恵まれた人・Ⅱ
ああ……これは普通のものではない。異常の光景が始まる。
わかったところで見ないわけにもいかず、見たところでわかるとも限らないが。
初めに見えてきたのは……夜にも浮かぶ人工の虹。星空をすら白く占拠して、雲上カタコンペは世界を囲っている。
雨が降っていればよかったのかもしれない。
そうすれば、老婆たちの真夜中の墓参りも、ただ墓守の眉を顰めさえる程度の奇行でしかなかったのだろう。いかなる陰惨も世界に現れなかったのだろう。
「来ぃてる。来てぇる」
「ああ、誰ぞ来ておる」
腰の曲がった二人は杖を持たない。墓へ供える花も、闇を照らす灯りもない。
そこには敬虔さも神妙さもない。慣れ親しんだ者の気安さをもって死者の眠りを足下に踏んでいる。ここは己らの縄張りだと言わんばかりの態度でいる。
「ヤッツか。東っから道を歩んでぇきたってゆ、あんの」
「先週、新十字軍の研究所が襲撃されたと聞く。あるいは……いや、しかし」
額を擦り合うようにして囁きあう。ケープの裾の糸飾りが夜風に軽々しく揺れている。
「不安が怖ぁい、な。用っ心しないと、な」
「まさか、我らともあろう者が、独りでないことに安堵を覚えようとは」
そろそろと尻を合わせ、次いで背を合わせた。背筋がピンと伸びている。
押し黙り、何かを待ち受けて……風切る音の鋭利さが、墓地の静寂を裂いた。
どちらが先であったか。ギラリと月光を弾いたのは。老婆たちの眼光か。それとも……飛来した太矢の矢じりか。
「カッ! 甘ぁいよ!」
太矢は掴み取られた。老婆がそれを為した。
いや……その女は老婆か? 本当に?
「そこか!」
もう一人の老婆は鋭く言うなり銃を構えた。
大口径の回転式拳銃だ。人間へ向かって撃つにしては強力に過ぎるだろうそれは、当然、反動もまた凄まじかろうに。
二丁拳銃だ。それを連射する。平気な顔をして。
墓地の静穏を粉微塵にして何ら憚ることなき十二発の弾丸は、しかし獲物を捉え損ねた。
「逸らされただと!?」
「まっさか! 雲ん上っからのわけもなっし!!」
一人が銃を装填する間に、もう一人が跳んだ。驚くべき跳躍だ。墓石を一度に五つも六つも跳び越え灌木の裏側へ……太矢が飛来し、大口径マグナム弾が撃ち込まれたそこへ。
「あバなッ!?」
悲鳴とも怒声ともつかないそれは空中で発声された。クルクルと飛ぶ、切断されたばかりの生首が発したのだ。
「ぇオ! ェを!」
地に落ちてなお声を出す。その首は。血と風に化粧が落ちて、うら若き美女だ。
老婆ではなかった。そしてそもそも人間ではなかった。その女は。
「この切り口……やはり! やはりか! しかし、なぜ……どうして!?」
つきつけた二丁拳銃がカタカタと音を立てている。重さによる震えではあるまい。
「……どうして、か」
夜にも濃い陰の内から立ち現れたのは……灰色狼?
いや、違う。灰色のロングマントを羽織った人間……人間か?
とにかくも長身の男だ。フードをかぶっていて顔立ちは窺い知れない。左手にはクロスボウを提げている。
「暢気なことを言うやつだ」
男は首なき人体を踏み押さえている。それは血を噴き出しつつも、足首をつかみ爪を立てている。男は一瞥とてせずに胸部を踏み潰した。心臓の位置だ。
「安全装置のことを言っているのなら、こう、手元のスイッチを切り替えればそれで解除できる」
右手で示してみせたのは、懐中電灯とも短杖ともつかない品物だ。
科学的な部品が見られる一方で、菱形を並べて紐縛る様は東洋の刀剣を思わせる。それにしたところで柄だけではあるが。血の色の紐飾りが揺れる。
「実に呆気ないものだ。所詮、連中の信念なぞはその程度のものという証左だな」
男はつまらなそうに言い捨てた。
銃弾がそこへ殺到した。男の隙をついての猛撃だ。人間を殺すことなどは容易く、牛や熊、象ですら打ち倒すだろう大口径マグナム弾の連発だ。今度こそはと男に迫る。
当たらない。
狙いは違えていない。それでも男に触れられない。
「これを見てなお銃器に頼るか」
男は右手をつき出している。柄だけのそれを構えている。
「堕天する際に捨てたのか。もとより所持を許されていなかったのか。それとも腐肉を喰らっただけの成り下がり者か……いずれにせよ小物だな」
何だというのだ。その道具は。首を切断したからには、剣だ。
しかし今、それは盾であった。不可視無形の力が壁のように放出されて、弾丸の尽くを脇へと逸らし切ったのだから。
「こ、こんなことが……ゾンビ狩りでもあるまいに……!」
「いや、正しくのそれだ。ただし俺は所属を考慮しない。空の上だろうが、人の中だろうが、地の下だろうが……俺の間合いの内か外かの違いでしかない。会う。即ち滅ぼす。それだけだ」
「ふざけるな! 貴様とて……貴様とて!」
「そうだな。これは半ば同族殺しだ。しかし共喰いよりは幾分マシだろうよ」
女は拳銃を捨て逃げ出した。まだ何事か喚く生首を見捨てて駆け出したのだ。
速い。尋常の速さではない。
墓石を縫うようにして駆け抜け、時に墓石を投げつけることまでして、逃げに逃げる。
「ああああ! 嫌だ! 嫌だああ! ソレは……ソレだけは……!」
もはや老婆を装うどころか人間をすらかなぐり捨てて、化け物じみた運動能力を発揮している。
「ソレが嫌だから、だから、空へ逃げたのに……!!」
「ならば地へなど降りず眠っていればよかったろう」
しかし、男もまた速かった。
「貴様らが忌み嫌うソレと少しも違わない、白く乾いた永久の眠りにな」
灰色のマントをはためかせ突進する。フードの奥から覗くその髪色は、夜闇よりも暗き黒色だ。
「あああ! 嫌あアアああアアア!!」
「もはや語らん」
特に大きな墓石を挟んで並走したその瞬間、男はその右手を振り抜いた。
掛け声なく、物音なく、刃なし。しかし狂猛な殺意だけは込められていた。一筋の恐るべき断裂がそこに生じたのだから。
「あ……ガ……!?」
重い音を立てて倒れた墓石のその向こうで、女は身体を散らからせていた。
組み立てれば元の一人になるだろうそれらは、どれもが激しく動く。夜にも鮮やかな血の海から水揚げされた魚ででもあるかのように。
「おヲヲ……血、血ぃ……こん、コンなに、零れテワ……!」
女がもがく様を見下ろして、男はただ灰色の沈黙をまとうばかりだ。
既にその手には武器を持っていない。代わってマントの内より取り出したのは、鉄の杭だ。
「ああ、アアア……」
色々と出す。鉄杭と金槌、そして幾本ものペットボトル……その中身は油か。
やがて炎が立ち昇った。
墓守とて我が身が可愛かろう。尋常の内側にしか働く義務はないだろう。
銃声を聞いたとて誰一人として様子を見にくるものなどいないその墓地で、灰色マントの男は独り立ち尽くす。猛々しさは消え去った。あるいは火へとくべたか。
「ゾンビが墓地で滅ぶ。僥倖だな。それが自然というものだ」
誰にともなく呟いて、男は夜空へと顔を向けた。
灰色のフードの奥には三十絡みの精悍な顔つきがあって、その黒瞳に空の一線を映している。
月にも遠慮を強いて在り続けるものを……雲上カタコンペの白色を。
「見ているものならば、降りてくるがいい……白々しく空に巣食う者どもよ。不自然の権化よ」
灰色の雲が流れ来て、星の空の荘厳を陰らせた。しかしはぐれ雲でしかないそれでは、不動の白線を覆いきれやしない。
それでも今は、立ち昇る煙が男から空を隠している。
「降りてこぬならば……そこで思い知れ」
鋭い犬歯が露になった。
笑う……嗤っている。男は真夜中の墓地で天を侮蔑している。
「『俺』が在るというただのそれだけで、貴様らの理想は破綻しているのだ」
夜空に遠雷が轟いた。墓地には金槌で何かを砕く音が連続した。東の空には暗雲が立ち込めて、今更ながらの雨を運び来ようとしている。
覚えておくべきだ。この光景は朝へと持ち帰るべきだ。
そう心に強く思ったとて取りこぼす。掌で受ける雨のように。無残なまでに。
しかたがないと、私はいつものように諦める。ままならぬもどかしさを抱えること……それは何も『透視』に限った話ではないから。
◆◆◆
「……やっぱり、雨だ」
窓を伝う水滴を横目にクラリスは呟いたものだが、家族の反応はにべもなかった。
「見ればわかる」
「ええ、本当に」
「何で若干してやったりって顔してんだ? 軽くイラッとくるんだけど」
父、母、弟と順に憎まれ口を叩いてくる。特に最後は何だと思う。
これは遅起きへの制裁なのだろう。クラリスは食卓に並ぶパンやサラダに誰も手を付けていないことを見て微笑んだ。
父が喉の調子を整えたなら、それは両手を合わせる合図である。
「天にまします我らの父よ、貴方の慈しみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意された食事を祝福し、私たちの心と体を支える糧としてください」
四人で同時に十字をきる。
「父と、子と、聖霊の御名によって……アーメン」
清らかなる朝食の始まりだ。週に二度三度しか帰宅できないクラリスにとって、この時間は身体よりも心に栄養をもたらすものだ。無論、食も進む。
そしてクラリスは誰よりも牛乳を飲む。それはもう、飲む。
「姉ちゃん姉ちゃん、聞いてくれよ。凄ぇんだよ」
弟はペロリと自分の分を平らげて、コップから食後のコーヒーの湯気を立ち昇らせている。クラリスの見たところミルクもシロップも投入していない。
ちょこざいな、とクラリスは思った。口にはしなかったが。
「俺さ、今度、新十字軍の養成校に推薦されそうだぜ?」
「はぁ? アンタ、勉強からきしじゃない。何がどうしてそんなことになるのよ」
「サッカーだよサッカー。トロい姉ちゃんじゃ絶対に楽しむことのできないスポーツで注目されてんの、俺は。とっても運動神経がいいの、俺は」
「銀騎長創設の特待制度か……脳筋突撃兵枠……代表選手はエティエンヌ……」
「え? 何だって?」
何でもない、とクラリスは誤魔化した。同僚の性格や学力については守秘義務があるだろうと思われたからだ。
「やめておいた方がいいと思うなー。新十字軍の仕事ってきついし危ないし、そのくせあんまりお給料よくないしね。変なところで出し渋るというか」
「え、だって姉ちゃん高級取りじゃん」
「私は特別手当がついてるからね。フッフッフ。今朝は雨だと夢で予知したりできるし?」
「嘘ぉ? そんなしょうもないことでお金出てるの?」
「しょうもない言うな。他にも色々とやってるの。だから忙しくて、満足に病院にも……」
ピリリと電子音が鳴って、クラリスの憩える時間は終わりを告げられた。
電話に出るまでもない。窓の外には黒い高級車がアイドリングも切らずに停まっている。
「……俺もさ、早く稼げるようになるから。そうすれば姉ちゃんだって」
このところとみに男らしくなってきた弟の、その額を指で小突いて、クラリスは笑った。
「そんな顔をしないの。幸せ逃すわよ?」
どうにも自分の周りには思い詰めた人間が集まるようだ。両親との間に視線のやり取りをして、クラリスの笑みは深まるばかりである。
「仕事はね、元気に笑うためのものだってことを忘れないように。アンタの得意な球蹴りだってそうでしょ? 難しい顔して頑張るのも大事かもしれないけど、やっぱり楽しくなくっちゃ!」
食卓に向かって十字をきってから、クラリスは外へ出た。
外は雨でも、夢見の悪さからくる気鬱はすっかりと晴れていた。