望まざる目覚め・Ⅱ
「スカイ、ウォーカー!!」
エティエンヌにとって、兄は誇りだった。
幼い頃から頼りにしていた。あの悪夢のバースデーディナーにおいてはギリギリのところで命を救ってくれた。両親との死別に動揺するばかりの妹を護り、自身も未成年ながら大人と渡り合ってのけた。親代わりに育て上げてくれた。
両親の仇討ちを引き受けたのも、兄であった。
怪物と戦うため、新十字軍の騎士になった。エリート軍人だ。颯爽と活躍する様はカッコ良かった。悪を憎み善を為す、誰よりも強い男……憧れた。肩を並べて戦うことが目標だった。
そんな兄が戦死だなどと、受け入れられなかったから。
絶望と憎悪の果てに己の名を捨てたのだ。兄の名であるエティエンヌを名乗り、兄に代わってロワトフェルド家の復讐を戦ってきた。
怪物、討つべし。それを生み出すスカイウォーカー、滅ぼすべし。
それが、男装の騎士エティエンヌ・ロワトフェルドという、彼女であったのに。
「うあ、あああああ……!!」
人間を怪物にしていたのは、新十字軍だった。部下の無残が迷う余地もなく真実を示した。不死となった身を捕らえ、解体しようともしている。騎士であることに何の意味が、価値があるというのか。
それでも、兄は犠牲者に違いなかった。
復讐の対象が広がるだけなら、よかった。それでも奮い立てたのだ。スカイウォーカーもランドウォーカーも新十字軍も、等しく邪悪な存在と認識するだけだ。激情のままに戦いを挑めばいい。
「どうしたんだ、セシル」
聞きたくなかった。
「落ち着け。そしてカマイタチを手に取るんだ。またガスが充満してしまうぞ」
黙ってくれと、声にならない声で訴えた。会話を成立させたくなかった。
「さあ、急げ。不死の身になれたからといって、呼吸はするんだから。脱出のチャンスを無駄にしてはいけない……それとも、まさか僕が誰かわからないのかい?」
耳を塞いだ。それで気づいた。不可視の力が換気口から耳元へ伸びてきていて、音を伝えているのだと。
「僕はエティエンヌだよ、セシル。天の高みから、今、お前を救いに来たんだ」
本物のエティエンヌ・ロワトフェルドにそんなことを言われてしまったなら。
「さあ、立ち上がるんだ」
もう、エティエンヌは……そう名乗っていたセシルには、どうしようもない。
這いつくばり、震える。点々と落ちていく雫が涙なのか涎なのかもわかりはしない。嗚咽を漏らすセシルの脳裏に、ジワリと、絶望が滲みてきた。
もう、楽になろうか。
いっそこのまま切り刻まれてしまうなりして。
目をつぶり、見聞きする何もかもを拒絶して、セシルはそんなことを思うのだ。全ては悪い夢だった。十歳の誕生日に自分は死んでいて、その後のことは妄想や幻想でしかない……この世界を呪うよりもマシな解釈ではないか。
床の硬さと冷たさ。震動。近づいて来る人間たちの気配。戦場で培った洞察力が、淡々と、セシルに危険を知らせている。
扉の前で止まったそれらには装備に軽重の差がある。銃器で武装している。どういうわけか意識はあるものの、それと知られればどうなるかわからない。ただちに行動しなければならない。もしも抗うのならば。
声が、聞こえた。
スカイウォーカーとなった兄の声ではない。それは耳から閉め出している。物音ではないのだ。心の奥底から生じた、今こそ聞きたい声だ。
「こんな結末を、私は認めません」
マリアだ。彼女にそう言われたことを思い出したのだ。それははたして、どこでかけられた言葉だったろうか。
「戦ってください、エティエンヌ。生と死と不死とが混在するこの世界で……全てを知ったその先に、貴女の、貴女だけの勝利を得ることを祈ります」
友が、気高く強い心の持ち主が、セシルへ闘争を促している。まるで預言だ。
何か答えたかったから、口元に触れた。風が生じている。忌まわしい声に念動力と呼ばれた力が、ガスを遮っている。
セシルは自ずから抗っていたのだ。ならば戦えもするのだろうか。
扉が開いたようだ。ガスマスクの呼吸音と、銃を構える物音。囲まれた。見下ろされている。手が伸びてきた。髪をつかまれた。顔を覗き込まれた。
「こいつ、意識が!」
防護服へボディーブローを見舞った。近くのもう一人へは右フック、ガスマスクを破壊した。破壊しきれた。拳を覆うように見えない力が働いている。
脅威は武装した者―――中世風の装束に軍用マスクをかぶった修道士たちだ。
床に転がる。そうやってアサルトライフルの銃口から逃れる。目に付く脚を蹴り凪いだ。マスクを叩き飛ばす。一呼吸で意識を失う者がいる。酸欠の反応だ。窒素ガスか何かだろうか。引火性はない。
「クソが!」
発砲。当たらずも危うかった。
「うわ、やめろ! ぎゃあ!?」
防護服の誰かを盾にした。怯んだ隙に跳びかかる。マスクを剥ぐ。剥ぐなり別の修道士の方へと突き飛ばす。混乱を拡大させつつ、動く。絶え間なく襲う。
一通りを倒しきるのに、さして時間はかからなかった。
修道士四人に防護服の作業員が六人。つまりは十人の新十字軍関係者を見下ろして、セシルは己の立場を否応なく理解させられた。
抵抗した。戦った。これでもう後戻りはできない。
体格が似た者の上着を奪った。靴もだ。ハンドガンは二丁盗った。新十字軍標準のグロックだ。アサルトライフルはM4。取り回しのいいカービン銃である。マガジンも幾つか上着のポケットへねじ込んだ。
サイレンが鳴っている。廊下の先から剣呑な騒ぎが聞こえてきている。天井端のカメラレンズをチラと見た。銃の重さがひどく頼りなく感じられた。
セシルは自問した。脱出できるだろうかと。戦い抜けるだろうかと。
拳を握った。見えない力の在ることはわかるものの、まさにつかみどころがなく、どれほどのことができるかもわかりやしない。
いつだって、そんなものだった。
自分が何者なのか理解しがたいから、名乗ることで、こうあれかしと思い定めてきた。強がってきたのだ。
「……マリア……」
大切な名を呟いた。あやふやな己の名とは異なり、輝かしく屹立している名を。
「私の、戦い……」
磨き抜いた戦闘勘が警鐘を鳴らしている。間もなく敵が来襲する。その数は十や二十ではきかないだろう。しかも地の利は向こうにあるのだ。
これもいつものことだった。セシルの人生は逆境ばかりであったから。
「……私だけの、勝利」
セシルは浮かぶものを見据えた。刀身のない剣……スカイウォーカーの超科学によって造られたのであろう武器……カマイタチ。
待ちぼうけるお行儀のよさを鼻で嗤った。
「そうだ、セシル。それを使うんだ。きっと困難を切り拓く力になる」
「……どう、使う」
「念動力を流し込めばいい。それで起動しさえすれば、あとはシステムが力を最適化してくれる」
必要なことは聞いた。だからもう、不快なそれを耳朶から弾き出した。念動力とやらには念動力で対抗すればいいようだと、冷めた心で把握する。
カマイタチを握り、力を込めた。
たちまちに刃が生じた。無色透明の、奔流のごときものだ。空裂の高音が耳に鳴り響く。絶叫のようなそれを、意志の力でもって抑え込む。激情を胸の内へしまい込むようにして。
軽く、振った。それだけで、天井端のカメラレンズを切断した。
感動はなかった。これが不死人の主力兵器なのだと理解するばかりだ。性能について詳しく尋ねておけばよかったと悔い、いや二度と会話すまいと思い直した。
エティエンヌは死んだのだ。兄である本物も、その妹であった偽物も。
そして不死人が穴を埋めた。頭数をそろえた。
セシルは認めた。火炎の夜を越え地下に目覚めた己は、不死人だ。つまりは亡霊のようなものだ。もとより復讐鬼のようなところがあったが、より呪わしい存在に成り果てた。もはや明るい世界へ回帰することなど望むべくもない。
しかし、戦える。
朽ちずに済んだからには、この世界へ影響できる。悪なる理不尽へと反抗することができる。そのための力もある。
「私の結末はまだ先だ……そういうことだろう、マリア」
セシルは扉へ向かった。
殺到しつつある敵勢を打ち払うべく、銃と剣とで武装して。




