生きて在る者たち・Ⅰ
セシルは暗闇の山野を行く。右手に握るのは、鉈代わりの大型ナイフだ。
足取りは重い。血汗と油脂に塗れた髪も身体も、連戦と山道で汚れた兵装も、全てが不快だった。手かせ足かせをしているかのようだ。
物音。傍らの茂みから。
セシルはナイフを構えた。左手は腰のホルスターに添え、いつでもハンドガンを抜ける姿勢である。
頬を数滴の汗が流れ落ちてから、セシルはまた歩き始めた。
不死人として地下に目覚めてより幾昼夜が経ったのか、セシルには正確なところがわからない。現在地も不明だ。先の新十字軍施設は非公式のものである。
眩暈に見舞われ、セシルは木へ手をついた。強張った指。震えている。
脱出に際しての戦闘は激烈を極めた。
いまや敵対した新十字軍であるが―――強力だったのだ。
最初こそ容易く打ち払えたものの、増援の兵士たちは弾幕をもってセシルを攻め立てた。カマイタチによる防御が強固だとしても、そう来られては嵐の日に傘差すようなものである。集弾のしやすい通路であったことも災いした。
無形の盾と戦うための訓練を、彼らは積んでいたのかもしれない。
なにしろ不死を解剖する設備や人員の整えられていた秘密基地だ。不慮の事態に備えて、対スカイウォーカー戦力が配備されていてもおかしくない。
苦戦の理由はそれだけではない。セシルは息苦しさに喘ぎながら、己の身をかき抱いた。銃弾も爆弾も防ぎきる防御と、傷を負っても即座にそれを回復する肉体とを有するも……思わぬ症状に見舞われて、今のセシルの苦境がある。
渇きだ。おぞましいまでに、渇く。
奪ったペットボトルを何本飲み干してもまるで潤わなかった。喉を胃を水分で満たしたところでどうにもならなかった。水ではダメだ。嘔吐してそう悟らされた。
全身の細胞がひとつひとつ萎えていくかのような、この、異常な欠乏感。
身を屈するセシルの懐から、それが落ちた。カマイタチ。不死人の超兵器。
激戦の最中、それは頼れば頼るほどに力を発揮した。圧倒的ですらあったが、しかし、唐突に機能を停止した。セシルは被弾し、戦場で懐中電灯を振り回す滑稽を晒した。すぐにも再起動したものの、以後は出力のひどく不安定なものとなった。
それでも何とか窮地を脱して……山中へと逃れて……カマイタチはただの手荷物と化している。もはやうんともすんとも言わない。
落としたそれを拾った。今もって調度品のようなお綺麗さを失わないそれを。
現在、セシルは念動力を使えない。カマイタチを使った結果としてそうなったのだから、原因もまたカマイタチであろうと思われるが。
柄を握る。きしむほどに握りしめる。奥歯を、噛む。
「捨てられんか」
男の声。
セシルは弾かれたように動いた。木立の陰に飛び込む。声の出所を探す。左手にはカマイタチを、右手にはハンドガンを、それぞれ油断なく構えている。
「捨てられまい。そいつは不死人の剣であり盾だ。権力でもある。目に見える形の特権意識とも言える。連中は認めぬだろうが」
どこだ。そこか。草叢の向こう側。何かの石組みが朽ちた様を晒しているところ。姿は見えないが何者かがいる。
「カマイタチ……その名は不死の発祥国に潜むモンスターに由来するそうだ。身を隠す術も身を護る術も、つまるところがモンスターの振る舞いであると自白しているのだな。手加減して人を殺めないという辺りも、そのモンスターの習性らしい」
これもまた聞き覚えのある声に思われて、セシルは眉根を寄せた。似たような状況で聞いた気がするのだ。
「死を恐れるあまりに敵の死すら忌み嫌い、非殺傷設定という珍妙を科学する……臆病者どもめ」
口ぶりから察せられた。ガロンヌ川のほとり。闇濃き木々の向こうにマリアの囚われた屋敷を臨む夜。セシルはこの声と会話した記憶がある。
「……私はお前を知っているぞ」
「俺もお前を知っている。生前は勇敢な戦士だったが、聖母の我欲でゾンビと成り果てた娘だ」
聞き捨てにできない言動と共に、男が姿を見せた。風景ににじみ出るような現れ方だ。石の棺のようなものに腰掛けている。
ひどい有り様だ。
シーツか何かを外套のように羽織っているが、その下には満身創痍としか形容できない凄惨さが垣間見える。
「まあ、携えておけ。カマイタチの有無は不死の戦闘力を大きく左右する」
男は手元を示した。指の欠けた手に握られたそれはカマイタチなのだろう。東洋風の刀剣を思わせる拵えである。
「聖母はどうしている? もう雲上へ連れていかれたのか?」
「……わからない」
「ふん。天も地も人も、三者三様、儀式めいた演出にこだわっているのだろう」
この男は敵か味方か、セシルには判断がつかない。
しかし、銃口に晒されてなお穏やかな口調には末期の響きがあって、セシルの闘争心を鎮めていくのだ。戦士に相通ずる情が敬意を抱かせる。
不死も滅ぶ。それを目の当たりにしているのかもしれないと思う。
「助けたいか、聖母を」
「……マリアは友人だ」
「真っ当な生を奪われておいてなお、それを口にするとはな」
「私は不死を喜びやしない。憎いが、それきりになりもしない」
「……怨嗟を呑んだか。わからない話ではない」
男は吐息した。身じろぎするのも辛そうだ。
「お前も、マリアを狙っているのか?」
「聖母に用はない。目障りと思うくらいのものだ。俺の獲物は群がる連中よ」
口の端をねじり上げるような笑みの形。暗く寒い強がり。それはセシルがエティエンヌと名乗っていた頃に慣れ親しんだものだ。
「……復讐か」
「……よくよく似ているようだな、俺とお前は」
苦笑するや男は咳き込んだ。血が飛び散った。余程の傷を負っているらしいが。
セシルは眩暈に襲われた。
血臭だ。男の血の臭いが……潤いに満ちた匂いが、セシルの心身を強く誘惑しているのだ。芳香を吸い、芳醇を啜りたい―――その欲望の忌まわしさに、震えた。
「渇き。それは不死の代償だ」
問う余裕もなく、セシルは唇を噛む。膝に爪を立てる。
「不死ウイルスは活性化することで様々な異能を発揮するが、エネルギーを消費するからには補給が必要となるのが道理。聖杯の血が最良であり、聖母の血がそれに次ぐ。聖性が聞いて呆れる欠陥だが……」
話を聞く余裕などなかった。セシルは衝動に抗う。獣欲にも似た強烈なそれ。血が吸いたいなどまるで吸血鬼ではないか。そう嫌悪することで堪える。
「……念動力を一度に使い過ぎたのだ、お前は。そのまま不死ウイルスの不活性化が進めば仮死状態に陥るぞ。雲上で多くの不死がそうしているように」
グイと突き出されたもの。男の左腕。肘から先は失われていて、断面を隠すように布で覆われ縛られてはいるが。
香る。どうしようもなく、それに惹かれる。
「吸うがいい」
唾を呑んだ。はしたない音が鳴った。
「不死の悪習ではあるがな。自分とは異なるタイプの不死ウイルスを摂取することで自らのそれを更新する……副次的に渇きも治まる。回復するまでの時は稼げるだろう」
この男は何を言った。何をさせる気だ。回らない頭がそれを貪欲に理解しようとしているから、セシルはうめいた。
「意義も倫理も考えるな。そういうものに呪われたというだけなのだ、お前は」
抗いがたく引き寄せられつつも、セシルは男の真意を測った。目を見たのだ。カマイタチ同様に東洋を思わせる黒瞳は、ひどく孤独で、やはり過去を想起させてならない。
亡き家族を想い、寄る辺なき夜を過ごす……弱々しい自分と向き合う日々。
闘志の裏側にはべったりと寂しさがへばりついていた。
「どうして私を助けようとする」
「聖母を友と言うお前だ。助力することも復讐につながる……」
近づけばより濃厚な血の匂い。死の気配もまた漂う。男はろくに目も見えていないようだ。
「……いや、違うな。これは未練だ。俺はもうすぐ眠りにつく。全ての力を肉体の再生に回さなければ、もうどうにもならんのでな。目覚めるのは一年後か百年後か……あるいはそのまま世界の終わりまで眠り続けるのか……」
俺は不死性の低いタイプでな、などと苦笑する様には諦観があった。明け透けな態度が痛ましく、セシルは目を逸らした。
「戦って戦って、ここまで来た。後悔はない。俺と同じように戦うお前は、さて、どこまで征けるものかな」
笑い、血をもたらしてから、男は横たわった。石の棺の中へだ。セシルは蓋を閉める手伝いすら買って出た。そうすることが情けであり、弔いだろうと思ったからだ。
そのように一人の不死の終わりを見届け、セシルは再び歩き始めた。
人里があると教わった方角へ。道をたどって西へ。会うべき彼女のもとにたどり着くために。セシルの戦いを続けるために。




