望むべき世界・Ⅰ
往来の喧騒が、シャルルには忌々しくてならなかった。
早足が災いしたのか、靴ひもがほどけた。舌打ちをひとつ。結び直そうとしゃがんだところで誰かの鞄が背を打った。睨みつけると、中年のその男は間抜け面を晒して去った。鼻を鳴らした。
姪を見舞った、その帰りである。
姉の遺児である彼女は、産まれてこの方、病院から出たことがない。病棟の中の小さなベッドが専らの居所だ。何がしかのチューブにつながれて、どうしようもない疾患に喘ぎ、人並みの幸せなど味わったことがない。
高額の医療費さえ支払い続ければ、生きてはいられる。姉は自らの従軍の代価として新十字軍に医療費の支援を求めた。
その支援も、あと三年が期限である。
姉の葬儀の後、参列した新十字軍事務員より告げられたことだ。休暇中の病死であったことで保障を渋られたらしい。
来年、シャルルは新十字軍の養成校へ推薦入学をする予定でいる。学費はかからない。二年学んだ後に従軍することになる。支援期限内に軍人となれる計算だが、しかし、シャルルは姉のような特別な価値を認められていないのだ。
金が足りそうもない。不動産を整理しても、厳しい。両親は頭を抱えている。
靴ひもが上手く結べない。また誰かの荷物がぶつかってきて、シャルルは膝をついた。うなる。誰かれ構わず殴り掛かりたい衝動があった。
世間がいつものように動いていることが、まるで納得いかないからだ。
姉は死んだ。両親は娘を失い姪は母を失ったということだ。クリストファー家の幸せはどうしようもなく損なわれて、しかも更なる不幸へと追い詰められている。
それなのに、どうして、誰も彼もがお気楽な顔をしているのだろうか。どんな正当性でもって当たり前の日常が流れているのか。シャルルには理解できない。許しがたい。
それでも、これから向かう先のことを思ってシャルルは堪える。墓地へ行くだ。荒ぶる気持ちのまま向かいたくないから、嫌々ながら人の波へ加わり直したのに。
「また新十字軍の騎士が死んだらしいぜ」
そんな言葉に足を止めさせられた。
「ったくだらしねえよな。税金ふんだくってくくせによ」
「ドラゴンが出たなんて話も聞くぞ? まるでファンタジーだ」
「へっ、剣で戦うわけじゃねえだろ。バカスカ撃ちまくりゃ楽勝だろ」
道端で男たちがたむろしている。身なりからして流れの労働者だろうか。昼間から酒も入っているようだ。
「そもそもよ、そんなに物騒なら俺たちにも銃を寄越せってんだ。護身用によ」
「ガソリン車の方がいいな。たまに見かけるやつは、だいたい軍用車だ」
「ああ、いいねえ。馬力のあるやつな。パリ見物にでも繰り出してみてえや」
「パリって、お前、あそこは……何を見てやがる」
シャルルは目を逸らさない。怒鳴りつけたいのだが、言葉が出てこないから、ただ睨みつけ続ける。拳を握っている。
「ガキがいきがるな。さっさとお家に帰ってママに甘えてろ」
「そうそう。大人様は働いて疲れてんだ。酒くらい飲ませろっての」
「まったくだぜ。いいよなあ、ガキは気楽でよ」
跳びかかっていた。
何が癪に障ったのか自分でもわからないまま、シャルルは吠えた。男を殴り、襟をつかんで、また殴る。背後から羽交い締めにされて、さらに激した。蹴る。無茶苦茶に暴れまくる。
そして、気が付けば植え込みに横たわっていた。
体中が痛む。口の中には血の味が濃く、歯が幾本もグラグラとしている。吐き気はないものの、嘔吐物の臭いが鼻をつく。靴を片方しか履いていない。
そんな地べたから、シャルルは空を見上げた。底が抜けたような青さと高さだ。遠く、雲上カタコンペが白線を引いている。あれにはゾンビが巣食っていると聞かされているが、距離感すらつかめないから、おとぎ話としか思えない。
「素晴らしいものに見えるかい?」
面白がるような声だ。のろのろと見やる。
小奇麗な恰好をした男。精悍な顔立ちだ。年の頃はシャルルと同じか少し上くらいだろうか。長めの金髪をかき上げ、眩しそうに空を仰いでいる。
「あれだけ白く綺麗なのだから、さぞかし残酷なところなのだろうと僕は思うよ。似たものと言えば雪原と隔離病棟しか知らないからね」
空気も薄そうだ、などと言いながら手を伸ばしてくる。何だろうと見ている間に握手の形に持っていかれた。
「ヴァレンティンだ」
「……シャルル」
名乗らされたようにシャルルは感じた。何か気圧されるのところがあるのだ。グイと手を引かれ、立たされた。パンパンと服の汚れをはたかれ、脱げていた靴も足元へ置かれた。手渡されたハンカチは、それで顔を拭けということらしい。
「大乱闘だったね。やられはしたけれど、いいファイトだった。シャルルは何かスポーツをやっているのかな?」
肩や脚を無遠慮に触れられたから、払いのけた。スルリとかわされたから、大きく空気を薙いだ形だ。それでいよいよ服が裂けた。
「軸がぶれない。フットボールか何かかな?」
「……どうでもいいだろ」
「そうでもないさ。君が相手取った連中は、僕のところで使った労働者だからね」
「なっ」
「すまなかった。お詫びとして、とにかくも服を進呈したいと思うのだけれど、受け取ってもらえるかい?」
シャルルは文句のひとつも言いたいのだが、しかし、このヴァレンティンという男はエスコートの達者らしい。促されるままに歩いてしまう自分に、シャルルは戸惑った。
扉まで先んじて開けられ、足を踏み入れたのは服飾店である。この辺りでは最もグレードの高い店だ。
「待ってくれ。俺は……」
「賠償の一環なのだから遠慮は無用に願うよ」
彼の馴染みの店なのか、店員たちはシャルルの滅茶苦茶な服装を見ても眉根一つひそめず、丁重な振る舞いである。
「ああ、そこの。薬局まで走って薬剤師をひとり連れてきて。ケガの治療に必要なものを全てそろえてね。この名刺を持っていけば対応するから」
そんな得体の知れない物言いを聞きながらも、シャルルは質問する暇もない。ボロボロの服を脱がされ、サイズを計られる。
「そうケガはひどくなさそうだ。それでも処置はしたほうが無難だね。もう少しそのままで。ほら、水とタライを持ってこさせた。口をゆすぐといい」
言われるままにシャルルは水を口にした。それは素直にありがたかったからだ。口の中が沁みる。吐けば赤褐色のものがタライに広がった。
「血が出てしまったね。申し訳なく思うよ」
「いや……俺から殴りかかったんだ」
「物理的にはそのようだね。けれど、君をそうさせるだけの粗忽さが、彼らにはあったということさ。人の心を逆撫でするような言動がね」
シャルルはうなずかない。言われた通りではあるものの、だからといって暴力を振るっていいとも思えなかった。
「君は乱暴な男には見えない。それなのにああも戦ってのけた……理由を聞いてもいいかい?」
何度か口をゆすぎ、ようやく少し飲みもして、シャルルは胸の残り火を思った。
「……姉が、騎士だった。この前死んだ。あいつら、騎士が死んだらしいぜなんて笑ったんだ」
「それは……」
「別に、新十字軍の悪口を言うなんて普通のことだ。おっかないし、特権があって偉そうで……俺だってあまり好きじゃない。だからそんなのは切っ掛けってだけ」
今更に身体が震えた。泣きたくなるような切なさがあった。
「きっと、八つ当たりなんだ」
祈るような形に、手を組んでいた。
「理不尽だって、思うんだよ。しんどいことが色々と続いて……どうにもならないくらいなのに……それなのに、世界は動くんだ。俺のことなんてそっちのけで」
言葉にすると、それは新たな酸素のように胸の火を強める。怒りがこみ上げる。
「辛い思いをしたくて、生きてるんじゃない。みじめになりたくて、生まれてきたんじゃない。だからって死にたくもない……このままじゃ死んでも死に切れるもんか。こんな、ふざけた、人を馬鹿にしているような……」
「神などいるはずもない世界では、かい?」
目の前にヴァレンティンの碧眼があった。吸い込まれそうな色だ。頬の腫れたシャルルの顔が映っている。
「わかるよ、シャルル。叫び出したくなるくらいに、この世界は間違っている」
肩を叩かれて、シャルルは自分がずっと半裸でいることに気づいた。売るほどの量の服に囲まれていて、これもまたひとつの理不尽だと思う。
「僕は、君に興味があるな。これでもそれなりに経済力も人脈もある身だからね。何かの縁と思って……まずはわかりやすいところの治療かな?」
ヴァレンティンは笑って、店へ飛び込んできた白衣の男へと場所を譲った。
この男は何者なのだろうかと、シャルルは今更ながらに首をひねった。




