんなことがあっていいのだろうか。
「撃て!」
誰かに命じられた。しかしシャルルは撃たなかった。それなのに銃撃音が連鎖する。幾つもの弾丸が化物へ襲いかかる。血と肉が飛び散る。
「おい、何やってんだ!」
誰かに首を抱えられた。銃ごと抱き込まれた。硝煙とは別の、煙草の匂いが鼻をくすぐる。グイグイと引っぱられ、気づけば群衆の中へ紛れ込んでいた。
「まったく、どこの無鉄砲かと思えばお前なんだからなあ」
ギャバンだった。そういえばトゥールーズの警察署に勤務していたのだと、シャルルは回らない頭で考えた。
「ゾンビ……化物が」
「新十字軍が出張っている。あれくらいならすぐに退治するさ」
「あれくらいって、そんな、襲われた人が」
「この人だかりだ。犠牲者の一人や二人は出るだろうがな」
言われる間にも銃声は止んだ。喧騒が戻り来たから、シャルルは顔を顰めた。頭痛と耳鳴りがひどい。手が、拳銃のグリップから離れやしない。
「どこでそんなもんを手に入れたのか知らんが、やめておけ。ぶっぱなしたところで気分の晴れるもんじゃねえし、ろくなことにもなりゃしねえ」
うながされても銃を手放せない。まるで張り付いたように、手が、グリップを握りしめているのだ。心は、グリップの内側に詰め込まれているであろう弾丸を意識している。
シャルルはうめき声を聞いた。自分の口から洩れていた。腕とは裏腹に、脚には力が入らない。
「落ち着け。しっかり息を吸って、ゆっくり吐け。大丈夫だ。お前がそんなもんを振り回す必要なんざねえし、俺はお前を逮捕したりしねえ。お前の姉ちゃんには随分と借りがあるしな」
ポンポンと肩を叩かれるたびに、体の強張りがほぐれていく。息を整えつつ見たギャバンの顔はいかにも頼もしく、そう思う自分をシャルルは恥ずかしく思った。
「よし、ちょいと場所を変えよう……ああ、待て待て。迂闊なことをしゃべるな。この街は、今、えらく危険なんだ。緊張感ってやつが命綱よ」
皺をたくわえた横顔が、鋭く喧騒を見やっている。
「ゾンビばっかりじゃねえ。新十字軍があおりやがるから、あっちこっちで市民が徒党を組んじまって……いつ暴徒と化すかわかったもんじゃねえ。ここぞとばかりにマフィアの奴らも動いているしな」
「暴徒と……マフィア?」
「人心の乱れるところに暴力ありってなもんさ。どいつもこいつも、まったく」
チラと向けられた視線が、手の内の拳銃を射抜いた。
シャルルは唾を呑んだ。手汗越しに感じ取れるグリップの凹凸が、ひどく危険で乱暴なもののように思われてきて仕方なかった。




