望むべき世界・Ⅱ
暮れなずむ墓地にやわらかく風が吹き抜けていく。樹木には鳥の、草原には虫の気配がそれぞれに勝手気ままで、人の営みは遠い。
シャルルはひとりだった。
手には白いカーネーションを一輪持っている。腹はカフェのクラブサンドで膨れているし、服は今もって自ら買ったこともない価格のものであり、靴も同様だ。
表情を決めかねるような気分だった。やったこともない乱闘をして、やられたこともない厚遇を受けている。ヴァレンティンの気遣いは徹底してスマートであり、今も祈る時間を邪魔したくないと言って敷地外で待っている始末だ。
姉の墓前へ立つと、シャルルは何やら小言をもらったような気がした。心配されたのか呆れられたのか。面倒を見られ慣れている自分が少し恥ずかしくもあった。
「俺、本当にガキみたいだな……もうそれじゃダメだってのに」
花を手向けた。組みかけた手をジッと見つめ、そのままに下ろした。空を仰ぐ。
赤と青とに滲む天球を横切る、白い一本筋。雨が降ろうが風が吹こうが、だからどうしたと言わんばかりに在る。シャルルは姉を思った。仰向けに倒れていたと聞くから、やはり最期にあれを見たのだろうかと。
不意に目がくらんだ。何か光が反射したらしかった。瞬きを繰り返す。その明滅する視界を白い鳥が横切った。咄嗟にそれを目で追ったが。
姉が、いた。
墓の列の向こうだ。木陰に佇んでる。見間違えようもなく、姉クラリスである。白くゆったりとした装いは、まるで教会の絵や彫刻で見る聖人のようである。
悲しそうだった。今にも泣き出しそうなくらいだ。
口元が何かを言いたげにわなないたが、つぐまれた。未練を感じる。その方には先の白い鳥がとまっていて、姉はそれを気にしている風でもある。
「姉ちゃん!」
自分の声が大きく響いたことで、シャルルは今までの静寂に気がついた。音が一気に戻ってきた。風にそよぐ枝葉や虫の声が、妙にうるさく感じられる。
木陰には誰もいない。シャルルは独り、そちらへ向けて手をつき出している。
「何だよ……何だってんだよ」
独り言をこぼしながら、シャルルは木陰のもとへ行った。幹の周りを歩き、方々を見やってから、また墓石のところへと戻った。
「……俺が参ってるのか? それとも、姉ちゃんが安らかじゃないのか?」
シャルルの放った質問に、返答があるはずもなかった。期待もしていなかった。ただ居ても立っても居られなくなった。
手向けた花の位置を急いで直し、シャルルは両の手を組んだ。
「俺は馬鹿でガキだけど、姉ちゃんは違う。頑張ってたんだ。だから……」
言い訳とも願いとも知れないものが声に出た。涙も流れた。これ以上は耐えられないところまで、それはこみ上げてきていたのだ。拭っても拭っても頬が濡れる。
そんな自分を、シャルルは情けなく思った。弱々しく愚かだとも。
葬儀でも祈らなかったくせに、不安に駆られるや必死に祈る……シャルルにとってそれは卑怯で愚劣な行いだった。もはや罪だ。手錠を求める姿とすら思われた。
シャルルはシャルルを嫌いになった。
それは同時に、何もかもが嫌になったということだ。
暗闇が足元に漂い始めていた。草木の辺りは特に濃い。おぼつかない足取りで墓地を出ると、街灯に照らされてヴァレンティンが佇んでいた。出迎えるような微笑みはすぐに消え、怪訝な様子で近づいてくる。
「姉ちゃんをさ、見かけたんだ」
シャルルは軽く笑おうとしたが、頬が引き攣っただけだった。ヴァレンティンがギョッとしたのだから、さぞかし見苦しい笑みだったのだろうと思う。
「別に頭がおかしくなったわけじゃないさ。幻でも見たんだとわかってる。でも、それで十分に思い知らされた。やっぱりおかしいって。こんなの間違ってるって」
「シャルル……どこかで温かいものでも飲もう」
「いらない。それより教えてほしいことがある。あんた、頭良さそうだし」
ヴァレンティンの顔も見ずに、問うた。
「この世界が間違ってるとして……それは誰のせいなんだ?」
シャルルは原因を欲していた。もう嘘でよかった。八つ当たりでもいいから、殴りかかる相手が欲しいということだ。
「俺の家族が幸せになれないのって神のせいか? もしもそうならどうしてそんなやつに救いを求めなきゃならない。それとも人間のせい? 皆が悪い? それとも一部の犯罪者? さもなきゃ、酔っ払いが言っていたように新十字軍のせい?」
答えが返ってこないから、睨みつけた。ヴァレンティンは真剣な顔で見つめ返してくる。誤魔化す気はないらしい。
もったいぶった呼吸をひとつはさんで、彼は話し始めた。
「ゾンビ禍なんてものがあったのだから、神の実存については論ずる必要もないけれど……誰のせいかと言われると難しい。世界を正しさをどう定義するかにもよるからね。それでもひとつだけ、批判すべきこと明白な不正を挙げよう」
ヴァレンティンの立てた人差し指にシャルルは注目した。その指先に真実が乗っかっているのなら、すぐにも与えてほしかった。
「新十字軍の存在だ。彼らはいつまで軍権を掌握している?」
軍権。シャルルには聞き慣れない言葉だ。
「もともとは国連の防疫部隊でしかない。ゾンビ禍へ対処すべく権限を拡大させたまではいいとして、事態収束後にそのまま軍事政権化したのはどういうわけだ? いつまでも普通選挙を行わせない、いかなる正当性が彼らにあるというんだ」
選挙。これもまた難しい。歴史の授業で聞き知ってはいたが。
「彼らはゾンビ狩りを大義名分にしているけれど……いわゆる化物騒ぎにはマッチポンプの疑いがある。必要な時、必要な場所に、必ず新十字軍の迎撃部隊がいるからね。その軍功を集めて台頭した男もいる……銀騎長ピガール・ノワ」
個人の名が出たから、シャルルはそれに興味をもった。肩書からして偉そうなことも気にくわない。
「実際問題、このところの新十字軍の振る舞いは強権的にすぎる。先日のドラゴン騒ぎでは警察を下部組織のように扱い、市民の財産権への侵害も甚だしかった。それで反省するどころか、むしろ更なる強権を重ねてくる始末」
商売あがったりさ、などと嘆息して。
人差し指が静かにたたまれた。ヴァレンティンが微笑んでいる。それをシャルルは頼もしく感じたから、次の言葉が待ち遠しくさえあった。
「権勢への疑惑は、その勢いが盛んな場所を探るに限る……トゥールーズに行ってみるかい? 僕は伝手があるし、あるいは君の仇敵が見つかるかもしれない」
「敵……俺の?」
思い掛けないことを言われて、シャルルは戸惑った。本心を見抜かれたのかとも思ったのだ。倒すべき敵が欲しいという、暗い欲望を。
「そうさ。おいおい、君は疑わしいと思わなかったのかい?」
ヴァレンティンに呆れられたことが、シャルルは恥ずかしかった。自分は愚かで無力な子どもであると認めてはいても、そう思われたいわけではない。
しかし、次の言葉で全ては吹き飛んだ。自己評価などどうでもよくなった。
「暴力的で閉鎖的な組織の常として、運営に不都合な人間を粛清することがある。しばしば聞く騎士の不審死……心臓発作なんて発表はその典型じゃないか。お姉さんが謀殺されたかもしれないということを、君は考えるべきだ」
シャルルの頭は一気に冷えて、耳には鼓動の音が力強く響き始めた。腹の底から突き上げてくる衝動は、叫ぶことなどではまるで発散できそうもない。
他人事のように、シャルルは考えた。
自分たち家族を不幸にした犯人がいるのだとしたら、そいつは必ず殺さなければならないと。神の罰が下ることなど期待しやしないと。




