三つの再開・Ⅲ
「おお、彼らはもはや飢えることなく、渇くことなく、太陽にも炎熱にも打たれることなし……」
神父の読み上げる聖書の文言を、シャルル・A・クリストファーは右から左へと聞き流していた。白々しく感じられてならなかったからだ。
一心に棺を見る。姉、クラリス・F・クリストファーの遺体を収めた棺を。
薄暗い教会の中、祭壇にしつらえられたそれは、ひたすらに静かだ。
「もはや何者も呪われることなし。神と小羊の御座が都にあらせたまいて、そのしもべたちは神に仕え申し上げ、その御顔を仰ぎ見奉る……」
姉は頑張り屋だった。やさしくほがらかで、頭がいいくせに少し抜けたところがあって、よく怒りよく笑い、一生懸命に生きていた。
そんな姉には子どもがいる。一歳半の女の子だ。
父親は亡くなってしまったから、家族で育てると決めた。暮らし向きは貧しくとも心豊かな家庭で育もうとして……できなかった。その子が先天的で重篤な病気を抱えていたからだ。月々にかかる医療費は大きかった。姉は新十字軍へと志願した。
そして、死んだ。路地裏で倒れているところを発見された。
「もはや夜は来ない。神にてあらせられる主が彼らを御照らしなされるのだから、彼らには灯火の光も太陽の光もいらない。彼らは永遠の王となる……」
シャルルは思う。なぜ姉がと。どうしてだと。
敬虔だったではないか。姉も自分たち家族も、真っ直ぐに真っ当に生きてきた。誰にも、神にすらも恥じるところはない。困難を乗り越えるべく団結していた。
「……こんなの、おかしいだろ」
確かに姉は軍人だった。新十字軍の上級騎士だ。危険と隣り合わせの仕事であることはわかっていた。いつかこういう日が来るかもしれないと覚悟もしていたが。
心臓発作とは、何だ。買い物をしていただけではないか。
何の罪があって、そんなことになる。
姉の安らかな顔をせめてものことと喜んだ両親が、悲しかった。惜しい方を亡くしたと冷めた目で言う新十字軍関係者が、腹立たしかった。粛々と参列する者たちすらも、シャルルには忌々しくてたまらない。
得意げに語るな、神父。姉の死を飾り立てるな。ミサなどやっている場合か。花を献じてどうなるという。遺族だからと、呼ぶな。何の用だ。
「聖体……拝領」
口に含まされたウエハースを、吐き捨てるわけにもいかず、食べた。乾いた笑いが漏れた。いつもならば神聖さを覚えた行為が、今はあまりにも馬鹿馬鹿しい。
叫び出しそうな口で自らの腕を噛み、シャルルは走り出した。
参列者を押し退けて、教会を飛び出して、闇雲に脚を動かす。何かを踏み、ぶつかっても、なお走った。花壇を跳び越えたところで、蹴躓き、転んだ。
息を乱して、シャルルは空を仰いだ。
灰色にうねる雲間に白線が覗いている。白い鳩が飛び行き、誰かの墓石の上に降りた。風が吹いている。草木や泥土の湿気が運ばれていく。
姉のいなくなった世界は、どこまでも、常と変わらない有り様だ。
「畜生……俺は、俺だけは認めないぞ……!」
嗚咽するシャルルの耳に、足音が聞こえてきた。妙にのんびりと土を踏み、何度か止まり、どういうつもりなのかと耳を澄ませてしまった頃合いになって側へやって来た。
「おうおう、元気なこった。服汚しちまって」
くたびれたコートを羽織った老人が、やれやれとばかりに言う。レナルド・M・ギャバン。姉を交えて何度か面識のある刑事だ。
何を言われるかと身構えたシャルルだったが、ギャバンは腰の張りだの膝の痛みだのをブチブチと愚痴るばかりだ。さらには煙草を探して方々のポケットをまさぐり、見つからず、不貞腐れたように座り込んだ。シャルルの隣にだ。
「……何です、ギャバンさん」
「別に何でもねえよ」
「連れ戻しに来たんじゃ?」
「嫌だね、めんどくせえ」
あんまりと言えばあんまりな返答に、シャルルは呆れた。身を起こし、老人と並ぶように座る。何か毒気を抜かれたという気分だった。
「姉ちゃんのために、来たんでしょ?」
「そりゃあな」
「皆して祈って……それで満足しましたか」
「嫌な聞き方だなあ。祈っちゃダメだとでも言うつもりか?」
「え?」
「お前さん、祈るそぶりも見せなかったからな」
言われて初めて、シャルルは自覚した。自分は祈っていないと。全く祈る気になれないでいると。
「何で怒っているのか、まあ、何となあくはわかるがよ……どうあれクラリス嬢ちゃんの安息を願ってやれよ。大事なことだろ?」
「……子どもを残して、安息なんて」
「つれえところだがな。大なり小なり親ってえのはそういうもんさ」
「それは」
「子どもの葬儀に出るなんざ、哀しくて哀しくて、堪らんからなあ」
両親の悲嘆を思えば返す言葉もなかった。唇を噛む。
「祈るよりねえんだ、生き残った方は」
うなづけやしなかった。祈ったところでどうにもならないと思うからだ。また、頭ごなしにも感じた。若者の取るに足らない我がままと見られていると。
だからシャルルはギャバンを睨みつけようとして……当惑することとなった。
老刑事の横顔は苦悩に塗れていた。不安や悲痛を押し殺して、泣くこともできないで、じっと耐え忍んでいるという様子なのだ。
まるで丸めた新聞紙のようだと、シャルルは思った。古新聞だ。哀しい記事ばかりが載ったそれを泥水で濡らし、押し固めたなら、こうも無残なものに成り果てるだろう。
自らの頬に触れていた。若くやわらかな肌だ。涙の痕がむずがゆい。
「さあ祈ろうや。さもねえと、全部が全部、自分が悪いように思えて仕方なくなっちまうぜ。こんなろくでもない時代なんだ。正しいことなんざ、それこそ天の国くらいにしかあるめえ……そこにはせめてあってくれねえとなあ」
ああ、これが。
これが信仰というものか。
目の当たりにしたものの正体を察して、シャルルはギョッとした。まるで共感できず、自分とは縁遠いものとして見つけてしまったからだ。
両親はどうなのか。姉はどうであったのか。
そもそも自分は、真に祈ったことがあったのだろうか。
知らず、シャルルの手は懐のロザリオに触れていた。恐る恐るとだ。冷たさと硬さが指に痛いようだった。どうあっても手に馴染まない。
「……エティエンヌも、エティエンヌと名乗っていたセシルも、死んだ。どいつもこいつも若い身空で死んでいく。堪らねえや」
「あの同僚の人も? すごく強そうな騎士の」
「この前、ガロンヌ川のほとりで火事があったろ? あん時にけったいな戦いがあって、殉職したらしいや」
「それで、姉ちゃん、あんなにふさぎ込んでたのか」
「ひでえ話だよな、まったくよお」
ギャバンと言葉を交わしながらも、シャルルは右へ左へと視線を彷徨わせた。激情は立ち消えて、奇怪な居たたまれなさに苛まれている。
もう一度頬に触れた。温かい。手首をつかんだ。熱く脈打つ血潮が感じられる。
生きている。その実感より他に縋るものもない。
「おう、白い鳩が飛んでいきやがる。晴れ間の方によ」
言われるままに目で追うと、雲間に白い建造物が覗けた。雲上カタコンペ。スカイウォーカーというゾンビたちが住まうという。
「天の国……」
「あれは違うぞ。あんなもんじゃない。目に見えるもんじゃあ、ないんだ」
ギャバンにたしなめられて、シャルルは慌てて頷いた。頬が熱を帯びている。いかにも不見識なことを口にしてしまったように思った。
それでも、もう一度チラリと空を仰いだ。
本当にゾンビしかいない墳墓であるならば、あそこには死がないということになる。当然、老いも病も別れもないだろう。祈ることも涙を流すこともないだろう。
どんなところかわからないものの、この地上よりもマシなところかもしれない。
そんな風に、シャルルは思った。




