望まれた聖母・Ⅱ
「空の上に行ったなら驚くわよ。あなたが生まされる子の成長した姿……同じ顔をした少年と会えるわ。しかも一人じゃないんだからね」
蛇が身をよじらせ、まくし立てている。涙に滲んだ視界でマリアはそれを見た。
「『聖杯』たちの役割は、かび臭い儀式を司ることと、血を提供すること。その血は美味しいのよお……不死人の乾きを癒す極上のワインなの。長く飲まずにいては不死ウイルスが不活性化してしまうわ。死のような眠りに落ちてしまうわ」
赤々とした口腔が揺れている。まるで血痕だ。マリアはそれを嗅いだ気がした。
「ああ! おぞましき聖体拝領! 吸血鬼と何がどう違うのかしら! さあ、血が足らなくなったなら増産しなければならないわ! どこの誰に『聖杯』を仕込もうかしら……なんて。そんなもの、家畜の扱いよ!」
「いい加減にしないか!」
堪らず、マリアは目を閉じた。眩暈がひどい。天も地もない。
「モイレイン修道女……どうしてそう残酷な言い方をするのだ」
「現実が残酷そのものだからよ、メタコム先生」
「悪意ある解釈だ。現実とは幾千万の奇跡に満ち満ちている」
「どこが。宗教芸術の装飾を施したところで、あんたたちの厚顔な行いは誤魔化せやしないわ」
鳥と蛇の論争だ。寒気と怖気に耐えながらも、マリアはそれを聞いていた。
「肯んじないと思い定めては非難のための非難ばかりとなる。妄執だぞ、それは」
「どっちが。望まない妊娠と出産を強いておきながら」
「……選定は人為だが、その結果には運命が宿る。必ず幸いなものとするとも」
「幸い? ハンッ、じゃあ救って見せないさいよ。ほら、一人の女の子が今まさに不幸の真っ只中よ?」
「彼女を批判の材料にするな。彼女の苦境を喜んでいるように聞こえるぞ」
吐瀉物から離れ、シーツへ口中の残滓をこすりつけて、水を求めた。ペットボトルを運んできたのは蛇だ。顎で器用に蓋まで開けた。飲む。
「苦難を強いている……君からならば、いかなる罵詈雑言も受け止めよう」
冷や汗の浮く首元をやわらかく扇がれている。鳥が羽ばたいている。
「嗤える偽善ねえ。エイリアンアブダクションをやらかしておきながら」
「……神の子の誕生を模すことに、救いがある。聖性とは超越的なのだ」
「聖なるかな、妄信者の自己正当化と非科学的妄想! 愉快に生きているわね!」
「魔女の自己嫌悪かね? 不死の力を己が享楽のためだけに用いていて」
マリアはゆっくりと息を吸った。肺腑を巡る涼感に一つのことを気づかされた。嘔吐してより一度も呼吸をしていなかった。それで問題がなかった。
左胸に手を当てれば鼓動はある。腹にはまた別の鼓動もある。
「先生、修道士」
不死とは医学であるという。つまりは魔法のようであっても科学技術ということだ。聞いてしまえば、それはマリアにとってひどく腑に落ちる話だった。
なぜなら、雲上カタコンペがある。
青空に浮かぶあの巨大建造物は天然自然のものでもなければ、神の創造物でもない。それならば、不死とて、なるほど造れそうなものと思われた。
しかし、それならばなお問わねばならないことがある。
「不死であることには、一体、どんな意味があるのですか?」
白い鳥の向こう側のメタコムが、黒い蛇の向こう側のモイレインが、それぞれに鼻白んだ気配があった。
「マリア君。不死とは尊いものだ。死と、死にまつわる不幸の全てから人間を救うものだ。人類の進化の形でもある」
「マリア、私も救済であることには同意するわ。不死の貴さは否定できない。不老不死は人類の夢ですもの」
慌てたように言い募られた言説を、マリアは冷たく見やった。
「死が不幸そのものなら、生命の意味はその対偶となります。死なないのなら不幸でない……生きてさえいれば幸福であるという風に。それならば、どうしてあなたがたは争っているのですか?」
嘆かわしい、あるいはいっそバカバカしいとも思ったから、マリアはベッドへ伏せた。どうしたら呼吸を無意識なものへ戻せるか、試み続けている。
「気分が悪いようなら、我々は消えるし、誰かを呼ぶが……」
「妊娠していますから。男性にはわかりようもないでしょうが、味覚や嗅覚すら変わります。身体の変化に心が引きずられる……女性ならわかりやすいですよね?」
「……不死になって失ったものに、卵子の生産があるわ」
「ああ、それで修道女も地に足のつかないことを言うのですね」
わずらわしさを吐息で散らかした。マリアはもはや奇妙な動物たちを視界に入れたくもなかった。
「肉体があって、精神がある……あなたがたは自分がもう人間の奇抜に成り果てたことを自覚するべきです。言い様がいちいち誇大妄想的なのですよ」
まぶたの裏にいくつもの死が思い出されていた。真っ先に現れたのは死闘に倒れた友であり、最後に現れたのは苦難の末に亡くなった両親と犬だ。
「不死を科学したからには、もう、魂の存在を語れません。肉体に執着したのですから。死後の安寧は魂の実存なしには想像すらできないというのに……それは自分のための救いばかりではなかったはずなのに……」
ふと気づき、唇を噛んだ。マリアもまた咄嗟に魂を否定してしまったからだ。友の死後を否定して、不死へと引きずり込んだ。そこはかとなく感じていた罪の意識の正体が明らかとなった。
「種の知れた奇跡は、陳腐です。死を不幸と断じた生は、浅薄です」
吐き捨てるように言い切った。胸が熱い。
「誰もが不死を願い成就していったなら、世界は地獄そのものとなるでしょう」
誰のためとも知れない涙を流しながら、マリアは眠りを求めた。
友に会いたかった。謝りたいし、励ましてほしかった。道連れにしてしまった自分がそれを望むこともまた、罪深く思われて仕方がなかった。




