生きて在る者たち・Ⅱ
雲の上の世界は想像した通りだった。
青空に新緑が映え、白い街並みは色とりどりの花々に飾られている。瀟洒な橋のかかる小川には光溢れ、せせらぎを基調として小鳥が歌う。リスや子犬たちがかわいらしくまろび回る。
清らかで穏やかな、絵に描いたような楽園……天国そのものだ。
芝生の丘に座る「彼女」は、しかし、地上を見下ろすことをやめられなかった。
物悲しい風景である。廃墟が散在していて、それらを呑み込んだ草叢には蕭々と風が吹く。人の営みの死骸を見るかのようだ。他方、生きた都市に人々が身を寄せ合う様にもまた切なさがある。弱いくせに信じあえず、それでいて群れ集う。
彼女は一筋の涙を流した。それは地上へ落ちていくこともなく、重力場によって回収される。あちらとこちらは丁寧に隔たれている。
それでも見続ける。そして思い知らされるのだ。
ああ……なんて哀しいのか、と。
先々を考えない振る舞いの裏には諦めが根付いていやしないか。自分さえ良ければいいという姿勢は無力感の裏返しだろう。誰も彼もが自信を喪失し不安に苛まれている。怯えている。凍えている。
だからこそ、力を欲するのだ。財力であれ権力であれ……暴力であれ。
そう思えて仕方がないから、彼女は自らの胸に手を添えた。もはや傷跡すらないものの、数発、凶弾が貫いたところを確かめるべく。
「クラリス」
名を呼ばれたから目を瞬かせた。涙を払った。
「痛むのかい? むべなるかな、人は誕生の衝撃はすっかり忘れてしまうくせに、真逆の方についてはしぶとく憶えていてしまうものだ……僕もそうだったよ」
親し気に話しかけてきた男の名を、彼女は複雑な思いで口にした。
「エティエンヌ……さん」
「さりとていつかは忘れられる。ここにはもはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない……全ては過ぎ去ったからである、というやつさ」
傍らに立たれたから、クラリスは居住まいを正した。白い長衣を引き寄せる。
地上を見ていたかった。独りで、である。遠くへ思いを馳せることは祈ることとよく似る。隣にいてわずらわしくない人物は限られる。
「死者が朽ちないものとなって甦る。聖句だね。それが今や君の身に成就しているんだ。僕たちの身体は、もう、苦しみを盛る器じゃない」
気持ちよさげに語られる文言が、そよ風に乗って流れていく。クラリスは芝草の連なりを何とはなしに見るばかりだ。葉には虫一匹とて這いずっていない。土にも細菌の類はいないと聞いていた。
「……透視したいかい? 君の子のことを」
聞き捨てにできないことを言われた。友の兄のエティエンヌが微笑んでいる。また葉を見た。膝を抱えもして。
「到底、その許可はでないよ。君のその力は雲上から提供されたものだ。管理されて当然だし、世俗への未練を長引かせるものであってはならない」
クラリスは唇を噛んだ。何て陳腐なのだろうと思われたからだ。天賦の才と信じていた霊妙の力も、かかる雲上においては申請の手続きを要するものでしかない。
「……でも」
「ダメだ。それが君のためだ。昇天したからには心の平穏を求なければ―――」
言葉は途切れ、吐息と消えた。
「―――そう諭すべきなんだけれどね。不死の先達としては」
表情の抜け落ちた横顔が、遠くを、地上を見やっていた。続く言葉を待った。
「セシルが、新十字軍の基地からうまく脱出したようだ」
「え……」
「危うく解体されるところだったんだ。窮地を助け、昇天させる役割を担わせてもらったんだけれど……拒絶されてしまった」
カマイタチを渡せたきりさ、と苦笑する。
「情けない話さ。君のことをどうこう言えやしない。僕には僕の未練があって、折り合いをつけたはずのそれに悩まされている。どうすればいいのか……どうしたらよかったのか……ずっと後悔してばかりだ」
後悔。それの多い人生をクラリスは生きてきたが、雲上にあっては不死についてのそれが強く心を苛んでいる。
不死となってよかったのか。死ぬべきではなかったのか。
繰り返し湧き起る自己嫌悪……それをやり過ごすために地上を見ているというところもあった。死なずにいればこそ目にすることのできる風景である。
「不死の憂鬱……言ってしまえば、それは克服カリキュラムの存在するありふれた症状でしかないけれど」
「私は……死ぬのが怖かったわけじゃない」
「そうだろうね。はじめ、君は昇天を断ろうとしていたもの」
「でも……まだ死ねなくて。後に残すなんて、とても……放っておけないから」
「尊い感情だ。君らしい強さであり、同時に、君ならではの弱さでもある……地上へ連れていったのは早計だったかもしれない。自分の墓を見れば踏ん切りもつくかと思ったのだけれど」
「……弟のことが心配です。すごく」
「共感するな、それは。そして哀れにも思う。子、弟、両親……家族への愛情が豊かであればあるほどに、それと離別する苦悩は深くなるから」
言葉だけを交わしていた。視線も心情も、互いに相手を必要としていなかった。並んで地上を見ているというだけの関係だ。
雲が音もなく流れていく。木々の影が移ろっていく。
人間の哀しさに汚れた世界が、留まることなく運行していく。その力強さに比べれば、雲上の人工空間などはいかにも頼りなく思われた。隣の芝は青いということなのかもしれない。しかし間違いなく美しい。見惚れるほどに。
夕焼けの色が地上を染め上げた頃、ぽつりと、恐ろしいことがつぶやかれた。
「近く、例の聖母が火刑に処されるそうだ」
ギョッとする内容に重ねて、ひとつの予言がこぼされた。
「雲上はその協定違反を認めない。軍事力をもって介入することになる。そしてそれは社会の陰に蠢く者たちをも招き寄せて……きっと大きな戦いになるだろう。幾人もの尊い命が犠牲となるような、忌むべき戦いに」
口を挟む暇もなく、決断が口にされた。
「僕は地上へ降りようと思う。しかるべき時を見極めてね。セシルをこのままにはしておけない。今更と言われてしまうだろうけれど、それでも……」
綺麗な横顔だった。超然とした態度は崩れ、迷いも悩ましさも覗けてしまっているから、いかにも人間らしかった。同情できた。
だから、クラリスもまた言った。言葉にすることができた。
「その時には同行させてください。私は、安穏と過ごすために不死になったんじゃない。あの子のために……あの子の幸せを願えばこそ、安らかに終われなかったんですから」




