三つの再開・Ⅰ
ひどいところだと、マリアは心から思った。
硬い大理石の床には、四角四面の紋様が無慈悲なまでに整然と並んでいる。そのくせ電化製品の配線が淫靡にのたくってもいて、それらはヘビのごとくに豪奢なテーブルクロスの裾へと潜りこんでいくのだ。隠しきれない悪徳のようにして。
四方の壁には荘厳な宗教画だ。数えきれないほどの聖人が思い思いに世を憂い、悪行を嘆き、善行を讃えている。大仰な正しさ。どの表情にも後ろめたさがない。
天井は高い。ひどく高い。
城塞のようなシャンデリアが煌々と光を放っている。科学の力による露骨な明るさだ。地下深くに違いないここを隅々まで照らし、矮小ながらも一つの世界を誇示しているのかもしれない。どこまでもおごり高ぶって。
「聞いておるのか」
脂ぎった声と木槌の打撃音に、マリアはゆっくりと応じた。
黒い衣を着込んだ男たちが長テーブルに居並び、わざとらしいまでの厳めしさを表情で示している。背後に描かれた者たちに相似した姿形だ。クリスタルガラスの水差しが、照明をはね返してチカチカと明滅する。
「威儀を正すのだ。この場に相応しいように」
返事はせず、マリアは目の前の台に目をやった。証言台だ。紙一枚の資料もなければペットボトル一本の水もない。
「当法廷を軽んずべからず……よいな?」
法廷。これが。
マリアは公平性について思い、批判すべき数多の事柄を考えつくも、吐息ひとつで理屈を放り捨てた。バカバカしくなったのだ。
宗教裁判だ、これは。
ここは新十字軍の本部施設である。囚われてから幾日経ったのかも曖昧だった。電灯のオンとオフで管理されたこの地下空間には時計も掲示されていない。思いついたように取り調べや検査がある。それらがない間に就寝や食事を強いられる。
人権を尊重されていないのだ。法の下の平等などあるわけがなかった。
「問おう。お前はどうして自分がここにいるのか、わかっておるのかな?」
「人間の不法のために」
その回答は男たちを鼻白ませたから、マリアはまたぼんやりと部屋を見渡した。壁の絵は情報量が多いもののどこか物足りない。何かしら救いがない。
はたと気づいた。定番の題材が足りない。天使や精霊が描かれていない。
その理由は容易く察せられたから、マリアは言葉を重ねた。
「そして天上の不正のために」
腹をさする。命の拍動と重量が在る。在らせたのはスカイウォーカーだ。空に居座る不死たちだ。聖性を演じながらマリアの胎に種を仕込んだ。少女であることを殺され、母となることを強いられている。
いや、それどころか……生命の理までも歪められたのだ。
マリアは両の手を握った。それだけでジワリと濡れる感触がある。血。手の平の痣からにじみ出るこれが人を、化物を狂わせるのだ。そう知ってしまった。
火炎が思い出される。夜の森に響き渡る竜の咆哮。
ステッキを弄ぶランドウォーカーは随分と勝手なことを言っていた。下品な欲望をたぎらせた眼光と口舌には身の毛がよだった。恐れたのではない。汚らわしさに慄いたのだ。
「それに地上の不浄のためにも」
三つの理由は、それぞれに度し難く思われた。どのひとつもマリアの人格を無視している。三つの思惑が絡み合うようにマリアを捕らえ、寄ってたかってマリアを利用し、欲望を満たそうとしているだけなのだ。
「―――私はここにいます。不埒な扱いを受けています」
ふつふつとたぎりはじめた憤りが、マリアの声を震わせる。呼吸すら震える。
「原因をひとつに絞るのなら……私の不運……それだけのことかもしれません」
吐き捨てるように言った。全ての始まりにも思える、あの日あの時の教会……聖書の逸話を模倣したかのような受胎告知の演出……羽を生やしたスカイウォーカーへ向けた言葉だった。
「私だけではなく誰も彼も不幸です。不死という不自然に呪われてしまって」
マリアは目蓋を閉じた。思い出されるとてつもない日々。悪夢のような汚らわしさの中で、唯一、美しい記憶があった。それは男装の女性の形をしている。
エティエンヌ・ロワトフェルド。
友だ。彼女だけがマリアを利用しようとしなかった。何ら見返りを求めずに死地へと身を投げ出し、倒れた。敵に敗れたのではない。自らの力を使い尽くしただけだ。力尽きてなお、彼女の尊厳は輝いていた。
「人間は、もっと、貴いはず。在るがままに聖なるはずなのに―――」
マリアはエティエンヌの輝きに希望を見た。踏みにじられるままにさせるなど我慢ならなかった。
そして、一つの罪を犯した。己の血を与えるという罪を。
「―――暗黒です。天も地も人も、夜よりも濃く、塗りこめられています」
この罪は祈りでもあった。闇の中、光在れかしという願いだ。
だからマリアは手の指を祈りの形に組む。エティエンヌは自分を恨むだろうし、殴られもするかもしれない。それでも後悔はない。ただ会いたかった。
耳に、ボソボソと男たちが蠢動する音を聞く。干からびたような咳、水塊を呑むような嚥下、こそ泥のような手探り……不安そうな視線が行き交い、五十絡みのひとりへと集まった。
マリアはその男を知っていた。金騎長ジャック・D・コナーだ。神学校への入学に前後して挨拶を交わしたことがあった。
「まあ、聞きなさい。我々も君を困らせたくて集まったわけではないんだ」
そう言う当人は困った様子だ。微笑みに苦労が張り付いている。それは誠実さの表れかもしれないが、マリアは追従しなかった。睨みつける。
「……故郷を捨ててより、私は困らなかったことなど一度もありません」
「うむ。誰にとっても苦しい時代だ。何事も十全というわけにはいかないよ」
「なだめすかすような言い方ですね。私は子どもではないのに」
やさしい男なのだろう。しかし権力に座している。マリアを拘束する側にいて、エティエンヌの所在はおろか具合や様子も教えようとしない。
「無論、子どもではない。君は聖母だ。周りは聖母としての君を求めている」
「従順であれという意味なら、言葉を飾らず、繁殖牝馬と呼べばいいでしょう。家畜のように黙れ、あるいは鳴けとでも」
「そのようなことは」
「そのようなものでしかありません。やれ悪魔と取引をした、やれ聖餠を汚した、やれ森で踊った……連日、愚にもつかない疑惑を並べ立てるばかりで」
「……告発があったのだ。我らはそれを確かめなければならない」
「いいえ、この問答は無意味です。なぜならここに証人が呼ばれたことはなく、私の言葉を記録する者もいないのですから。ただ、その場その場で思いついたようなことを言い聞かせられるばかりで―――」
言っていてハタと気づいた。男たちを睨みまわし、気弱げな目という目に後ろめたさを感じ取った。
「―――手慰みでしかないのですね、これは」
嫌悪感がこみ上げて、マリアの身体をわななかせた。
「あなたたちには何をするつもりもない……全てが茶番……のらりくらりと法廷ゴッコをして、私をここに押し込めておきたいだけなのでしょう」
反論のないことが嘆かわしかった。まるで叱られた子どものような男たちだ。
「それは……なぜ?」
問うても答えは返ってこない。それでもマリアは問う。
「何を、誰を恐れているのかしら。スカイウォーカー? ランドウォーカー? 不死人たちに怯えて地下に潜んでいるだけ? 光る剣を誇らしげにしていた、あの、恥も恐れも知らない騎士団はどうしたというのでしょう」
黒衣が虚しく皺を寄せる。どの一人もマリアと視線を合わせられやしない。
「……今日はここまでにしてはどうかな」
ため息のような言葉と、それにすがりつくような賛意。男たちは疲れ果てていて、一様に老いさらばえている。
「また、話を聞こう。まだ、我々には時間がある。こうしている内は、まだ」
男たちが逃げていく。やはり、何かを恐れている。
マリアは弱々しい背を見送った。刑吏にうながされてもなお、やり場のない憤懣に縛られ、立ち尽くしていた。




