三つの再開・Ⅱ
エティエンヌはベッドから起きたはずだった。我が身に触れ、何ら異常がないという異常を確かめたはずであったのに。
今、身体を開かれている。
医療行為であるはずもない。むしろ畜産業の光景だ。喉元から股ぐらまで一直線に切り裂かれ、皮と脂肪を押し分けられて、内臓という内臓を取り出されていく。
メスを閃かせているのはビニールの防疫服に着ぶくれた男たちだ。その手技は生真面目なまでに丁寧で、切り分けた肉の一片、吸い上げた血の一滴すらも捨てやしない。銀のトレイに乗せ、ガラスの試験官に容れ、細かに保管していく。
そんな解体作業を見下ろしているのだ、エティエンヌは。
ありえない視界だった。鏡に反射しているというわけでもない。何しろ、既に眼球は二つともビーカーの中に沈んでいるのだから。
伽藍洞となった腹腔の奥に脊髄が覗けた。そこへ、太い注射針が突き刺さる。ゆっくりと掛け替えのないものが吸引されていく。介添えに差し込まれたガーゼが血油や体液を吸う。白に沁み込んだピンク色をも惜しむのか、それも保管される。
ゴクリと喉が鳴った。エティエンヌではない。施術する誰かが生唾を呑んだのだ。分厚い手術用ゴーグルの奥で、幾対もの目が、欲望にギラついている。
メスが、ノコギリが、次の獲物へと向かう。頭蓋だ。切っ先が震えている。どういうつもりか。まるでフォークとナイフだ。中身を狙っている。一個の人間を、こうまでして、食べ尽くす気なのだ。
それが、人間の、やることか。
「やめろ!!」
振り回した拳が宙を薙いだから、エティエンヌはすぐに手で手に触れた。ある。腕が、身体がある。青白い入院服を着てベッドに座っている。
夢を見ていたのだろうか。べっとりと汗ばんだ額をぬぐい、エティエンヌは深呼吸をした。薬物の臭いが鼻の奥に刺々しい。吐く息も白い。それで初めて寒さを覚えた。タイルの床も素足で触れると痛むばかりに冷えている。
薄気味悪い部屋だった。手術室のように取り澄ましているものの、血生臭い。それもそのはずで、この場所こそは解体現場だ。腹に触れ、さする。
どこだろうかと思う。病院であるかどうかも疑わしいと。
部屋には時計も窓もなく、扉は分厚い機械制御のものがあるきりだ。押したところでビクともしない。姿見はあったから、エティエンヌは己の形を確かめた。腹も背中も綺麗なものだった。ゆるい入院服から乳房がこぼれ落ちそうになる。
はてと首をひねった。エティエンヌには死んだ憶えがあるからだ。
これも夢か。それとも死の方が夢であったのか。ありそうな話に思えたから、エティエンヌは失笑した。夜を焦がす火災の森で、ドラゴンを一騎打ちの末に討伐し、悪魔の杖に刺し貫かれる……いかにも空想的ではないか。
夢であってほしいとも、思った。
怪物の正体を知った。デヴィッド修道士が人間でなくなっていく様を目撃した。彼は上位命令だと言った。組織的であるということだ。新十字軍の闇……悪夢よりも悪夢らしいおぞましさ。
両親の死を、どう受け止め直せばいい。兄の死についてもそうだ。セシルという名を捨て、戦い続けてきたことの意味もまた。
身をかき抱き、最後に抱きしめたものを思い出した。
マリアはどうしたろうか……そう思うや否やだった。
光が弾けた。目がくらみ、天地がわからなくなって、気づけば炎を見ていた。木々が轟々と燃えている。暗闇を払うのはそればかりではない。輝く剣が掲げられている。神聖さを鎧う騎士たちが、さも誇らしげに隊列を組んでいる。
彼らが囲うのは黒髪の少女……マリアだ。
凛と立つその姿は、夜闇に浸っていてなお怠惰にも安寧にも流されていない。戦火と光剣に照らされているようでいて、それらと真っ向から対立しており、意志と信念をもって自ら光を放っているかのようだ。
灰、煤、血、汗、泥。生々しい諸々に汚れた彼女だけが、神々しい。
その足元に横たわるものを見つけても、エティエンヌはさして動じなかった。己の死体ではあるが、それを見るのは今しがたぶりの二度目であり、しかもさしてグロテスクな有り様ではない―――そう落ち着いていられるのも初めだけだった。
驚くべきことが起きていた。
穿たれた胸が塞がっていく。大きく焼け爛れた背中が、見る間に肌色を取り戻していく。服は炭化し血塗れたままだから、その異様さはハッキリと見て取れる。何かしら、植物の生育を早送りに観察することに似た気味悪さがあった。
これでは、まるで。
まさか、これは。
激しく動揺しながらも、エティエンヌは事態の推移を見守った。騎士たちがマリアを捕らえようとしているからだ。
「勝手なことをするな、繁殖牝馬め」
腕をひねり上げられても、マリアは悲鳴ひとつ上げない。毅然としたままだ。それはしかし武装する者の加虐心を刺激する態度である。騎士の内のひとりが舌打ちし、手を振り上げたが。
「やめて! ひどいことしないで!」
クラリスが飛び出してきた。彼女もまた泥だらけだ。あちこちに傷を負ってもいる。それでも小さな身体でマリアを庇った。震え、涙目でだ。
「命令違反はいかんな、上級騎士」
騎士の列を割って表れたのはピガール・ノワ銀騎長である。ひと際目立つ豪奢な甲冑を着込み、手にはやはり光剣を握っている。
「だがまあ、よかろう。よくぞ止めてくれた。戦場の熱というものは人を悪い意味で酔わせもするからな。同志たちよ、闘志を鎮めよ。こうも完勝したからには、想定外の出来事のひとつやふたつ、笑って受け止めようではないか」
勝利を口にし、やがて凱歌を上げ始めた彼らは、ひどく非現実的だ。夢の中で見る夢のようだ。剣も鎧もピカピカと光るから、移動する様はパレードじみている。
マリアは連行され、エティエンヌの体も運ばれていって、クラリスだけが夜に取り残された。膝をつきすすり泣いている。小さな肩だ。助けたく思ったから、エティエンヌは手を伸ばした。手は見えない。そのつもりになったということだ。
目が、合った。
不可思議を見通すクラリスの瞳が、しっかとエティエンヌを捉えている。つまりは遠見透視の類なのか、これは。それを体験しているのか。
「クラリス!」
呼びかけは虚しい独り言となった。
また寒々しい部屋にいる。伸ばしていた手を戻し、二度三度と握った。筋肉の充実と血液の循環を感じる。熱量が冷気を撥ね退けている。
唐突に右ストレートを放った。思い切りだ。
「……私は、生きている?」
エティエンヌはさらに拳を振るった。ジャブ、ジャブ、フック、アッパー。もとより拳闘は得意とするところだが、こうも鋭く風を切ったろうか。
「それとも、死を失った?」
身をひるがえらせて、ハイキック。蹴り終えた体勢からゆっくりと直立へ戻していく。身体の隅々にまで活力がみなぎっている。
「マリア、お前は……」
腕をつかむ。爪を立て、皮膚へ突き刺す。滲み出た赤色は指に残るも、腕はすぐさまに傷を塞いだ。もう跡形もない。
込み上げる吐き気を噛み潰した。扉を蹴りつける。手近な機器を叩き壊す。
ああ、もはや。
エティエンヌは立ち尽くした。打ち身も骨折も、痛む端から癒えていく。
「……お前は、私に、何を望んでいるんだ?」
独白だ。誰に返答を期待したわけでもなかった。
しかし再びの光が視界に炸裂した。
空から街を見下ろしていた。建物が雑多に並び、どれも汚れている。街路樹と雑草の区別もあいまいだ。それらの隙間を行き交う雑踏は忙しない。エティエンヌは海の底を連想した。岩場に群れる海藻や魚介のようだと思ったのだ。
潜る……いや、降りていく。人通りもない裏路地の暗がりへと。
クラリスが仰向けに倒れていた。
顔面蒼白だ。それもそのはずで、背にする地面は赤々と染まっている。胸と腹に衣服の破れがあって、複数発の銃創と察せられた。
もう、助からない。後は死を待つばかりだ。
「善き人よ」
声が発せられた。男の声だ。エティエンヌはそれに奇妙な懐かしさを覚えたが。
「我々は貴女の行いの尊きことを認めた。それゆえにひとつの権利を与えよう」
身震いした。声音どころではなくなった。とてつもなくおぞましいものを聞かされようとしている。
「汝、不死を得て雲上へと昇ることを望むや否や?」
言った。やはりだ。その内容の卑劣さに、エティエンヌは激怒した。許しがたかった。死に瀕した者の足元を見るような提案……悪魔の誘惑そのものではないか。
そら、クラリスが泣いている。哀しいまでに弱々しい、その涙。
エティエンヌは叫んだ。
「ふざけるなっ!」
叫んだことで、エティエンヌは己を取り戻した。首を振り、瞬きを繰り返し、指を眼窩にねじ込もうとしたところでそれを踏み止まった。
「こんなもの、奇跡であるものか! こんな透視……こんなにも押しつけがましい映像などは、詐術だ! 私を馬鹿にしているぞ!」
エティエンヌは天井を見上げた。その先に浮かんでいるに違いない、雲上カタコンペを睨みつけたかったのだ。
戦意が湧き出ずる。闘争心が燃えたぎる。
そして、手は得物を欲していた。ここには一丁の銃とてなく、小さな刃物すら見当たらなかった。




