望まざる目覚め・Ⅰ
ガスだと判断するや否や、エティエンヌは跳び起きた。
注入口を探す。天井だ。空調システムと思しきものが、白い何かを吐き下ろしている。臭いを伴わないものの吸えば碌なことにはなるまいと察せられた。
不死であることは安心材料にならない。
ここは、それを解体するための部屋なのだから。
エティエンヌに油断したつもりはなかった。部屋を調べ尽くし、疲れ、少しばかりの休憩を入れたところだった。二日ほども飲まず食わずでは、踏ん張りもきかなかったのだ。
「ふっ!」
無呼吸でもって廃材を投げつけたが、注入口の覆いすら壊せない。棒となる長さのものがない。ベッドは床にねじ止めされている。
天井の隅を睨みつけた。埋め込まれたカメラレンズの先では、一体何者が、どのような表情で室内を監視しているのか。不死となった肉体をどうこうしようとする者……つまるところ、それはマリアを巡って争っていた者たちである。
スカイウォーカーではないだろうと思われた。不可思議な幻覚を見せてくる迂遠さは、この部屋の生々しさとそぐわない。
火災の森の状況から考えれば、新十字軍か。
それともランドウォーカーか。あるいは不死の商人と自称したマフィアなのか。
「おおお!」
エティエンヌは渾身の力で廃材を投げた。カメラへ向かってだ。過たず命中し、保護ドームごとそれを破壊するも、そこまでだった。
膝と頬が冷える。痛む。
エティエンヌは己が床に伏せていることを発見した。
倒れたのだ。いつ意識を失ったのか、どれくらい失っていたのかもわからない。しかしエティエンヌを捕らえた者たちに充分な時間を与えたことは明らかだった。床伝いに足音の接近を感じ取れる。
身体がいうことをきかない。呼吸も困難だ。それでもどうにか眼球を動かした。
来た。扉を開けて複数人が入ってきた。先の幻覚のままの防疫服姿だから、手押し台車に乗せられた道具についても想像がついた。
「ひどいな。まるでゴリラが暴れたような荒らされようだ」
「ドラゴンでないだけよかったじゃない。火でも吹かれたらたまらないわ」
「純度の高い不死だ。そういう異能があってもおかしくはないぞ」
防護服たちのくぐもった声を聞く。面覆いの反射で顔は窺い知れない。
「ドラゴンスレイヤーも形無しだな。煽情的といえば煽情的な姿だが」
「いいから、そっちを持て。拘束は厳重に」
ベッドへ横たえられた。抵抗しようにも手足が少しも動かない。声を発することもできない。乱れた前髪の奥から、手首がベルトで固定されていく様を凝視するよりない。
「極上とまではいかないが、それに次ぐ血肉となるな」
「そうね。誰が接種できるのかしら」
顔に布がかぶせられた。手術衣は取り除かれた。注射器を取り扱う音がする。
「『百人隊』にじゃないか? それとも別の功労者かな」
「決めるのは銀騎長さ」
百人隊。銀騎長。どちらもの言葉が、一人の人物を連想させる。
ピガール・ノワ。
新十字軍のナンバーツーであり、エティエンヌの上司であり、亡兄……エティエンヌと名乗るセシルの兄であるところの、本物のエティエンヌ・ロワトフェルドと親交のあった男だ。親友とも聞いていた。
彼が黒幕なのか。
ロワトフェルド家の悲劇も、デヴィッド修道士たちの惨劇も、全てはあの男により引き起こされたのか。
腕に針が刺さった。冷たい何かが注入された。麻酔の類か、それとももっと恐ろしい何かか。怖気がエティヘンヌの全身へと巡っていく。急速に暗く狭まる視界は、命の終わりそのものと感じられた。
いや、不死となった身にはもっと悪いものかもしれない。
見せられた幻覚よろしく切り分けられ、聞こえた言葉通りに取り扱われたなら……それでも死ねないというのなら……地獄よりも地獄らしい末路ではないか。
エティエンヌは叫んだ。声にならなくとも。
そして、それは答えられたのである。
「セシル。大丈夫か、セシル」
その声。懐かしい声。暗黒へ落ちるところへ手を差し伸べられたかのような。
「落ち着いて、自分の身体に集中するんだ。大丈夫。お前なら大丈夫さ、セシル。どうしようこうしようと、切っ掛けを外に求めちゃいけない。大事なのは胸の内だ。自分を自分たらしめるものは、何人も踏み込めない心の深奥にあるんだ」
その言葉。説教臭くも頼もしい、励ましの言葉。ジュニアハイスクールの陸上競技会で、今は亡き兄からもらったアドバイスだった。
それは、追い詰められた者の求めた幻聴でしかないのだろうと思われた。
しかし今、再び心震わせられたから。
「あああっ!」
エティエンヌは吠えた。顔面の布を吹き飛ばし、防護服たちを仰け反らせた。
ともすれば遠のく意識を、唇を噛み破ることで引き留め、両の手に力を込める。渾身の力をだ。いっそ手首など折れてしまえとすら思った。
「馬鹿な! どれだけ麻酔薬を入れたと……常人なら三度は死ぬ量だぞ!」
「これだから純度の高いやつは! もう一度ガスを! 呼吸をするからには……」
硬い。手足を縛るベルトは、固定部ばかりかベルト自体にも金属が使われているようだ。束縛のされかたもよくない。上手く力が入らない。さりとて手間取ることはできない。すでに防護服たちは扉の向こうへ逃げうせた。
最後のあがきとは思わなかった。まだあがききっていないからだ。
息を整える。手足にではなく、心の内へと意識を向ける。クラウチングスタートのイメージだ。瞬発力を発揮するためであったが。
エティエンヌは奇妙な感覚に出くわした。
言うなれば、風。身体の奥底から湧き出ずる流れ……目に見えない圧力のごときもの……それを知覚したのだ。筋肉よりも威力を発揮するものと感じられる。
手探りのたどたどしさで、その力を操った。束ねるや暴力的にのたうつ奔流を、拘束具の方へと導いた。無形のそれが触れるや、ベルトが弾け飛んだ。手足も腰も解放されて、肌には痛み一つ生じやしない。
エティエンヌの背筋を、汗が冷たく滑り落ちた。
既知の奇怪さだった。見えない力による不可思議……空中を闊歩したり、飛んだり、銃弾を弾いたり、姿を消したり……それらに対抗することが戦いだったから。
「さすがはセシルだ。見事な念動力じゃないか」
また、声。間違いなく聞こえた。電話よりも明瞭なほどだ。
「だが、まだまだ心許ないな。完全に使いこなすには訓練が要る。せめてもの品を送るよ」
何を言われているのか、わからなかった。相手が何者なのか、わかりたくもなかった。それでも耳には微笑みの気配すら聞こえている。促されて天井を見るや、光が弾けた。
地下を揺らし轟いたものは雷鳴だったろうか。ならば今見た光は雷光か。
室内の照明を凌駕する輝きでもって、何か奇妙な品物が出現した。
お綺麗に装飾された、懐中電灯のごとき物。
頭の隅の冷めた部分が、この大仰な状況を分析していた。換気口を塞ぐ格子が外れている。床に落とさない辺りに妙な行儀の良さがあって、かつての兄を思い出させた。
「お前用に拵えた『カマイタチ』だ。初心者用の低出力設定になっているが、まあ、とりあえずはそれで充分だろうと思う。受け取ってくれ」
空中に浮いている、それ。見ようによっては刀身のない剣のようでもある。握られることを待ち構えている。
エティエンヌは自らの喉をつかんだ。爪を立てる。息ができないでいる。
不死人の武器だ、これは。
修道院が襲われた夜に、ガロンヌ川のほとりが燃えた夜に、不死人たちが手に手に握り振るっていた。様々な形があったが、見えない力を発揮するという意味では共通していたように思われた。
「さあ、急ぐんだ。地下にいるのでは、空からの助力にも限りがある」
込み上げたものを嘔吐して、首を掻き毟って、エティエンヌは叫んだ。
「スカイ、ウォーカー!!」
兄の……兄であった者の声を振り払うべく、絶叫した。




