望まれた聖母・Ⅰ
独り、マリアはベッドへ腰掛けていた。
狭い地下室だ。簡素な卓上ライトがのっぺりとした壁を照らし、天井へと奇妙な模様を投影している。それを何とはなしに眺めていたが。
不可思議な現象が起きつつあった。
光と影が波打ち始めたのだ。風もなければ地も揺れていないのに、音もなく模様が変化し、天井の辺りに何かを描き出しつつある。
小鳥だ。ほのかに輝く白いそれが零れ落ちてきて、ベッドの柵にとまった。
「ユリの花のお仲間? それともドラゴンの方かしら」
微笑むこともなしに問えば、小鳥らしからぬ応答があった。ため息をついたのだ。羽をすくめる仕草などして。
「君の前では奇跡も形無しだなあ。中々の演出だと思ったのだが」
「……メタコム先生ですか?」
神学校の農業顧問メタコム。その正体はスカイウォーカーだ。炎の夜に空中で戦っていた。手渡されたユリの花はある種の兵器だった。
「またその名で呼んでくれたことを、深甚に思う」
「お世話になりましたから」
「……そうか」
小鳥に化けているわけでなし、これはおそらく電話のようなもの……マリアは淡々と思うばかりだ。驚きもなければ、思惑を隠していた男への怒りもない。
理不尽を味わい尽くしたからからもしれない。
難民としての旅。両親と犬の死。修道院への軟禁と孤立。唐突な妊娠と悪阻。謂れなき中傷と恐るべき襲撃。天使や悪魔を模倣する者たちの跳梁跋扈。勇者の死を省みない軍隊による幽閉。マリアは翻弄され、利用され続けているのだ。
退屈な時間に沈められ、心は凪いでいた。だからろうか、世界の在り様がつぶさに見て取れるように思われた。
メタコムという男には敵意も悪意もない。無思慮、無神経というわけでもない。むしろ気遣いがある。恐らくは責任を感じていて、安易に謝罪にしないことは誠意の表れであろう。
ただ、哲学が違う。立場も異なるのだ。
「無事はわかっていた。だが、まあ、元気に楽しくいられたはずもない」
「……私がここでこうしていると、知っていたのですか」
「聖母についての協定があるのだ」
「協定」
「我々はもとより、新十字軍も君を傷つけやしない」
驚きはなかった。そうではないかと疑っていたものに名前がついただけだ。
あの教会での出来事が……いかにも聖なる演出のされていた受胎告知が、偶発的なものであろうはずもない。それに前後した護衛や監視もまた。
協定という言葉で、マリアは察した。自らが用意された存在であることを。
「むしろ護っている。堕天した者たちや、それに惑わされた奴ばらは危険だ。聖母を獣のごとく欲するからな」
嘆かわしいという口調だ。小鳥が片翼を振りもする。
聖母。
マリアはその言葉を口にする気になれなかった。さも素晴らしいもののように語られるが、実感としては犯罪被害者の名称でしかないと思うからだ。新十字軍は繁殖牝馬と呼ぶ。蔑称であろうそれの方が、いっそ清々しい。
「あら、随分と勝手な言い草だこと」
女性の声がした。部屋の片隅にわだかまる暗がりからだ。
「聖母を最も欲しているのは、他の誰でもなく、空の上のご老人たちよ」
影が集束して一筋の縄のごとくになった。黒蛇だ。ピンク色の口腔が弓なりに笑みの形を作っている。
「だってそうでしょう? うら若き娘を集め、選び、整え……それを新十字軍に協力させまでして……お前たちは聖母を造る。一人の人間を欲しいままにした成果としてね。無恥な欲深さがなくてはとてもできないことよ」
言葉の端々に感じられる、義憤や同情。それはマリアに一人の修道女を思い出させた。
「モイレイン修道女」
「お久しぶりね、マリア。身体を冷やしてやしない?」
這い寄ろうとする動きを、鳥の羽搏きが牽制した。
「アリス・キテラだな」
「因縁ね、ゴーストダンス。仕留めたつもりだったけれど」
「愚かなことを言う。夜闇に紛れる身の上で」
ベッドのマリアを挟んで、白い鳥と黒い蛇が睨み合っている。まるでアニメのような様だ。修道院の映画鑑賞会で観たそれは、マリアにとっては希少な良い思い出である。
もはや楽しさは遠い。平穏さも。それでも思い返しさえすれば心に温かさが灯るから、マリアは両の手を胸に当てた。
「……ここでは、そなたをモイレイン修道女と呼ぼうと思うが」
「……そうね。私もお前をメタコム先生と呼ぶわ」
動物たちが寄り添ってくる。躊躇いがちにも見えたから、マリアは眼差しで両者を受け入れた。
「私は見舞いに来ただけだが、そなたは何の用だ」
「同じ用事とは奇遇なものね」
「偽るな。ここはそう易々と入り込める場所ではない」
「驕るわねえ。人間の欲を知るのは、むしろ私たちの方なのに」
空と地に分かれ住む不死人は敵対している。どちらも相手の存在を許しがたく思っている。マリアにもそれはハッキリとわかった。
しかし、人間はどうなのだろうか。
いわゆるゾンビ禍の混乱を治めるために組織されたのが新十字軍である。彼らはスカイウォーカーを人類の天敵と定めていたが、その実、協定を結ぶまでに協力していた。スカイウォーカーへ放たれた弾丸はなかったということだろうか。
では、その軍備はランドウォーカーへ向けられているのか。実際、あの悪魔のようなアルファベータやドラゴンに対しては激しい戦闘が為されたのだから。
マリアは己の手を見た。奇妙な痣のできた手の平を。
自分はもう人間ではなく、唯一の友である彼女をも人間でなくした。それとも、不死であれ人間は人間なのか。
人間を、自分のことのように考察していいものか……マリアには自信がない。
「あなたがたは、人間をどうしたいのです?」
マリアは問うてみた。少なくとも自分よりは「不死であること」に迷いのない二人に対してだ。
「よく見守り、正しく裁定していかねばならん。神ならぬ身ではあるが、神あらせられぬ世であるからには、我々には衆生を導く義務がある」
「……空は、神の実存を否定するのですか」
「心から祈りはする。しかし実行力を期待してはいないということだ」
「実行力……」
「歴史に思いを馳せたまえ、マリア君。あらゆる悪と、おびただしい死……旧世界はそれらに塗れ、溺れ、いかなる救いもなかったではないか」
言われるままに、マリアは歴史を思った。まだ空に雲上カタコンペが建造されるより前の世界をだ。大変に繁栄していた一方で、貧富の格差はのっぴきならないまでに拡大し、戦争が様々な形をとって繰り返されていたという。
その結末がゾンビ禍であり、人口激減とエネルギー不足により文明の後退した今日である。
「待てど暮らせど天の国が近づいてこないとなれば、誰かが神の力を代行しなければならん。つまるところが信仰と献身だ。それが我々の為さんとするものだ」
小鳥を通じてメタコムの語ったものに、マリアは頷かなかった。ただ静かに受け止めて、献身、と小さく呟いた。手は腹をさすっていた。
「私たちは空とは違うわ」
強く口調だった。
「あんな風に悪酔いはしていないし……そんな風に押しつけがましくも恥知らずでもないもの」
モイレインの声を発する蛇が、マリアを痛ましげに見ている。鎌首をもたげ、少し振り、キッと小鳥を睨みつけた。
「一人の人間は、何をどうしたところで、一人の人間でしかないわ。それ以上の何かになったつもりの誰かが、いつの時代も、誰かの人権を足蹴にするのよ」
人権と、マリアはまた呟いた。やはり腹をさすっている。
「私たちは不死を広めるわ。こんなものは結局のところ医学の成果でしかないんだから、望む者のいる限り広まっていくのが自然というものよ」
「不死が……医学?」
「正確には、遺伝子工学がたどり着いた生体ナノマシンね。不死ウイルスと呼ばれているわ。これに感染し、抗体を得ることで、人は不死性を帯びるの」
「感染……私も?」
「ええ、感染しているわ。それもとびきりに純粋で強力な、未分化のウイルスに」
蛇の舌がチロチロと出し入れされた。腹を、指し示したようだ。
「感染のたびに変異し、バリエーションを増やすも薄弱化していく不死ウイルス……そのオリジナルである抗体産生細胞を持つ人間のことを、私たちは『聖杯』と呼んでいるわ。それは、彼は、クローン技術により増やされる」
胎動がして、胃が押し上げられた。
「『聖杯』の赤子を孕まされたことで、あなたは感染したのよ。処女受胎を演出されてね」
マリアは吐いた。量は少しだが、耐えられない色と味をしていた。




