望まれた聖母・Ⅲ
つくづくひどいところだとマリアは思うのだ。
高い高い天井には傲慢なシャンデリア。大理石の床には賢しげな幾何学文様。権威を塗りたくったような宗教絵画が壁に所せまし。そして蛇の群れのような配線。
「あー、聞き違えようもないように思うが……もう一度言ってもらえるかね?」
赤衣の男に問われるまま、マリアは証言を繰り返した。
「あの日、礼拝する私のところへ天使が舞い降りてきました」
「おお、やはり天使と来た! いやはや、天使とはまた……天使とはあれかね? 翼という、鳥類にとっては腕でしかない代物を背中に生やした人間……実に悪趣味だ……言うなれば四本腕の妖怪のことかね?」
どっと沸いた者たちもまた赤衣だ。いつもの黒衣の老人たちは後ろの方に控えていて、いかにも居たたまれないといった様子である。
「はい。男性でした」
「ほう、男。子どもではなく成人した男かね? それはそれは、どこで判断したものかな……身長体格なのか、それともあるいは着衣の乱れから覗けたものかな?」
また笑い声。マイクを握る男は満足げだ。
手首に巻いた羽飾りのブレスレットが細かに震えている。黒髪のひと房も頬を撫でるように揺れた。
「さても困った話だなあ……人一人を浮遊させるために必要な翼となると、全長三十数メートルほどにもなるのだが? ん? どういったスケールだったかね?」
「両手を広げたくらいの大きさでした。絵画で見るような」
「ほうほう! いかにも天使でございますという天使だ! それが、天窓があるわけでもない教会で、空から降りてきたと! ふむ、梁にでも隠れていたかな?」
嗤われるためのこの場は、もはや宗教裁判ですらない。マリアは早々にそう判断したから心が凪いでいた。
「それで? ガブリエルもどきは君に告げたわけだ。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる』という具合に」
「はい。そうです」
「オペラだねえ、まるで。あるいはクリスマスに演じられる少年少女のお遊戯会のようだ。君の役どころについては名が体を表しているわけであるし……それで? きちんと感謝申し上げたかね?」
「感謝するべきことではありません」
ドッと場が湧いた。マリアは嘲りに包囲されているのだ。切れ切れに聞き取れる誹謗中傷はどれも品がない。
「おやおや、それはまた不信心ではないか。いや、この場合はノリが悪いとでも言った方が現実に即しているのかな? 感動はなかったのかね?」
「ただ、驚きました」
「それだけかねえ、本当に。まあ、白昼夢のようなものかもしれんな。シンデレラコンプレックスというやつだ。不幸な私のもとへ奇跡と幸運がやって来るという」
奇跡は科学であた。ならば幸運はどうか。考えるなり、マリアは金色の短髪の女性を連想した。粗野ではあるものの、勇敢で真っ直ぐな彼女のことを。
「……友が駆けつけ、銃を構えました」
「フン、例の女騎士か。あれも随分と幸運なやつさ」
マリアは初めて男の顔を注視した。その口振りは、知りたいことを知る者であると思わせたからだ。
「やつめ、序列も何もすっ飛ばして恩恵を受けて……極上のやつを……まあ、女だてらにちょっとした武勲を挙げたがな。それとて、しかし、全ては銀騎長閣下の差配次第。同志となるか、それとも糧となるか」
聞き捨てにできないことを言われていた。男の顔からは笑みもベロリと剥がれ落ちて、冷酷な苛立ちが露となっている。
「エティエンヌはどうしているのですか」
返答は木槌の打撃音だった。
「静粛にしたまえよ、被告。妄想のはなはだしさにより証言台に立つ者よ。君は尋ねられるたびに殊勝さを見せていればいいのだ……当法廷は君の運命を決するためのものなのだから」
居丈高な態度の裏に様々な悪徳が透けて見えるように思われて、マリアは眉をひそめた。この赤衣の男たちは何者なのだろうか。一様に若いが。
「おや、怖がらせてしまったかね? それは失敬。しかし君が悪いのだよ。誰もが欲するものを……しかも極上の代物を湧き出せる身ではあれど、所詮は小娘、社会を知らない。権威と法秩序の前には誰しも従順でなければならないと知りたまえ」
この男は力に酔っている。楽しんでいる。
マリアはそういう男たちを何人も見てきた。難民としての暮らしは暴力や権力に怯える日々だ。弱者を好きにできる立場に立った者が高潔であることは稀だった。
「あるいは、どうかね? その手より生ずるものを今ここで滴らせてだな……あいや、これは別段、要求しているわけではないのだがね? そんな特別な身体になってまだ慣れないわけだから、こう、事故も起きよう。そう、幸運な事故がね……」
欲望に濁った眼差し。舌なめずりすらしそうな気配だ。周りの男たちも同様の様子で、ねっとりとした視線が身体中を這い回るようである。
「不死の身というやつは、それはもう、素晴らしいのだろうねえ……!」
これが人間か。
いや、人間なのだ。これが。
「そもそもが不公平であり、不公正なのだ。一部の者だけが不死を独占し、空に上がるなり地に潜むなりして、死に怯える我々を馬鹿にしているなど」
然り然りと賛同が叫ばれる。あってはならないことだと憤っている。
「特に、スカイウォーカーだ。雲上カタコンペなどという傲慢な場所に住まう者たちだ。何の権利があって、あやつらは地上を見下している。パリに大穴を開けた大罪人どもめ。不死の恩恵も、天空の城も、一切合財を明け渡すべきだろうに」
そうだそうだと興奮する一人一人が、マリアの目には悪人と映らなかった。むしろ親近感が湧いたほどだ。
難民キャンプでは大人たちが熱心に話していたものだ。同じ顔をして、同じようなことを求めていた。綺麗な街に暮らす人々に対して、住居と仕事を分け与えるべきだと主張していた。それが平等であると。
いや、修道院に入れられてからも、そんな人々をよく見かけたのだ。
ニュースで政治家の汚職について流れるたび、似たような顔と要求があった。そのくせ難民についてニュースされれば、さも同情したような口調で言うのだ。努力が足らないと。多くを望むのはおこがましいと。
「実際のところ、民衆に広く不死を与えるべきではなかろうよ。刺激的であるし、争いの種ともなるだろうからね……哀れとは思うが無学の恐ろしさというやつさ。不死は新十字軍において正当に管理するべきなのだ」
ほら、やっぱり……マリアは小さくかぶりを振った。人間の生々しさが痛々しかった。そう感じる自分の余所余所しさは、物寂しい。
「……フン、こうまで諭してもわからんのかね。愚かな娘だ。そういうことであれば仕方がない。我々としては、酷でも厳正なる判決を下さねばなるまい」
赤衣の男は立ち上がるや、身振りも激しく述べ始めた。
「被告、マリア・ライミス! 偽りの奇跡をもって自らを聖母と標榜した罪により死刑! その方法としては火炙りを言い渡す!」
何を言われたかを数秒考えて、そしてマリアは当惑した。男の顔を凝視し、次いで周囲の男たちを観察した。どうやら本気のようだから、さらに困惑した。
死刑。不死の人間に対して。
あるいは何か特別な炎があって、新十字軍は不死を滅ぼせるのだろうか。それとも、科学による不死とは不完全なものなのだろうか。マリアには判断がつかないが、ひとつだけわかることがあった。
自分への刑の執行を、天と地の不死人たちは看過しない。
手首の羽飾りが震えに震え、今にも白い鳥となって飛び出していきそうだ。黒髪のひと房が今や鎌首をもたげ、牙を剥かんとしている。
大変なことになる、この判決結果は。
興奮し哄笑する男たちの向こう側で、黒衣の老人たちが、怯えたように首を振っていた。その一人が手を祈りの形に組んだから、マリアは尋ねたく思った。
何へ向かってどんなことを祈るのか、と。
世界はどうなってしまうのか、と。




