望むべき世界・Ⅲ
「僕の家はそれなりに大きなビジネスをしていてね。かつての昔は果樹園相手の人材派遣が主業だったそうだけれど、今は公共事業の受注から町の美化活動まで手広くやらせてもらっている」
ヴァレンティンに渡された名刺には有名企業のロゴが描かれていたから、シャルルはたやすく両親を説得できた。見聞を広めるための小旅行は許可された。
「そんな仕事柄、僕には社会の仕組みがよく見える。歪んでいるよ。新十字軍は暴力をもってあらゆる権益を独占している。公平さなどどこにもなく、公私混同が常態となっていて、公益を無視して誰はばかることもないという有り様だ」
移動手段はバイクだった。触れる機会はおろか見かけたことすら数えるほどの高級品である。シャルルはヴァレンティンの経済力をようやくと理解した。
何より、その乗り物に惚れ込んだ。
タンデムシートから見る風景は、高速で、刺激的で、開放的だったから。
「思うに、彼らは何か非公表の目的があって動いているのではないかな……組織の利益のためか、それとも特定の誰かの野心によるものかはわからないけれど……いずれにせよ、その企みはスカイウォーカーと関係しているように思う」
スカイウォーカー。新十字軍がゾンビ禍の原因として糾弾するものたちだ。
関係するという言い方が不思議だった。戦うという意味だけではない印象があって、シャルルは首を傾げたが。
「なぜそう思うかって? それは向こうに着けばすぐにわかるさ。町全体が、およそ普通ではないのだからね……」
答えははぐらかされて、シャルルは目的地へ到着するに至る。
トゥールーズ。
ガロンヌ川に抱かれるそこは、数百年越しの建造物が随所に残る歴史的都市であるのと同時に、空港もあれば地下鉄もある大都会だ。シャルルはフットボールの試合で二度ほど訪れたことがあった。いつかここで暮らしたいと思いもしたが。
そんな街は、今、熱狂の坩堝と化していた。
どの街灯にも窓にもベランダにも、新十字軍の紅白旗がひるがえっていて数えきれない。道々にはやはり旗を持った、あるいは相応の衣装やスカプラリオを誇らしげにした人々が行き交い、時折空へ向かって何事かを吠えている。
歓声が沸いた方を見やれば、軍用車の上に立った騎士らしき男が演説をぶっている様が目に入った。何を弁じているかも耳に入ってくる。
「スカイウォーカー許すまじ! 先のドラゴンも多発する怪物被害も、全ては彼の者どもによる人間への悪意悪辣! 見よ! 大空を横断する白骨のごとき城が我々を監視している! ゾンビが徒党を組んで我らを狙っている! しかし同胞よ、恐れることはない! 我らはかくも強固に団結しているのだから!」
わめき散らすような弁舌だ。拡声器も相まって耳に刺さるようだ。
「スカイウォーカー討つべし! ゾンビ滅ぼすべし! 愛する誰かを護るために、平穏に幸せに暮らすために、今こそ人間の正義を轟かすのだ!」
振り上げられた拳と、追従する拳の群れ。殴りつけてくるような熱気と咆哮。老いも若きも、男も女も、子どもすらも、喜々として叫んでいる。倒せと。一切の迷いも後ろめたさもない態度で、悪を一掃せよと主張している。
それはまさに自分の欲したものだと、シャルルは考えたものの。
血の気が引いていた。一歩、また一歩と退いた。喉を押さえる。吸ってはいけない生臭さを吸いこんでしまったように感じられて、うめいた。
「行こう。いい店を知っている」
ヴァレンティンに連れられて、シャルルはいずこかの店舗の扉をくぐった。コーヒーが香る。狭く古めかしい店内には他に客の姿はない。
奥の席につく。差し出された冷水を一息にあおった。
「少し刺激が強すぎたようだね……まあ、無理もない」
「あれが、新十字軍の企み?」
「ああいった扇動が行われているのは、何もここに限ったことじゃない。モンペリエでも、マルセイユでも、リオンでも……一大キャンペーンさ」
音もなくコーヒーセットが二つ配膳された。ヴァレンティンはミルクを数滴だけたらした。
それが、どういうことか響き渡るほどの音を発した。
「ああ、今のは近かったね」
ヴァレンティンが窓の方を見やったことで、シャルルは自分の錯覚に気づいた。外から聞こえてきたのだ。ターンと響く、複数の破裂音が。
「銃声だよ。ここ数日、トゥールーズではそれが聞こえない日がない」
「え、それって」
「全て新十字軍による発砲さ。ゾンビは人の営みの中に潜むというのが彼らの主張だから、正義の執行された音とでも受け取るべきものなのだろうね」
カップ内にスプーンを周回させながら、ヴァレンティンは言う。白と黒とが混ざりゆく様を面白そうに見下ろしている。
「それもドラゴン騒ぎが契機だ。捜査名目で、あちらこちら地区の封鎖が強行されている。前触れのない工事も多い。兵士による巡回が盛んで、夜には外出を控えるよう告げて回っている。ゆくゆくは戒厳令が出されるのじゃないかな」
「それじゃ、まるで」
「まるでも何も、そのものズバリだよ」
ヴァレンティンがコーヒーを口にし、またソーサーへ戻した。
「戦争だ、これは」
気軽な口調で言われたそれが、シャルルの胸にはひどく重かった。
「人類に仇為すゾンビを駆逐する……それがまあ、彼ら新十字軍の存在理由でもある。そういう意味では職務に精励しているとも言えるけれど、どう考えても都合の良すぎる話だよね。戦争状態であればあるほどに、彼らは権勢を強めるんだから」
ニヤリと笑って、ヴァレンティンは言うのだ。
「いいかい、シャルル。ゾンビがいるから発見されるんじゃなく、ゾンビを発見したと発表するから、ゾンビがいたことになるのさ」
「そんなのって……そこまでするのかよ、新十字軍って」
「特権を持つ組織とはそういうものさ。事実、巡回する兵士たちのやっていることは防疫審問で、その中身は魔女狩りのそれに近い。何しろ、彼らは疑わしきを罰することに躊躇がないんだから」
「魔女狩り。疑われたらもうダメってことか?」
「そう聞いている。僕の知り合いでもひとり、捕まった人がいるよ」
「今、その人は」
「ご家族は葬儀ができなくて悲しんでいる。新十字軍の発表では、その人はゾンビだったそうだからね。遺体は腕の一本すら返してもらえないんだ」
燃されたのかなあ、などと肩をすくめる。その素っ気なさの裏にあるものを慮って、シャルルは生唾を呑んだ。ひどくのどが渇く。
「……新十字軍の不正。それが。そういうやり方が」
「君のお姉さんはまだしも幸運な方だったのかもしれない。人間としてきちんと墓に入れたのだから」
「どこが!」
立ち上がりかけて、テーブルで膝を打った。コーヒーが少しこぼれた。ひと口も飲まずに冷ましつつある、それ。
「死ぬことが、幸運なわけない。まして、殺されたかもしれないなら……!」
「そうだね。失言だった。生きていてこその命だ」
生きていてこそ―――シャルルは姪を思った。クリストファー家にとっては何にも代えがたい、かけがえのない命だ。姉はその命を護るために懸命だった。
「シャルル、君の怒りは正当なものだ」
ヴァレンティンが何事か合図をすると、コーヒーセットを運ぶようにして、小さな包みが届けられた。大きさの割りにゴトリと重い音がした。
「命の尊さは今更誰が論ずるまでもない。愛する誰かのものであればなおさらだ。君がお姉さんの死の真実を追求するつもりなら、僕は協力を惜しまないよ」
「……どうしてそこまでしてくれるんだ?」
「不正を憎むからだ。正しさは報われるべきなんだ。そうでなくては生きていることが馬鹿らしくなってしまうから」
「正しさ……」
「正しくない者へ対抗する時、自ずとそれは明らかになるものさ。敵が強大であればあるほどに、正義は輝かしいものとなる」
シャルルは促されるままに包みを開いた。拳銃が、重々しく横たわっていた。
「護身用に持っておくといい。非暴力主義のマイノリティを丁重に扱ってくれるほど、彼らは上品でも教養深くもないからね」
手をまずはコーヒーへ伸ばし、口をつけた。おいしくはなかったが、二口三口と飲む。苦さが身体に染み渡らせる。
銃は硬く冷たかった。命と相反するもののように思われて、シャルルは震えた。




